2010年06月06日
カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(4):人生と画業の遍歴・後編
ラムドール論争からの続き。もう一度《テッチェン祭壇画》をよく眺めた上で,ラムドールの主張を吟味してみると,彼は決してヒエラルキーへの抵触のみで批判していたわけではないということがわかる。すなわちラムドールの主張とは,
1,歴史画・宗教画を最上とするジャンル別ヒエラルキーへの抵触
2,美的感動ではなく感情を掻き立てるものであること
3,技法上のアカデミーの規則からの逸脱
の3点である。1についてはすでに説明した通りである。2については,当時のカントの「崇高なるものは自然に限定される」という思想が背景にある(シラーやバークはこれにも反対し絵画にも適用される概念だと主張)。そして問題は3についてである。《テッチェン祭壇画》は強い逆光で描かれている上に、そのせいでキリストが黒く影になってしまっている。また岩山に立体感が欠け、そのせいで岩山は空から浮き出ているように見える。これらは当時のアカデミックな風景画からは完全に逸脱した手法であった。このような発想そのものが過去ロイスダールくらいにしかさかのぼれず,あまりにも斬新であった。
しかし,フリードリヒにはアカデミーの規則よりも優先すべきものがあった。《テッチェン祭壇画》を解題すれば以下のようなことになる。すなわち,落日は旧約の父なる神であり,山上のキリストを照らす。よって,鑑賞者の視点からはこのキリストが後光に照らされているように見えなければならなかった。十字架の立つところはペトロを意味する岩でなければならず,鑑賞者の視線の動きが落日→十字架→岩山という順番になるには,岩山を目立たぬよう塗りつぶし平面的なものにしてしまう必要があった。総じて,「神が直接支配する時代から、キリストの恩寵の時代へ,そして人間の時代へ」というテーマを貫き通すには,彼にはこの配置以外考えられなかった。
ラムドール論争の1808年頃といえば,ドイツにとってはそんな論争をしている場合ではない状況でもあった。すなわち,イエーナの戦いとベルリン勅令,神聖ローマ帝国解体に,そしてティルジット条約の締結である。前述のように,フリードリヒの汎ゲルマン民族主義は,反理性主義・反フランスと明確に結びついていた。ゆえに,このような政治状況は屈辱的に感じられた。ラムドール論争による精神的疲労と,政治状況への義憤が,フリードリヒを初のスランプに陥らせたのはまったく不思議なことではない。
08〜13年頃のフリードリヒはしばしば気を紛らわせるように旅行に出掛け,今後の作品のためのスケッチを増やしている。1810年,22歳のショーペンハウアーの訪問を受ける。会話の様子は残っていないが,残っていれば両者にとって一級史料であったに違いない。1810年に《海辺の僧侶》,《オーク林の中の僧院》をベルリン・アカデミー出品。これらがプロイセン皇太子買い上げとなり,ベルリン・アカデミー客員会員として認められた。いよいよ名実ともに,当時のドイツを代表する画家の仲間入りである。ちなみに,1810年頃の自画像。(やや画像重め注意)晴れてアカデミー会員となったフリードリヒは周囲からイタリア旅行をしきりに勧められたが,とにかく北方志向であった彼はイタリア風景の美しさを認めつつも,決してイタリアに足を踏み入れなかった。彼の人生最南端はおそらくボヘミアということになる。
1,歴史画・宗教画を最上とするジャンル別ヒエラルキーへの抵触
2,美的感動ではなく感情を掻き立てるものであること
3,技法上のアカデミーの規則からの逸脱
の3点である。1についてはすでに説明した通りである。2については,当時のカントの「崇高なるものは自然に限定される」という思想が背景にある(シラーやバークはこれにも反対し絵画にも適用される概念だと主張)。そして問題は3についてである。《テッチェン祭壇画》は強い逆光で描かれている上に、そのせいでキリストが黒く影になってしまっている。また岩山に立体感が欠け、そのせいで岩山は空から浮き出ているように見える。これらは当時のアカデミックな風景画からは完全に逸脱した手法であった。このような発想そのものが過去ロイスダールくらいにしかさかのぼれず,あまりにも斬新であった。
