2010年06月05日
カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(3):人生と画業の遍歴・前編
コペンハーゲン・アカデミーを1799年、25歳で卒業したところから再開。ここからフリードリヒは学生ではなく画家に身分を移すことになるが、実際のところコペンハーゲン時代から絵を売って生計を立てていたようだし、明確な区分があるわけではない。便宜的に卒業と言ってみたところで、次の在籍先は結局ドレスデンのアカデミーになるのだから(しかも別に教師として招聘されたわけではない)、身分は不明瞭である。
いずれにせよ、彼はドレスデンに移り住んだ。wikipedia参照の通り、ドイツ中央部に位置し、チェコ(ボヘミア)との国境付近にあたる。ザクセン公国の首都であり、ザクセン公国といえば神聖ローマ帝国内ではオーストリア・プロイセン・バイエルンに次ぐ比較的大規模な公国である。選帝侯でもあり、神聖ローマ帝国建国当初から存在する。歴代当主は伝統的に学芸・文化を奨励し、ルターをかくまっていち早く新教に乗り換えたという歴史もあれば、中国陶磁器にはまりこみ、その復元に情熱を注いだ結果マイセン磁器が誕生したという歴史も持つ。
そんなザクセン公国の当主様が、ここ3代ほどはまり込んでいたのが絵画であり、中でも風景画であった。現在でもドレスデン美術館のコレクションと言えばヨーロッパでも一線級のものの一つだが、フリードリヒが訪れた18世紀末の時点でそのかなりの部分は完成されていた。一般的にはラファエロ、ジョルジョーネ、フェルメール、プッサン、デューラー、クラナハが紹介されるようだ。
しかし、やはりフリードリヒ研究という観点からは、ヴェネツィアの景観画(ヴェドゥータ)で有名なベルナルド・ベロットの作品が多数所蔵されていたということに注目せねばなるまい。ドレスデンは自らをヴェネツィアに比し、長い時間をかけて自らの景観に磨きをかけてきた。と同時に、歴代のザクセン公はヴェドゥータに比す都市景観画をドレスデンを舞台に描くよう、画家たちに募集をかけていた。こうして、ドレスデン・アカデミーはパトロンの意向により、自然と風景画王国となっていった。ドレスデン・アカデミーには、ヴェドゥータからその描法だけでなく「現地を美しく描く」という精神を学び取っていた。(なお、より詳しいドレスデン絵画史を知りたければ、アレクサンダー・ティーレ、アードリアン・ツィンク、クリスティアン・クレンゲルあたりを調べるとよいだろう。最も、ドイツ語文献以外は存在しないが。)
このような環境に、フリードリヒが憧れたのは言うまでもあるまい。彼は、滞在許可をザクセン公に申請する手紙の中でこう述べている。「暫くベルリンに滞在し、そこで芸術に勤しんだ後、18年前に選りすぐりの芸術作品の近くで、その美しい自然に囲まれて制作を継続するためにこのドレスデンにやってきました。」すなわち、彼はドレスデン自身の持つ都市景観の美しさと、所蔵する風景画の両方を評価して、ドレスデンを選び取ったのだ。
実のところフリードリヒ自身、自らの真の画風が売れ線ではないことを自覚しており、本格的にロマン主義画家として活動を始める1808年頃までは、ヴェドゥータ的景観画を描いて生計を立てていた。腕の良さは早くから認められており、ドレスデンでは名の知れた人気画家であったという。ヴェドゥータというと、美化はするにしても基本的に都市をそのまま描くものであり、後の人工的な風景画とは相容れない。しかし、生活のためとはいえけっこう長期間ヴェドゥータを描き続けていたことを考えるに、ヴェドゥータに対してはそれほど抵抗感が無かったのかもしれない。
いずれにせよ、彼はドレスデンに移り住んだ。wikipedia参照の通り、ドイツ中央部に位置し、チェコ(ボヘミア)との国境付近にあたる。ザクセン公国の首都であり、ザクセン公国といえば神聖ローマ帝国内ではオーストリア・プロイセン・バイエルンに次ぐ比較的大規模な公国である。選帝侯でもあり、神聖ローマ帝国建国当初から存在する。歴代当主は伝統的に学芸・文化を奨励し、ルターをかくまっていち早く新教に乗り換えたという歴史もあれば、中国陶磁器にはまりこみ、その復元に情熱を注いだ結果マイセン磁器が誕生したという歴史も持つ。
