2010年07月02日

芸術定義議論の歴史的経緯(2)

前回。ルネサンスからしばらくの間,西欧美術の中心地はイタリアであった。一般的な歴史ではローマ劫掠(1526)でイタリアが経済的に壊滅し,ルネサンスの中心がフランスへ移ったとされる。今そんなバカな,と思った方はおそらく美術通だと思うのだが,その通り美術の場合は状況が少し違った。理由はいくつかある。反宗教改革運動により,イタリアにはいまだ美術作品に需要が大きかったし,教会には資金が集まっていたこと。これはマニエリスムやバロックが伸びていく理由となる。そしてもう一つは,イタリアの風景が美しく,古代ローマの遺跡も豊富であったということ。これらは歴史画を描くための格好の材料であった。こうして,ヨーロッパの画家たちはこぞってイタリアに旅行した。

それは北方ルネサンスの中心地にして油彩画発祥の地,オランダであっても同様であった。近年の研究では,オランダにおいてイタリアに赴く画家は「親イタリア派」と呼ばれ,それなりの規模をほこっていたことが明かされている。最も有名な親イタリア派といえばヤン・ボトではないかと思うのが,それなりに知っている人も多いのではなかろうか。もはや王道は発掘しきった感もある美術史の学者の次の仕事はこういった画家たちを発掘し,正しく位置づけることなのだろう。


マニエリスムの時代には,もう一つ大きな出来事が起きていた。それは芸術家が職人から「芸術家」になったことで,ギルド的な職能制度では対応しづらくなったために私的な学校が作られ,後には自らの宮廷を権威付けたい君主たちによってアカデミーという公的な機関になっていくという現象である。その端緒は一応,私の知っている限りではカラッチ一族ということになっているはずだ。カラッチ一族といえば16世紀初頭から活躍を初め,ルネサンスからバロックに至るまでを駆け抜けた北イタリア(ボローニャ派)を代表する芸術家の名門一族である。最も有名なのは16世紀末のアンニーバレで,まさに彼の頃に原初的なアカデミーは創設されたのであった。カラッチ一族の特徴はバロックでありながら(特にアンニーバレはマニエリスムからバロックに踏み出したカラヴァッジョと並ぶ最初期の人物であった),古典主義を重視しルネサンスを忘れなかった。この点は,後のアカデミー教育に強い影響を及ぼしたということは,後世を知っているものに今更説くまでもあるまい。

(余談だが,アンニーバレの直弟子にグイド・レーニがいると言われると妙に納得するのは私だけではないと思う。ついでに言えば,グイド・レーニといえば本来は敬虔なカトリックで歴史画の大家であるにもかからわず,私には《ベアトリーチェ・チェンチの肖像》のイメージしかない。これは絶対に「美の巨人たち」の陰謀。間違いなく。)


しかし,いかんせん経済力の盛衰や世俗化の流れは食い止められないもので,美術の中心他の西欧諸国に移っていく。それでもイタリアは美術修行の中心としてはかなり長く生きながらえた。なぜなら,美しい風景と多くのキリスト教寺院,そして古代ローマの遺跡という点では他の追随を許さず,自らをルネサンスの後継者たちであると自負する以上,画家としては一度赴かざるを得ない土地になっていたからだ。すなわち,ここでもいまだルネサンスの定めた「芸術」概念の威光は十分に残っていた。

その中で,フランスは絵画芸術の最大の中心地として名を挙げていった。その理由は様々である。フランスはイタリアに地理的に近く,大国で,旧教国であり,当時としてはずば抜けて王権が強く,大航海時代のお陰で海外貿易で潤っており,結果として宮廷が豊かであった。フランスの美術アカデミーは1648年開設だが,それ以前からフォンテーヌブロー派が存在し,宮廷を中心に画壇が築かれる伝統は存在していた。教育機関,イタリア留学,サロンが早々に整備されていた点は特筆に価する。