しかし,フリードリヒにはアカデミーの規則よりも優先すべきものがあった。《テッチェン祭壇画》を解題すれば以下のようなことになる。すなわち,落日は旧約の父なる神であり,山上のキリストを照らす。よって,鑑賞者の視点からはこのキリストが後光に照らされているように見えなければならなかった。十字架の立つところはペトロを意味する岩でなければならず,鑑賞者の視線の動きが落日→十字架→岩山という順番になるには,岩山を目立たぬよう塗りつぶし平面的なものにしてしまう必要があった。総じて,「神が直接支配する時代から、キリストの恩寵の時代へ,そして人間の時代へ」というテーマを貫き通すには,彼にはこの配置以外考えられなかった。
ラムドール論争の1808年頃といえば,ドイツにとってはそんな論争をしている場合ではない状況でもあった。すなわち,イエーナの戦いとベルリン勅令,神聖ローマ帝国解体に,そしてティルジット条約の締結である。前述のように,フリードリヒの汎ゲルマン民族主義は,反理性主義・反フランスと明確に結びついていた。ゆえに,このような政治状況は屈辱的に感じられた。ラムドール論争による精神的疲労と,政治状況への義憤が,フリードリヒを初のスランプに陥らせたのはまったく不思議なことではない。
08〜13年頃のフリードリヒはしばしば気を紛らわせるように旅行に出掛け,今後の作品のためのスケッチを増やしている。1810年,22歳のショーペンハウアーの訪問を受ける。会話の様子は残っていないが,残っていれば両者にとって一級史料であったに違いない。1810年に《海辺の僧侶》,《オーク林の中の僧院》をベルリン・アカデミー出品。これらがプロイセン皇太子買い上げとなり,ベルリン・アカデミー客員会員として認められた。いよいよ名実ともに,当時のドイツを代表する画家の仲間入りである。ちなみに,1810年頃の自画像。(やや画像重め注意)晴れてアカデミー会員となったフリードリヒは周囲からイタリア旅行をしきりに勧められたが,とにかく北方志向であった彼はイタリア風景の美しさを認めつつも,決してイタリアに足を踏み入れなかった。彼の人生最南端はおそらくボヘミアということになる。
フリードリヒは,1814年に(フランスからの)ドレスデン解放記念の愛国展覧会に参加している。もちろん,反フランスの精神からの出品であり,提出された2つの作品もなかなか激しい。《森の中の猟兵》は森の中に入っていくフランス兵を描いており,森は暗黒の未来を象徴すると同時に,シュバルツバルトを意味しゲルマン民族の象徴でもある。もう一品の《ヘルマンの墓》はネット上のどこをさまよっても画像がない(所蔵地にHamburgerKusthalleのHPにもない)が,こちらもあからさまにドイツの伝説的な人物を称揚したものとなっている。
ナポレオン戦争が終わるとスランプを脱し,ドレスデンに落ち着いて居住して,弟子も取り始めた。それもあって1816年,正式にドレスデン・アカデミー会員に認められる。1818年,弟子の紹介でカロリーネ・ボマーと結婚。この結婚は,当時既に多くの人を驚かせていた。厭世的なフリードリヒがまさか結婚するとは,誰も考えていなかったからである。にもかかわらず,フリードリヒ夫妻の夫婦仲は非常に良好であったらしく,これについては昔書いたことがある。同年,生涯の友人であり最大の理解者となる,ヨハン・クリスティアン・ダールが出身地ノルウェーからドレスデンに留学してくる。同じアパートの居住者でもあった。ダールや弟子たちが当時のフリードリヒのアトリエについて「キャンバスと定規,それと自分が座る椅子とダール専用の椅子以外には何も置かれていない殺風景な部屋」と証言している。弟子のケルスティングによるフリードリヒのアトリエを描いた絵がある。
1820年代前半はフリードリヒが画家として最も油が乗っていた時期である。1824年には長男が誕生し,グスタフ・アドルフと名づけている(由来は当然……)。一方で,ナポレオン戦争の終結によりドイツ全体に反動的な空気が漂い,その失望から,ロマン主義の中でも甘く感傷的な,センチメンタルな雰囲気のものが好まれる風潮が芸術界にも浸透し始めていた時期でもあった。フリードリヒの絵では,傷ついた自由主義的な都市民にとって,向き合うには厳しすぎたのだ。この風潮をビーダーマイヤー期という。