そんなザクセン公国の当主様が、ここ3代ほどはまり込んでいたのが絵画であり、中でも風景画であった。現在でもドレスデン美術館のコレクションと言えばヨーロッパでも一線級のものの一つだが、フリードリヒが訪れた18世紀末の時点でそのかなりの部分は完成されていた。一般的にはラファエロ、ジョルジョーネ、フェルメール、プッサン、デューラー、クラナハが紹介されるようだ。
しかし、やはりフリードリヒ研究という観点からは、ヴェネツィアの景観画(ヴェドゥータ)で有名なベルナルド・ベロットの作品が多数所蔵されていたということに注目せねばなるまい。ドレスデンは自らをヴェネツィアに比し、長い時間をかけて自らの景観に磨きをかけてきた。と同時に、歴代のザクセン公はヴェドゥータに比す都市景観画をドレスデンを舞台に描くよう、画家たちに募集をかけていた。こうして、ドレスデン・アカデミーはパトロンの意向により、自然と風景画王国となっていった。ドレスデン・アカデミーには、ヴェドゥータからその描法だけでなく「現地を美しく描く」という精神を学び取っていた。(なお、より詳しいドレスデン絵画史を知りたければ、アレクサンダー・ティーレ、アードリアン・ツィンク、クリスティアン・クレンゲルあたりを調べるとよいだろう。最も、ドイツ語文献以外は存在しないが。)
このような環境に、フリードリヒが憧れたのは言うまでもあるまい。彼は、滞在許可をザクセン公に申請する手紙の中でこう述べている。「暫くベルリンに滞在し、そこで芸術に勤しんだ後、18年前に選りすぐりの芸術作品の近くで、その美しい自然に囲まれて制作を継続するためにこのドレスデンにやってきました。」すなわち、彼はドレスデン自身の持つ都市景観の美しさと、所蔵する風景画の両方を評価して、ドレスデンを選び取ったのだ。
実のところフリードリヒ自身、自らの真の画風が売れ線ではないことを自覚しており、本格的にロマン主義画家として活動を始める1808年頃までは、ヴェドゥータ的景観画を描いて生計を立てていた。腕の良さは早くから認められており、ドレスデンでは名の知れた人気画家であったという。ヴェドゥータというと、美化はするにしても基本的に都市をそのまま描くものであり、後の人工的な風景画とは相容れない。しかし、生活のためとはいえけっこう長期間ヴェドゥータを描き続けていたことを考えるに、ヴェドゥータに対してはそれほど抵抗感が無かったのかもしれない。
フリードリヒはドレスデン・アカデミー到着後、2つ重要な出会いをしている。一つは、ドイツ・ロマン主義もう一人の代表者ルンゲである。ルンゲは1801年から3年程ドレスデンで近所に住み、その後も1810年にルンゲが死ぬまで親交があった。彼らが並び称されるのは、両者ともにスウェーデン領ポンメルン出身の敬虔なルター派・コペンハーゲン・アカデミーを経由という点を共通して出発点とし、「宗教的感情を宗教的モチーフ以外で表現する」というまったく同じところに到達したからだ。この点が友情を固いものにしていたのではないかと思われる。
にもかかわらず、具体的な影響関係については意外と言及されない。それもそのはずで、ルンゲの関心は人物画に向けられていた上に、ルンゲの目標は宗教的共同体のための芸術というものであったため、多分に個人主義的なフリードリヒとは相容れない。ここからわかる通り、ルンゲの側は汎神論には至っていなかった。ここが最大の相違点であろう。フリードリヒは確かに政治的活動をしたが、それは民族主義的感情を発端とするものであった。対してルンゲは明確に市民の宗教的意識・精神世界の変革を訴えており、ある意味ではルンゲのほうがよりラディカルな思想家だったといえる。また、フリードリヒの思想はすでに完成段階に入っていたため、フリードリヒ側からするとそれほど言及するべきところがない。ただし、逆は大いにありうる。ルンゲのほうが歳若く、彼はいまだ思想形成途上であったからだ。
もう一人はゲーテである。ゲーテは当時一流の大文学者であっただけでなく、隣国ヴァイマール公国で宰相をしていた。ゲーテは腕の良い画家としてフリードリヒに目をかけており、フリードリヒは数少ない自分の真の姿を見抜いているものとして敬意を払っていた。こんなエピソードがある。1805年、ゲーテの勧めでフリードリヒはヴァイマール芸術協会のコンペに参加、2枚の素描が入賞し、懸賞の半分(60ドゥカーテン)を受け取った。しかし、懸賞のテーマが「ヘラクレスの偉業」であったにもかかわらず、フリードリヒは風景素描2点を提出しており、実質芸術協会を取り仕切っていたゲーテのごり押しで入賞したようなものだった。他の参加者涙目である。なお、60ドゥカーテンというとかなりの高額である。単純比較はできないが、2〜3ヶ月は遊んで暮らせたんじゃないだろうか。
