2010年05月22日
Kanon問題追記の追記:というか締め
おとといツイッターでつぶやいたpostからのコピペ。
「今書いててはっと気付いたんですが、Kanon問題は、ひょっとして「正しい」という言葉のニュアンスが違うだけなんじゃないですかね?私の中では正しさは並立します。なので「唯一の正解が導けないのならば、残りの解は全て誤答である」といった考え方、さっきまで本当に理解できなかったんですよ。つまり決定的な解=正しい、が証明できなければ全て正しくない、という前提に立つのならば、「正しさは複数ある」の方向ではなく、「完璧な正解が無い以上、それ以外の推論は全て間違い」という方向に思考が進むのは、理解できます。承服はしかねますが。
一応、その上で改めて書きますが、私は決定論的解釈が「正しい」と思っています。作品としての完成度を考慮して。ただし、唯一解であるとは思っておりません。そして、遡及説が正しい可能性は認めます。私がそう解釈するのは苦しい、と個人的に思っているだけで、説そのものは否定しません。この態度表明、私は最初の記事の冒頭に書いたつもりだったんだけどなぁ。まあ、正しさが並立するかしないかなんて些細な問題だと思うんですよ。これで解決するなら、私は今日ブログを更新せずに済むんですが。」
さらに、昨日つぶやいたpost。
「そういえば、Kanon問題について昨日のpostからほとんど動きが見えないんですが、あれで終わりでいいんですかね。私が終結宣言すると、近衛文麿の某声明と同じになっちゃうので、なんとなく嫌なんですけど。終わりなら終わりでそれでもいいんですけど、昨日のつぶやきを元にしつつ、明日か明後日にでもブログ書きます。ふんぎりをつけるためだけに。なにかあるなら今のうちにお願いします。」
さて、おとといのpostからは約42時間、昨日のpostからでも16時間経過した。結局近衛文麿の某声明になってしまいそうなのだが、返事がなかったものは仕方が無い。少なくとも、今木さんと辺見さんは私をフォローしているので、これらを読んでくれているはずである。ここにさらに付け加えるとすれば、「どちらも正解」ではなく「どちらも別のKanon」という前提に立ったほうが、心情的に遡及説を支持しやすい、ということは直感的に理解できる。が、やはり本質的な差異は無いだろう。さらに言えば、辺見さんが「歴史修正主義者同様」と言ってしまったのも容易に理解できた。が、しかし比喩としては質が悪い。
少しだけ毒を吐くのならば、実は過去になされた議論とは、『Kanon』の作品論から一歩離れたものではなく、かくのごとく二歩以上離れたものではなかったか。もしこの疑念が正しいのであれば、この話題が定期的に出現する責任の所在は、もちろんよく読まずに入ってくる新規の決定論者の側にもあるが、遡及説側の反論にも問うことはできるだろう。今後があるのかどうかは知らないが、次からは「新規の決定論者側が、自説を唯一解だと思っているかどうか」を相手に尋ねてから、始めてみてはどうだろうか。そこで頷くようならそこから今までのごとく諭せばよいし、そうは思ってないようなら、論争する価値をあまり見出せない。この疑念が正しくなかったのであれば無用な疑いをかけたことについて先回って謝っておくが、しかしその場合、尚更10年も続いている理由がまったくの不可解になる。
締めとは書いたが、ツイッター上で聞かれれば答えられる範囲で答えることはしたいし、例のtogetterに追加しておいてくれれば、しばらくは張り付いて読んでおく。
また、私自身ではなく、ありがたいことにこの一連の流れをずっと追ってくれていた友人たちから入った指摘・意見も一応転載しておき、本当に終わりとしたい。これらに関しては、私に聞かれても反論できるとは限らない、あしからず。まあ、当人らに「どうなん?」とは聞きますけど。
>プレイヤーの勝手で一々過去を改変させられるほうが、キャラにとってはよほどかわいそうじゃね?傲慢じゃね?自分が選ばなかったからヒロインが死ぬ。 それは嫌だから過去ごと改編って。
驚いたことに、これに関しては個別に3人の口から出てきた。私はその観点については、まったく考えてなかった。だがまあ、個人的にはあまり興味が無い論点。