すなわち,ビーダーマイヤー期においては,フリードリヒは活躍すればするほど,すごいのだけれども的は外れているという,論壇を困惑させるようになっていった。結果的に,フリードリヒはドレスデン・アカデミーの正教授となることができなかった。そして売れ線からもはずれ,パトロンが離れていくということにもなった。その端緒はやはりゲーテであろう。たとえば,《リューゲン島の白亜の断崖》(1818)というこの絵は,新婚旅行先のリューゲン島で描かれた作品であり,この絵に映る女性はカロリーネ夫人とされる。フリードリヒの自信作であった。これに対しゲーテは「フリードリヒ氏の作品は逆様でもよく見える」と評価したため,以後疎遠になってしまう。
それでも,後世の我々からするとやはりこの時期は大作が目白押しである。《月を眺める二人の男》(1819/20),《孤独な樹》(1822),《氷海》(画像重め注意)(1823/24),《ヴァッツマン山》(1824/25)。以下,それぞれ簡単に解題していこう。
《月を眺める二人の男》。二人の男たちは自らと愛弟子アウグスト・ハインリヒであり,古ゲルマンの民族衣装を身にまとっていることが重要である。しかもフリードリヒは「二人は扇動的陰謀をしているのです」とコメントしているのだから,当局を挑発しすぎだと思う。石だらけの小道は険しい人生の道を示し,常緑の檜と枯れた樫は対比されてそれぞれ生と死と象徴する。三日月は希望の象徴であり,隣で瞬いているものは金星である。
なお,この月に関してはおもしろい議論がある。実際,この月の描き方はかなり微妙である。フリードリヒ研究の第一人者,ベルシュ=ズーパンは単純に三日月と判断し,希望の象徴と読み取った。これに対し,1991年,とある研究者が「この描かれ方は月食である」と反論。フリードリヒの知人でコペンハーゲン大学教授・美術評論家であったペーター・ヒョルトが,フリードリヒに月食に着いて説明する手紙を送っているのをその論拠とした。
これに対し1995年,ドレスデンの天文学者「お前らは科学的見方ってもんがわかっちゃない。あれはどう見ても地球照で輝く月の描かれ方」と斜め上から切り込んできた。さらにその天文学者曰くこの絵に描かれているように月の右側に金星が来るのは珍しい現象で、1816-17年の年の変わり目に発生していたから,ドレスデンのフリードリヒはこれを眺めて描いたのではないか,と主張した。しかし,現状フリードリヒの天体素描は見当たらないため、根拠は薄弱である。にもかかわらず,2001年ドイツ・ドレスデンで開催された「C.D.フリードリヒと月を見る人たち」展では、地球照説が採用され,これで説明された。今後どうなっていくかは注目されるところであろう。
《孤独な樹》は,私が卒論で直接扱った作品である。解釈は非常に難しいが(だからこそ無謀にもこの作品を選んだのだが),私見を披露したい。まず,冷静に考えると中央の樹がありえない巨大さであることは理解されうる。また,本作品は不自然なほど水平線・垂直線がくっきりしており,しかもほとんど画面が左右対称で,この上なく人工的に見える。その意味では間違いなくフリードリヒの代表作として挙げてよい作品である。一方で,真ん中にあからさまな崇高なるものを配置し,画面全体の構成美が特徴となるような作品はこの《孤独な樹》が端緒である。この流れは《氷海》,《ヴァッツマン山》と続いていく。晩年の作品では再び真ん中が空虚な空間に置き換わるため,全盛期だけの特徴であり,だとすれば尚更,《孤独な樹》は全盛期の端緒でもあったと言い換えることができる。朽ちた樫の巨木は「英雄」の象徴であり,全景の平原は人間の住む領域,山々と空は宗教的領域である。朽ちた樫の木だけがその両方を貫き通し,大地から吸い上げられた水を天に返す。樫の木は同時にドイツ民族の象徴表現であることを考えると,この作品でさえも政治的意図を避けがたい。巨木に寄りかかる牧人もまた,英雄と俗界の中間に配置される。牧羊の光景の裏には,煙のたなびく非常に小さな集落が描かれている。これらのモチーフは,意味の上で全てつながっている。