しかし、同時にゲーテはフリードリヒの真の姿を恐れており、先鋭的過ぎるものとして憂慮していた。ゲーテは若い頃こそ疾風怒濤の先駆者でロマン主義の開拓者であったかもしれないが、壮年期以降はフリーメイソンなどロマン主義的要素を引きずりつつも、古典主義へと回帰していた。それに逆行してロマン主義へと突き進むフリードリヒは、さぞ若い頃の自分のようで苦々しく思っていたに違いない。フリードリヒとしても、ゲーテは所詮有力なパトロンの一人であり、思想上の師匠とは見ていなかった。ゆえに、画風を変えてまで付き従うべき相手ではなかった。そしてゲーテにとっては晩年、フリードリヒにとっては最も油が乗っていた時期にあたる1820年代、二人は次第に疎遠になっていく。
フリードリヒはよく旅行をし、スケッチを描き溜めていた。自然と直接向き合い、空気を感じることを重視していたのがその理由の一つである。もう一つ、人工的な風景を構成するには、それだけ多くのパーツのストックが必要であったということだ。この時期のフリードリヒは、思想が固まり、いよいよ芸術家として飛翔すべく、その具体的な準備をしていた時期であった。特に、故郷グライフスヴァルトからバルト海へ出てすぐ、ドイツ最大の島であるリューゲン島にはしばしば足を運び、ある日は嵐の中のリューゲン島を散策していたという。もう一つよく行った場所が、ドレスデンから近いボヘミア山地・リーゼンゲビルゲであった。砂岩質でなだらかな丘陵が続く美しいこの風景はフリードリヒお気に入りの土地で、ほとんどの作品に、ボヘミア山地出身パーツが含まれる。フリードリヒのカタログレゾネを見ると、《リーゼンゲビルゲ》とだけ題された作品が非常に多いことに驚かされるだろう。
そうして登場した歴史的作品が、通称《テッチェン祭壇画》(山上の十字架)である。フリードリヒとしては本格的に独立した油彩画家として活動を始めて数点目の作品であった。この作品はボヘミア貴族からテッチェンの教会のための祭壇画として発注され、周囲の棕櫚状の額も含めて全てフリードリヒ本人がコーディネートした。誰がどう見ても発注の祭壇画とは異なる風景画なわけだが、意外にも発注者の貴族は気に入ったらしい。
しかし、世間様はそうは行かず、当時すでに有名であった(ヴェドゥータ画家としてだが)フリードリヒは、慣習に従い、発送前にドレスデンの自らのアトリエで一般公開した。これが激しい論争を巻き起こした。「古典的ヒエラルキーにおいて下賎なる風景画が、祭壇に上ろうとは何たる不遜か」。当然といえば当然だが、当時の大多数の良識ある大人には、フリードリヒの「風景を以って宗教的なるものを描く」という試みが、まったく理解されなかったのである。それは、プロテスタントの街であり風景画の地位が高かったこのドレスデンでさえも同様であった。この論争を、代表的批判者の名前をとってラムドール論争と呼ぶ。ラムドール論争はフリードリヒ自身が作品の解説に乗り出し、さらにゲーテがフリードリヒを応援したことから大いに盛り上がり、フリードリヒの知名度をドレスデンの外へ喧伝したという意義を果たした。以後、フリードリヒはふっきれたように、宗教的・汎神論的風景画を描いていく。
(続く)
にもかかわらず、具体的な影響関係については意外と言及されない。それもそのはずで、ルンゲの関心は人物画に向けられていた上に、ルンゲの目標は宗教的共同体のための芸術というものであったため、多分に個人主義的なフリードリヒとは相容れない。ここからわかる通り、ルンゲの側は汎神論には至っていなかった。ここが最大の相違点であろう。フリードリヒは確かに政治的活動をしたが、それは民族主義的感情を発端とするものであった。対してルンゲは明確に市民の宗教的意識・精神世界の変革を訴えており、ある意味ではルンゲのほうがよりラディカルな思想家だったといえる。また、フリードリヒの思想はすでに完成段階に入っていたため、フリードリヒ側からするとそれほど言及するべきところがない。ただし、逆は大いにありうる。ルンゲのほうが歳若く、彼はいまだ思想形成途上であったからだ。