しかし,フランスのアカデミーにおいて本当に特筆すべきであるのは,イタリアから古典主義を輸入したことだ。それぞれ発現の方向性は異なるとはいえ,スペインもドイツもオランダもバロック一色で染まっていた時代に,ニコラ・プッサン,クロード・ロランを輩出したフランスの独自性には脱帽する。フランスアカデミーが最終的に他を出し抜き,頂点に躍り出たのは古典主義が保存されていたためであるとされる。

で,どうしてここまで長々とアカデミーの歴史を書いたかと言えば,プッサンの名前を出したかったからに他ならない。後世に言うプッサン・ルーベンス論争である。言い換えればこれは「線か色か」という,17世紀後半の画家同士の争いであった。プッサン=古典主義=線であり,線とは均整を意味し,均整とはすなわち人間の理性であった。どういうつながりだってばよ,意味不明だぜという人もおられるかもしれないが,ラテン語で理性を示すratioには「比例,割合」という意味もあるように,古代ギリシア・ローマの伝統では物事を切り分けて推理することが理性の仕事であり,これは絵画におきかえれば確かに線の仕事なのだ。

(またどうでもいい余談を挟むと,この線=理性=キリスト教の神という思想を突き詰めていくと理神論に到達し,さらに発展させるとフリーメイソンの教義になる。フリーメイソンの直訳が「石工」であることや,彼らの掲げるシンボルマークは「コンパスに目」であることに注目したい。一方で社会を取り巻くこの理性狂信はフランス革命という政治的成果も生んだ。革命政府が何を好んだか?新古典主義というのは偶然の一致ではない。)


逆にルーベンス=バロック=色であり,世界の再現・創造が絵画の使命であるのならば,色も線に勝るとも劣らぬ重要な要素であり,場合によっては線を凌駕する機能を持つとしたのがこちらの側であった。またこの対決は,理性を意味する線に対して,色彩は人間の感情を激しく揺さぶる情動を示すとされ,その意味では心身二元論上の哲学代理戦争であった一面もある。さらにこの対決は,この時代には表面化しなかったさらなる要素もはらんでいた。そもそもルネサンスの時点で「思想」と「技術」が,芸術家が芸術家たりうるための条件として設定されたが,問題はこれらがごっちゃになっていたということであった。そして,「思想」と「技術」の分化が始まったのが,プッサン・ルーベンス論争ではないかと私は思うのだ。

プッサン,というよりも古典主義はうまく線を引き,世界を構成する「技術」の優越をうたったが,ルーベンス派は世界の創造という「思想」的要素を重視し,その世界は必ずしも均整のとれた理想的世界である必要は無いという理念を,ルネサンス以後の西欧の美術に初めて打ち出した。つまり,極論して言えば(今私は世界中の美術史家に土下座しながらこの文章を書いているが),以後の美術史はプッサン・ルーベンス論争の延長でしかなく,そしてルーベンスの勝利で締めくくられることになる。


19世紀の初頭には,3つの派閥が形成されていた。ロココ・新古典主義・ロマン主義である。これらはそれぞれ共通する部分もあれば,異なる部分もあった(しばしばロマン主義は新古典主義への反発と言われるが誤解である)。たとえばロココ・新古典は親アカデミーだが,ロマン主義がアカデミーに受け入れられるまでは少し時間がかかった。一方で,新古典主義もロマン主義もロココへの嫌悪感から誕生したという点では共通し,またロココが卑近なものを題材とし,風俗画や肖像画を得意としたのに対し,新古典・ロマンは歴史画を得意とした。何よりもこの2つの流派は,現在の歴史を題材としたという点で共通する。「理性の世紀」18世紀に対する,「歴史の世紀」19世紀の幕開けであった。プッサン・ルーベンス論争はよりラディカルな議論へと発展し,アングル・ドラクロワ論争と呼ばれるようになるのであった。プッサン・ルーベンス論争には明確な決着がつかなかったが,アングル・ドラクロワ論争は最終的にアカデミーがロマン主義を受容したという点で,ドラクロワの勝利であった。


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