《氷海》も解釈の難しい作品ではあるが,これは研究が多くかなり解明されている。氷塊の表現については,1820-1821年の記録的厳冬でエルベ川が凍りついた際,フリードリヒがスケッチしたものが元になっている。画面の右側,難破した船についても「希望号」という明確なモチーフがあり,まさに難破した希望号はビーダーマイヤー期の希望の無い閉塞感を示している。なお,ジェリコーの《メデュース号の筏》やターナーの《戦艦テレメール号》諸作品など,船に政治的な意図を込めるのは,当時において不自然なことではなかった。ただし,本作品は一方的に絶望しているわけではなく,フリードリヒは氷山というものに大いなる興味を抱いたいていた。半分冗談でアイスランドへの渡航を計画したこともある。天を衝く氷山は,一方でフリードリヒにとっては新たなる希望の象徴でもあった。押しつぶされた希望の先に見える新たな希望とは,まさに崇高的なるもの以外なにものでもない。このフリードリヒの思考回路の影にはやはり,自由主義たる北方の国スウェーデンの姿が見え隠れする。
《ヴァッツマン山》は,《孤独な樹》,《氷海》の路線で考えると理解しやすい。すなわち,巨大なヴァッツマン山はまさに崇高なる姿であり,神の象徴であり希望の象徴であった。手前の詰み石は,夭折した弟子アウグスト・ハインリヒへの追悼の念を示し,墓石として描き足されたもの。また,山頂(希望)を目指す登山家のマイルストーンとしての意味を持つ。ヴァッツマン山はスイス・アルプスの山であるが,ドレスデン以南に足を踏み入れたことの無いフリードリヒは,当然直接見たことが無い。そこで彼は弟子アウグスト・ハインリヒの残したスケッチを元にこの作品を描いた。それほどまでにヴァッツマン山という題材にこだわったのは,アウグストへの追悼の念もあるが,1824年に若き日のルートヴィヒ・リヒターが同題材の作品(重い画像注意)を描いて世間の高評価を受けていたので,ロマン主義画家の大家として対抗心を燃やしたためとされる。画面の充溢したリヒターの作品に対し,出来る限りモチーフを減らし,すっきりとしていながら圧倒されるというフリードリヒの画力を存分に示した作品となった。空間が空虚だからこそ意味は充溢するという逆転現象は,東洋の山水画に通じるものを感じる。(ただし,個人的な意見ではリヒターの《ヴァッツマン山》もけっこう好きである)
20年代後半は二度目のスランプに陥り、30年以後は和らいだ構成が多くなる。この時期の作品はしばしば弟子のC.G.カールスの作品と混同されやすい 。30年代数少ないの大作というと《大狩猟場》(1832)であろう。沼沢地と空が二分される巨大な世界にもはや説明の必要が無い,フリードリヒにしては簡潔な作品である。そして最後の傑作は,逆に謎めいている《人生の諸段階》(1835)である。画像の中央の子供たちはスウェーデンの国旗を掲げ,手前の老人の服の丈の長いコートに縁なしで幅広の帽子という,当時のドイツの国民服を身にまとっている。船はフリードリヒにとって希望の象徴という《氷海》由来の解釈をとれば,政治的意図をもって描かれた作品であるという解釈は可能であるが,説明のつかない部分も多く,定説は存在しない。
1835年に脳卒中で倒れると,以後は油彩画を描くだけの体力が残っておらず,ただ素描画を描いて暮らしていた。晩年は麻痺の治療のため生活がしばしば困窮したそうだが,それでも子供はちゃんと育っていたため,むしろ清貧という言葉が似合っていたのではないかと思われる。なお,最後まで残ったパトロンとして当時のロシア皇帝ニコライ1世がいる。フリードリヒは彼の援助により湯治に出かけるのが晩年の唯一と言っていい楽しみであった。1840年にひっそりと死去。その後,急速に忘れ去られていく。
では,忘却されたところからどう掘り起こされたのか,というのが,最後に残った話である。(続く)
ナポレオン戦争が終わるとスランプを脱し,ドレスデンに落ち着いて居住して,弟子も取り始めた。それもあって1816年,正式にドレスデン・アカデミー会員に認められる。1818年,弟子の紹介でカロリーネ・ボマーと結婚。この結婚は,当時既に多くの人を驚かせていた。厭世的なフリードリヒがまさか結婚するとは,誰も考えていなかったからである。にもかかわらず,フリードリヒ夫妻の夫婦仲は非常に良好であったらしく,これについては昔書いたことがある。同年,生涯の友人であり最大の理解者となる,ヨハン・クリスティアン・ダールが出身地ノルウェーからドレスデンに留学してくる。同じアパートの居住者でもあった。ダールや弟子たちが当時のフリードリヒのアトリエについて「キャンバスと定規,それと自分が座る椅子とダール専用の椅子以外には何も置かれていない殺風景な部屋」と証言している。弟子のケルスティングによるフリードリヒのアトリエを描いた絵がある。