>Kanon以外の、もっとバッドエンドしかない作品に対してはどういう態度になるんだろう?あと、途中の過程で不幸なのは別にいいのかな。
あ、これは俺もけっこう気になるかも。仮にその通りなら、単純なハッピーエンド主義者ってことになるが、今までの論争を見ている限りそう単純なものでもないわけで、態度が今ひとつ不明瞭ではある。
>「明示されてなければ全ての解釈は誤り」及び「遡及説」をとった場合、推理小説を中心にかなりの小説・漫画は娯楽として成立しなくなるような気がするんだけど……たとえば、コナンの殺人犯半分くらい無罪扱いにできるんじゃね。
これは私DG-Law自身がコナンを読んでないし、あまり推理小説も読んでないのでなんとも言いかねる。というかこれ、ほとんど六軒島的な何かな議論ですよね。赤字で宣言されていない限りは死んだふり、だとか。その意味では、遡及説側の『ひぐらし』『うみねこ』評価は若干気にならなくもない。私は『ひぐらし』も『うみねこ』もそれなりに高評価している。『うみねこ』はEP6でぐっとおもしろくなった。
「今書いててはっと気付いたんですが、Kanon問題は、ひょっとして「正しい」という言葉のニュアンスが違うだけなんじゃないですかね?私の中では正しさは並立します。なので「唯一の正解が導けないのならば、残りの解は全て誤答である」といった考え方、さっきまで本当に理解できなかったんですよ。つまり決定的な解=正しい、が証明できなければ全て正しくない、という前提に立つのならば、「正しさは複数ある」の方向ではなく、「完璧な正解が無い以上、それ以外の推論は全て間違い」という方向に思考が進むのは、理解できます。承服はしかねますが。
一応、その上で改めて書きますが、私は決定論的解釈が「正しい」と思っています。作品としての完成度を考慮して。ただし、唯一解であるとは思っておりません。そして、遡及説が正しい可能性は認めます。私がそう解釈するのは苦しい、と個人的に思っているだけで、説そのものは否定しません。この態度表明、私は最初の記事の冒頭に書いたつもりだったんだけどなぁ。まあ、正しさが並立するかしないかなんて些細な問題だと思うんですよ。これで解決するなら、私は今日ブログを更新せずに済むんですが。」
さらに、昨日つぶやいたpost。
「そういえば、Kanon問題について昨日のpostからほとんど動きが見えないんですが、あれで終わりでいいんですかね。私が終結宣言すると、近衛文麿の某声明と同じになっちゃうので、なんとなく嫌なんですけど。終わりなら終わりでそれでもいいんですけど、昨日のつぶやきを元にしつつ、明日か明後日にでもブログ書きます。ふんぎりをつけるためだけに。なにかあるなら今のうちにお願いします。」
さて、おとといのpostからは約42時間、昨日のpostからでも16時間経過した。結局近衛文麿の某声明になってしまいそうなのだが、返事がなかったものは仕方が無い。少なくとも、今木さんと辺見さんは私をフォローしているので、これらを読んでくれているはずである。ここにさらに付け加えるとすれば、「どちらも正解」ではなく「どちらも別のKanon」という前提に立ったほうが、心情的に遡及説を支持しやすい、ということは直感的に理解できる。が、やはり本質的な差異は無いだろう。さらに言えば、辺見さんが「歴史修正主義者同様」と言ってしまったのも容易に理解できた。が、しかし比喩としては質が悪い。
少しだけ毒を吐くのならば、実は過去になされた議論とは、『Kanon』の作品論から一歩離れたものではなく、かくのごとく二歩以上離れたものではなかったか。もしこの疑念が正しいのであれば、この話題が定期的に出現する責任の所在は、もちろんよく読まずに入ってくる新規の決定論者の側にもあるが、遡及説側の反論にも問うことはできるだろう。今後があるのかどうかは知らないが、次からは「新規の決定論者側が、自説を唯一解だと思っているかどうか」を相手に尋ねてから、始めてみてはどうだろうか。そこで頷くようならそこから今までのごとく諭せばよいし、そうは思ってないようなら、論争する価値をあまり見出せない。この疑念が正しくなかったのであれば無用な疑いをかけたことについて先回って謝っておくが、しかしその場合、尚更10年も続いている理由がまったくの不可解になる。