もう一人はゲーテである。ゲーテは当時一流の大文学者であっただけでなく、隣国ヴァイマール公国で宰相をしていた。ゲーテは腕の良い画家としてフリードリヒに目をかけており、フリードリヒは数少ない自分の真の姿を見抜いているものとして敬意を払っていた。こんなエピソードがある。1805年、ゲーテの勧めでフリードリヒはヴァイマール芸術協会のコンペに参加、2枚の素描が入賞し、懸賞の半分(60ドゥカーテン)を受け取った。しかし、懸賞のテーマが「ヘラクレスの偉業」であったにもかかわらず、フリードリヒは風景素描2点を提出しており、実質芸術協会を取り仕切っていたゲーテのごり押しで入賞したようなものだった。他の参加者涙目である。なお、60ドゥカーテンというとかなりの高額である。単純比較はできないが、2〜3ヶ月は遊んで暮らせたんじゃないだろうか。
しかし、同時にゲーテはフリードリヒの真の姿を恐れており、先鋭的過ぎるものとして憂慮していた。ゲーテは若い頃こそ疾風怒濤の先駆者でロマン主義の開拓者であったかもしれないが、壮年期以降はフリーメイソンなどロマン主義的要素を引きずりつつも、古典主義へと回帰していた。それに逆行してロマン主義へと突き進むフリードリヒは、さぞ若い頃の自分のようで苦々しく思っていたに違いない。フリードリヒとしても、ゲーテは所詮有力なパトロンの一人であり、思想上の師匠とは見ていなかった。ゆえに、画風を変えてまで付き従うべき相手ではなかった。そしてゲーテにとっては晩年、フリードリヒにとっては最も油が乗っていた時期にあたる1820年代、二人は次第に疎遠になっていく。
フリードリヒはよく旅行をし、スケッチを描き溜めていた。自然と直接向き合い、空気を感じることを重視していたのがその理由の一つである。もう一つ、人工的な風景を構成するには、それだけ多くのパーツのストックが必要であったということだ。この時期のフリードリヒは、思想が固まり、いよいよ芸術家として飛翔すべく、その具体的な準備をしていた時期であった。特に、故郷グライフスヴァルトからバルト海へ出てすぐ、ドイツ最大の島であるリューゲン島にはしばしば足を運び、ある日は嵐の中のリューゲン島を散策していたという。もう一つよく行った場所が、ドレスデンから近いボヘミア山地・リーゼンゲビルゲであった。砂岩質でなだらかな丘陵が続く美しいこの風景はフリードリヒお気に入りの土地で、ほとんどの作品に、ボヘミア山地出身パーツが含まれる。フリードリヒのカタログレゾネを見ると、《リーゼンゲビルゲ》とだけ題された作品が非常に多いことに驚かされるだろう。
そうして登場した歴史的作品が、通称《テッチェン祭壇画》(山上の十字架)である。フリードリヒとしては本格的に独立した油彩画家として活動を始めて数点目の作品であった。この作品はボヘミア貴族からテッチェンの教会のための祭壇画として発注され、周囲の棕櫚状の額も含めて全てフリードリヒ本人がコーディネートした。誰がどう見ても発注の祭壇画とは異なる風景画なわけだが、意外にも発注者の貴族は気に入ったらしい。
しかし、世間様はそうは行かず、当時すでに有名であった(ヴェドゥータ画家としてだが)フリードリヒは、慣習に従い、発送前にドレスデンの自らのアトリエで一般公開した。これが激しい論争を巻き起こした。「古典的ヒエラルキーにおいて下賎なる風景画が、祭壇に上ろうとは何たる不遜か」。当然といえば当然だが、当時の大多数の良識ある大人には、フリードリヒの「風景を以って宗教的なるものを描く」という試みが、まったく理解されなかったのである。それは、プロテスタントの街であり風景画の地位が高かったこのドレスデンでさえも同様であった。この論争を、代表的批判者の名前をとってラムドール論争と呼ぶ。ラムドール論争はフリードリヒ自身が作品の解説に乗り出し、さらにゲーテがフリードリヒを応援したことから大いに盛り上がり、フリードリヒの知名度をドレスデンの外へ喧伝したという意義を果たした。以後、フリードリヒはふっきれたように、宗教的・汎神論的風景画を描いていく。
(続く)
Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)