1820年代前半はフリードリヒが画家として最も油が乗っていた時期である。1824年には長男が誕生し,グスタフ・アドルフと名づけている(由来は当然……)。一方で,ナポレオン戦争の終結によりドイツ全体に反動的な空気が漂い,その失望から,ロマン主義の中でも甘く感傷的な,センチメンタルな雰囲気のものが好まれる風潮が芸術界にも浸透し始めていた時期でもあった。フリードリヒの絵では,傷ついた自由主義的な都市民にとって,向き合うには厳しすぎたのだ。この風潮をビーダーマイヤー期という。
すなわち,ビーダーマイヤー期においては,フリードリヒは活躍すればするほど,すごいのだけれども的は外れているという,論壇を困惑させるようになっていった。結果的に,フリードリヒはドレスデン・アカデミーの正教授となることができなかった。そして売れ線からもはずれ,パトロンが離れていくということにもなった。その端緒はやはりゲーテであろう。たとえば,《リューゲン島の白亜の断崖》(1818)というこの絵は,新婚旅行先のリューゲン島で描かれた作品であり,この絵に映る女性はカロリーネ夫人とされる。フリードリヒの自信作であった。これに対しゲーテは「フリードリヒ氏の作品は逆様でもよく見える」と評価したため,以後疎遠になってしまう。
それでも,後世の我々からするとやはりこの時期は大作が目白押しである。《月を眺める二人の男》(1819/20),《孤独な樹》(1822),《氷海》(画像重め注意)(1823/24),《ヴァッツマン山》(1824/25)。以下,それぞれ簡単に解題していこう。
《月を眺める二人の男》。二人の男たちは自らと愛弟子アウグスト・ハインリヒであり,古ゲルマンの民族衣装を身にまとっていることが重要である。しかもフリードリヒは「二人は扇動的陰謀をしているのです」とコメントしているのだから,当局を挑発しすぎだと思う。石だらけの小道は険しい人生の道を示し,常緑の檜と枯れた樫は対比されてそれぞれ生と死と象徴する。三日月は希望の象徴であり,隣で瞬いているものは金星である。
なお,この月に関してはおもしろい議論がある。実際,この月の描き方はかなり微妙である。フリードリヒ研究の第一人者,ベルシュ=ズーパンは単純に三日月と判断し,希望の象徴と読み取った。これに対し,1991年,とある研究者が「この描かれ方は月食である」と反論。フリードリヒの知人でコペンハーゲン大学教授・美術評論家であったペーター・ヒョルトが,フリードリヒに月食に着いて説明する手紙を送っているのをその論拠とした。
これに対し1995年,ドレスデンの天文学者「お前らは科学的見方ってもんがわかっちゃない。あれはどう見ても地球照で輝く月の描かれ方」と斜め上から切り込んできた。さらにその天文学者曰くこの絵に描かれているように月の右側に金星が来るのは珍しい現象で、1816-17年の年の変わり目に発生していたから,ドレスデンのフリードリヒはこれを眺めて描いたのではないか,と主張した。しかし,現状フリードリヒの天体素描は見当たらないため、根拠は薄弱である。にもかかわらず,2001年ドイツ・ドレスデンで開催された「C.D.フリードリヒと月を見る人たち」展では、地球照説が採用され,これで説明された。今後どうなっていくかは注目されるところであろう。
《孤独な樹》は,私が卒論で直接扱った作品である。解釈は非常に難しいが(だからこそ無謀にもこの作品を選んだのだが),私見を披露したい。まず,冷静に考えると中央の樹がありえない巨大さであることは理解されうる。また,本作品は不自然なほど水平線・垂直線がくっきりしており,しかもほとんど画面が左右対称で,この上なく人工的に見える。その意味では間違いなくフリードリヒの代表作として挙げてよい作品である。一方で,真ん中にあからさまな崇高なるものを配置し,画面全体の構成美が特徴となるような作品はこの《孤独な樹》が端緒である。この流れは《氷海》,《ヴァッツマン山》と続いていく。晩年の作品では再び真ん中が空虚な空間に置き換わるため,全盛期だけの特徴であり,だとすれば尚更,《孤独な樹》は全盛期の端緒でもあったと言い換えることができる。朽ちた樫の巨木は「英雄」の象徴であり,全景の平原は人間の住む領域,山々と空は宗教的領域である。朽ちた樫の木だけがその両方を貫き通し,大地から吸い上げられた水を天に返す。樫の木は同時にドイツ民族の象徴表現であることを考えると,この作品でさえも政治的意図を避けがたい。巨木に寄りかかる牧人もまた,英雄と俗界の中間に配置される。牧羊の光景の裏には,煙のたなびく非常に小さな集落が描かれている。これらのモチーフは,意味の上で全てつながっている。
