2010年06月07日

カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(5):評価/研究史・周辺の画家

最後に,死後,一時ほぼ完全に忘却されてからどのように復活し,評価されてきたかという歴史と,周辺の画家についてを簡潔に紹介して終わりとする。


評価史について。フリードリヒが発掘されたのは死後60年ほど経過した,20世紀初頭のことである。1906年にベルリンの国立美術館で開催された「ドイツ100年展」がその契機であったとされる。当時ベルリン国立美術館の館長であったフーゴー・フォン・チューディは近代美術の擁護者であり、公的な美術館としては世界で初めてマネの作品を購入し 、同時代のドイツ人画家であるベックリーンやトーマ、クリンガーと交流を持つなど国立美術館の近代化に尽力していた。チューディがどこでどうフリードリヒを発掘したのかは明確ではないが,19世紀末頃から次第に美術雑誌等でフリードリヒの紹介が始まっていたため,経路は複数想定できる。

そしてチューディは,知名度に対して明らかに過大な扱いでフリードリヒを100年展に登場させ、「光と空気の変化の戯れとしての無限の風景の描写が、初めてドイツに出現したのである」と評した。これは明らかにフランス美術との関連性に焦点を当てている 。つまり,フリードリヒのロマン主義を古典主義に対抗するものとして扱い,近代美術の端緒,思想としては象徴主義芸術の,技法としては印象主義の前段階のものとして,積極的な評価を与えた。これらは現代の研究から見て必ずしも間違っていない分析だが,一方でかなり恣意的な評価であるとも言わざるをえない。これには当時,近代芸術において最先端をひた走っていたフランスへの対抗心があったことは言うまでもない。ベルリンをパリと並ぶ前衛芸術の都にしようとしていた,チューディの心情がうかがえる。

しかし1910年代に入るとフリードリヒ作品の愛国主義的な面が強調されるようになっていく。一つはフリードリヒ研究が進みナポレオン戦争に反対した自由主義者であったということが判明したこと。もう一つは戦争の足音が聞こえてきたがゆえに,ドイツ人の民族主義・反仏感情が湧き上がってきていたという時代の変化であろう。実際,1914年には第一次世界大戦が勃発している。チューディの後継者として国立美術館館長となったルードヴィヒ・ユスティが1921年,国立美術館の画集『カスパー・ダーフィト・フリードリヒ』において,「ドイツ的魂のあふれるばかりの内面性」と表現しているのは象徴的な出来事である。以後,後世の研究者が「ナチスの悪用」と表現しているように、第二次世界大戦が終結するまでこのような愛国主義的な解釈が続いていく。ワーグナー同様の被害者であった。いや,フリードリヒには反ユダヤ感情が微塵も無かったであろうことを考えると,ワーグナー以上のとばっちりであった。


しかしナチスによって正常なフリードリヒ研究が捨てられたわけではない。ヘルベルト・フォン・アイネムは1938年に”Caspar David Friedrich”を刊行。これは戦後の1950年に再出版され,記念碑的研究書となった(和訳も存在)。フォン・アイネムは画家の人生や環境、時代背景や技法などから美術作品を分析する立場をとった。一方,カタログレゾネ(全作品集)を作る動きもあり,これはベルシュ=ズーパンにより1974年に完遂される。ベルシュ=ズーパンはフォン・アイネムとは対照的に,徹底して画面に描かれた図像による作品解釈をする立場をとる。すなわち,画家の背景よりも,画面の自然な読解・象徴表現の連結に重きを置いた。レゾネもこのような視点で作られているため,このことを念頭に置いて読まなければベルシュ=ズーパンの恣意的な画面解釈に引きずられることになる。

ただし,戦後になって決してフリードリヒの国際的な知名度が上がっていたわけではない。むしろナチスのせいで不当に低く評価されていたということは指摘されてしかるべきである。たとえば世界的に有名な美術史家の一人ケネス・クラークの大著『風景画論』(1949年)においても、フリードリヒに関する記述は極めて短く、しかもサミュエル・パーマーと比較してより強烈な印象を与える、と評しているのみである。

この状況から変化が見られたのは,レゾネの完成した70年代のことである。まず72年にロンドンのテート・ブリテンで個展が開かれた後、74年にはモスクワ、レニングラード、ハンブルク、ドレスデンで生誕200周年を記念する回顧展があった。日本での78年に国立近代美術館にて展覧会が催された。一応日本においてはそれよりも以前に,東山魁夷がドイツに滞在した際,最も影響を受けた画家の一人として紹介している。現在においてもフリードリヒ研究は、大枠で見ればフォン・アイネムとベルシュ=ズーパンの二大路線に収まっているか,その止揚を目指そうとしている状況にある。すなわち,画家の背景から推定するか,画面の読解を優位に置くか,そしてそれらをいかにすりあわせるか。いずれにせよ,いまだ解釈の定まっていない作品は多く,世界に名だたる巨大な画家としては,まだ開拓の余地がある画家ではあるように思われる。