締めとは書いたが、ツイッター上で聞かれれば答えられる範囲で答えることはしたいし、例のtogetterに追加しておいてくれれば、しばらくは張り付いて読んでおく。
また、私自身ではなく、ありがたいことにこの一連の流れをずっと追ってくれていた友人たちから入った指摘・意見も一応転載しておき、本当に終わりとしたい。これらに関しては、私に聞かれても反論できるとは限らない、あしからず。まあ、当人らに「どうなん?」とは聞きますけど。
>プレイヤーの勝手で一々過去を改変させられるほうが、キャラにとってはよほどかわいそうじゃね?傲慢じゃね?自分が選ばなかったからヒロインが死ぬ。 それは嫌だから過去ごと改編って。
驚いたことに、これに関しては個別に3人の口から出てきた。私はその観点については、まったく考えてなかった。だがまあ、個人的にはあまり興味が無い論点。
>Kanon以外の、もっとバッドエンドしかない作品に対してはどういう態度になるんだろう?あと、途中の過程で不幸なのは別にいいのかな。
あ、これは俺もけっこう気になるかも。仮にその通りなら、単純なハッピーエンド主義者ってことになるが、今までの論争を見ている限りそう単純なものでもないわけで、態度が今ひとつ不明瞭ではある。
>「明示されてなければ全ての解釈は誤り」及び「遡及説」をとった場合、推理小説を中心にかなりの小説・漫画は娯楽として成立しなくなるような気がするんだけど……たとえば、コナンの殺人犯半分くらい無罪扱いにできるんじゃね。
これは私DG-Law自身がコナンを読んでないし、あまり推理小説も読んでないのでなんとも言いかねる。というかこれ、ほとんど六軒島的な何かな議論ですよね。赤字で宣言されていない限りは死んだふり、だとか。その意味では、遡及説側の『ひぐらし』『うみねこ』評価は若干気にならなくもない。私は『ひぐらし』も『うみねこ』もそれなりに高評価している。『うみねこ』はEP6でぐっとおもしろくなった。
一応、現時点でtogetterで増えていたものへの応答もしておきたいと思います。
>Kanonで全員が助かってると思い込みたい人の心性って邪悪だと思います、
>って言ってる人も結構いると思うんですよね。巷には。
>俺は、精読して判断をつける、と言う方向の議論を避けてますし、心性にツッコむ気はないですが。
>この人の議論は、この人の感性における美的選択という意味で一貫してるのでありだと思う。
>貴方を倫理観で作品をさばいているとして批判しているつもりはありません
時系列的には離れているけど、二つとも高橋直樹さんのpost。で、これらの発言を遡及説の側の有力な一人から言っていただけただけでも、私は相当に報われますし、この議論を始めたかいはありました。なぜ遡及説を採らなければあしざまに言われるのかは、この議論を始める前には本当に不可解だったし、それは「どちらも別のKanon」という前提から実質的には離れたものなのではなかったかと。キリスト教圏の奇跡についての取り扱いについては、言えることがないわけではないですが、今回の議題とはあまりにも離れたものになるため差し控えます。しかし、安い奇跡で納得する人がいるということは承服しております。
>なんだろう、久弥とかいうわかってない奴がいなくなってkeyはぐっとマシになったねって言えばいいんじゃないかな、この人は。
意味不明です。そもそも、設定のすり合わせが不十分だったのかなんだかは知らないんですが、舞と真琴を独立させた奇跡として書いちゃったのはだーまえのほうではありませんか。そのだーまえから『AIR』や『CLANNAD』が出てきたのはおもしろいことだと思いますけど、まああこれは作品史になるので別問題ですね。
>あえて言うなら、「どちらと解釈しても間違いなので、『KANON』の実相としてどちらかの立場を主張することはできない」という意味。
上記の通りです。「正しさ」の定義の問題に過ぎないと判断いたしました。
>真琴、舞の奇跡を、ルールのない陳腐な奇跡、として、Kanonを評価するうえで必要ないものだ、と言われているようで