《氷海》も解釈の難しい作品ではあるが,これは研究が多くかなり解明されている。氷塊の表現については,1820-1821年の記録的厳冬でエルベ川が凍りついた際,フリードリヒがスケッチしたものが元になっている。画面の右側,難破した船についても「希望号」という明確なモチーフがあり,まさに難破した希望号はビーダーマイヤー期の希望の無い閉塞感を示している。なお,ジェリコーの《メデュース号の筏》やターナーの《戦艦テレメール号》諸作品など,船に政治的な意図を込めるのは,当時において不自然なことではなかった。ただし,本作品は一方的に絶望しているわけではなく,フリードリヒは氷山というものに大いなる興味を抱いたいていた。半分冗談でアイスランドへの渡航を計画したこともある。天を衝く氷山は,一方でフリードリヒにとっては新たなる希望の象徴でもあった。押しつぶされた希望の先に見える新たな希望とは,まさに崇高的なるもの以外なにものでもない。このフリードリヒの思考回路の影にはやはり,自由主義たる北方の国スウェーデンの姿が見え隠れする。
《ヴァッツマン山》は,《孤独な樹》,《氷海》の路線で考えると理解しやすい。すなわち,巨大なヴァッツマン山はまさに崇高なる姿であり,神の象徴であり希望の象徴であった。手前の詰み石は,夭折した弟子アウグスト・ハインリヒへの追悼の念を示し,墓石として描き足されたもの。また,山頂(希望)を目指す登山家のマイルストーンとしての意味を持つ。ヴァッツマン山はスイス・アルプスの山であるが,ドレスデン以南に足を踏み入れたことの無いフリードリヒは,当然直接見たことが無い。そこで彼は弟子アウグスト・ハインリヒの残したスケッチを元にこの作品を描いた。それほどまでにヴァッツマン山という題材にこだわったのは,アウグストへの追悼の念もあるが,1824年に若き日のルートヴィヒ・リヒターが同題材の作品(重い画像注意)を描いて世間の高評価を受けていたので,ロマン主義画家の大家として対抗心を燃やしたためとされる。画面の充溢したリヒターの作品に対し,出来る限りモチーフを減らし,すっきりとしていながら圧倒されるというフリードリヒの画力を存分に示した作品となった。空間が空虚だからこそ意味は充溢するという逆転現象は,東洋の山水画に通じるものを感じる。(ただし,個人的な意見ではリヒターの《ヴァッツマン山》もけっこう好きである)
20年代後半は二度目のスランプに陥り、30年以後は和らいだ構成が多くなる。この時期の作品はしばしば弟子のC.G.カールスの作品と混同されやすい 。30年代数少ないの大作というと《大狩猟場》(1832)であろう。沼沢地と空が二分される巨大な世界にもはや説明の必要が無い,フリードリヒにしては簡潔な作品である。そして最後の傑作は,逆に謎めいている《人生の諸段階》(1835)である。画像の中央の子供たちはスウェーデンの国旗を掲げ,手前の老人の服の丈の長いコートに縁なしで幅広の帽子という,当時のドイツの国民服を身にまとっている。船はフリードリヒにとって希望の象徴という《氷海》由来の解釈をとれば,政治的意図をもって描かれた作品であるという解釈は可能であるが,説明のつかない部分も多く,定説は存在しない。
1835年に脳卒中で倒れると,以後は油彩画を描くだけの体力が残っておらず,ただ素描画を描いて暮らしていた。晩年は麻痺の治療のため生活がしばしば困窮したそうだが,それでも子供はちゃんと育っていたため,むしろ清貧という言葉が似合っていたのではないかと思われる。なお,最後まで残ったパトロンとして当時のロシア皇帝ニコライ1世がいる。フリードリヒは彼の援助により湯治に出かけるのが晩年の唯一と言っていい楽しみであった。1840年にひっそりと死去。その後,急速に忘れ去られていく。
では,忘却されたところからどう掘り起こされたのか,というのが,最後に残った話である。(続く)
Posted by dg_law at 12:00│Comments(0)