以下は,フリードリヒ周辺の画家の紹介と,ドイツ・ロマン主義絵画の簡単な流れ。

リンク先画像が全体的に重いのはご容赦いただきたい。

・ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール(1788-1857)
ノルウェー出身。1811年コペンハーゲン・アカデミーに入学,1818年にドレスデンに来て,フリードリヒと親交を持つ。フリードリヒのアトリエに唯一専用の来客用椅子があったほどの友人である。フリードリヒとは崇高概念について共通意識を持ち,かつそれを自然風景で表現するというところまで意識を共有していた。しかし,彼は見たままの風景を出来る限り崇高に描くという手法をとったという点で自然主義に近く,フリードリヒの人工的な風景画とは相容れなかった。晩年にノルウェーに帰国すると一躍画壇の第一人者となり,ドイツのロマン主義を伝道する。ダールの孫弟子(もしくはひ孫弟子)に,エドワルド・ムンクがいる。北欧志向のフリードリヒからしてみれば,自らの画業がノルウェーにしかと伝わったとあれば本望だったのではなかろうか。代表作は《満月(月夜)のドレスデン》(1839年)。


・カール・フリードリヒ・シンケル(1781-1841)
本業は建築家で,プロイセン宮廷お抱えの売れっ子だった。ベルリン王立劇場や,インゼルムゼウムのアルテスムゼウム(旧美術館)などが代表作。画家としては,本質的には新古典主義の範疇を出ないものの,題材としてゴシック様式の大聖堂や廃墟を用いてみたり,フリードリヒの逆光を採用したりとロマン主義的な絵画作品も残している。代表作として,《川沿いの中世都市》(1815年)。


・カール・グスタフ・カールス(1798-1869)
数少ないフリードリヒの正式な弟子の一人。だが本業は医師で,画業はディレッタントとしての活動であった。初期にはフリードリヒとよく似た作風であったが,20年代のビーダーマイヤー期によく適応してセンチメンタルな画風へと変わっていく。加えて筆致が荒く一流の画家とは言いがたい腕前であったため,卒中後のフリードリヒの作品としばしば混同されやすい。代表作として,《峡谷の巡礼者》(1820年)。この頃はまだフリードリヒ様式に近い。


・アウグスト・ハインリヒ(1794-1822)
フリードリヒの愛弟子。早くから画才を認められ,フリードリヒとダールの教えを受けて育った。フリードリヒとダールの様式統合,すなわち人工的風景画と自然主義的風景画を折衷しつつ崇高なるものを表現しようとした。このままドイツ・ロマン主義の大家になるかと思われたが,フリードリヒの消極的反対を押し切ってイタリア旅行に出掛けると,インスブルックで熱病にかかって死去。師にとらわれすぎることなく,開明的であったのが仇となったか。28歳での夭折であった。道程のスケッチ・水彩画は師に託され,《ヴァッツマン山》の完成を見る。ハインリヒ自身の作品はgoogle.deでがんばって検索したが,一件しか出てこなかった。《水浴する人のいる風景》(1820年頃)。これだけ見ても確かにうまい。


・カール・ブレッヒェン(1798-1840)
フリードリヒの弟子の一人。1823年にドレスデン入りしている。しかし,非対称でひしめきあうような画面構成でリヒターに似ているが,シンケルのような古典主義的要素も含む。28年のイタリア旅行以後はベルリンにアトリエを構えた模様。1831年にシンケルの推薦を受けてベルリン・アカデミー風景画の教授に。師を追い越したせいか,この辺りでフリードリヒとの縁は切れている。代表作というか,ドイツ語版wikipediaが詳しいのでそちらを参照のこと。これ絶対専門家が書いただろ……


・フリードリヒ・ケルスティング(1785-1847)
フリードリヒの弟子の一人。1804-5年にコペンハーゲン・アカデミー在籍後,フリードリヒを追うようにドレスデンへ。ナポレオン戦争参加後,1818年までワルシャワの宮廷で線描の講師をやっていた。1818年にマイセン陶磁器の管理責任者に任命されてドレスデンに戻るとフリードリヒに師事。室内画に定評があり,フリードリヒのアトリエを描いている。彼もビーダーマイヤーにもうまく乗っかった画風で,センチメンタルな雰囲気が漂う。これもドイツ語版wikipediaが詳しい。


・エルンスト・フェルディナント・エーメ(1797-1855)
彼もコペンハーゲンから1819年にドレスデン・アカデミーへ。肖像画家としてデビューした後,ダールの紹介でフリードリヒに出会う。その影響で風景を描くようになり,1821年に突如《冬の聖堂》をアカデミーに提出して界隈を驚かせた。そりゃお前肖像画家違うんかいって話なわけで,それもこのようにフリードリヒ風となれば驚くに決まっている。しかし,その後はイタリアに旅行し古典主義によったりして迷走。最終的にカールス的なセンチメンタル・ロマン主義に到達した。作品は例によってドイツ語wikipedia参照。


・クリスティアン・フリードリヒ・ギレ(1805-1899)
ドレスデン・アカデミーに入学するとダールを師事した。ダールの傾向,つまりロマン主義と自然主義の折衷を目指した,忠実なダールの弟子だったといえるだろう。「ドイツのコロー」というあだ名があるようだが,私はドイツ語版wikipedia以外でそのような記述を見たことがない。終生ザクセン地方に居住した。作品探しに苦労したので,習作で勘弁して欲しい。《月光の習作》


・ルートヴィヒ・リヒター(1803-1884)
ドイツ・ロマン主義風景画最後の男ということになってはいるが,実際にはロマン主義→ビーダーマイヤー→自然主義と渡り歩いている。フリードリヒとダールに始まり,ここに挙げてきたような面々の要素を吸収している点では確かに最後の男かもしれない。ドレスデン生まれでそのままアカデミーに入り,イタリア旅行を経験。その際の《ヴァッツマン山》がフリードリヒを刺激したのは既に述べたところである。1837年頃,ドレスデン・アカデミーの風景画家教授に。1873年頃急激に視力を落とし断筆。