>舞や真琴を、あゆや栞や名雪と同様に好きな自分としては、そこのところが、個人的に戸惑っている、と言わざるを得ない
それは作品全体としての評価と、個別ルートとしての評価が混同されていると思います。舞・真琴があゆの奇跡と統合されていないことによる瑕疵は作品全体の評価へは影響がありますが、個別ルートの出来自体には影響しません。その上で、私は舞ルートの場合若干の超展開と言わざるをえないとしても、真琴ルートはいい出来だったと思ってますよ。ちなみに全然関係無いですけど、私の"初ギャルゲ""初ルート"であり、本格的に無口っ子好きを開花させた犯人であるのが川澄舞だったりします。
>ところで、Kanon「的」問題における、あずまんの見解。「CLANNAD」を例に出してるけど>http://tinyurl.com/czqntu
この中で「渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。」思いっきりこう言ってるってことは、彼は決定論でいいってことですかね。
>Kanonで全員が助かってると思い込みたい人の心性って邪悪だと思います、
>って言ってる人も結構いると思うんですよね。巷には。
>俺は、精読して判断をつける、と言う方向の議論を避けてますし、心性にツッコむ気はないですが。
>この人の議論は、この人の感性における美的選択という意味で一貫してるのでありだと思う。
>貴方を倫理観で作品をさばいているとして批判しているつもりはありません
時系列的には離れているけど、二つとも高橋直樹さんのpost。で、これらの発言を遡及説の側の有力な一人から言っていただけただけでも、私は相当に報われますし、この議論を始めたかいはありました。なぜ遡及説を採らなければあしざまに言われるのかは、この議論を始める前には本当に不可解だったし、それは「どちらも別のKanon」という前提から実質的には離れたものなのではなかったかと。キリスト教圏の奇跡についての取り扱いについては、言えることがないわけではないですが、今回の議題とはあまりにも離れたものになるため差し控えます。しかし、安い奇跡で納得する人がいるということは承服しております。
>なんだろう、久弥とかいうわかってない奴がいなくなってkeyはぐっとマシになったねって言えばいいんじゃないかな、この人は。
意味不明です。そもそも、設定のすり合わせが不十分だったのかなんだかは知らないんですが、舞と真琴を独立させた奇跡として書いちゃったのはだーまえのほうではありませんか。そのだーまえから『AIR』や『CLANNAD』が出てきたのはおもしろいことだと思いますけど、まああこれは作品史になるので別問題ですね。
>あえて言うなら、「どちらと解釈しても間違いなので、『KANON』の実相としてどちらかの立場を主張することはできない」という意味。
上記の通りです。「正しさ」の定義の問題に過ぎないと判断いたしました。
>真琴、舞の奇跡を、ルールのない陳腐な奇跡、として、Kanonを評価するうえで必要ないものだ、と言われているようで
>舞や真琴を、あゆや栞や名雪と同様に好きな自分としては、そこのところが、個人的に戸惑っている、と言わざるを得ない
それは作品全体としての評価と、個別ルートとしての評価が混同されていると思います。舞・真琴があゆの奇跡と統合されていないことによる瑕疵は作品全体の評価へは影響がありますが、個別ルートの出来自体には影響しません。その上で、私は舞ルートの場合若干の超展開と言わざるをえないとしても、真琴ルートはいい出来だったと思ってますよ。ちなみに全然関係無いですけど、私の"初ギャルゲ""初ルート"であり、本格的に無口っ子好きを開花させた犯人であるのが川澄舞だったりします。
>ところで、Kanon「的」問題における、あずまんの見解。「CLANNAD」を例に出してるけど>http://tinyurl.com/czqntu
この中で「渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。」思いっきりこう言ってるってことは、彼は決定論でいいってことですかね。
Posted by dg_law at 14:15│Comments(0)│