2010年07月07日
芸術定義議論の歴史的経緯(3)
前回あえて書き落としたことから触れておく。それは18世紀の中葉に起きた出来事である,「美学」という学問の誕生である。してみると,美学とは哲学と美術史の間に立つ学問だと思われるが,その歴史は浅い。哲学は古代ギリシアから存在し,美術史の確立もどう新しく見ても16世紀後半のヴァザーリということになるだろう。もちろん,美学もさかのぼろうと思えばプラトンに到達できなくはないのであるが……
美学という学問の創設者は一般にバウムガルテンというドイツ人とされるが,実はバウムガルテンに美学を作ったという意識はなかった。これには当時の学問分野の分け方に事情がある。すなわち,哲学は人間の理性や悟性を対象として扱うが,「感性」を対象にする学問は当時存在していなかった。そこでバウムガルテンは感性を研究する学問を創始した。そこで美を認識するのは感性であると定義し,バウムガルテンは感性は下位的な認識能力であり,哲学こそが本道とした。つまり,バウムガルテンの時点では「感性学」であった。
これに続いたのがバークとカントだが,この二人に関しては以前崇高概念の説明で語ったことがあるので簡潔に書いておきたい。すなわち,バークは美のみが感性の観念ではなく,崇高という概念を提示した。カントは,美とは感性と構想力(悟性)の双方(=判断力)による認識であるとした上で,感性は劣った認識能力ではなく,悟性と同格であるとした(ただし,理性を最上段におくことが前提)。バウムガルテンの物言いを,きちんと学問の形として筋道をつけたのはやはりカントであろう。ただしそれは自律した美学ではなく,いまだ倫理学によりかかるものであった。その意味で,美学が完全に自律するのはヘーゲルを待たねばならないだろう。以後,本来「感性学」という意味合いだったaestheticは,美という概念について考える「美学」という新たな意味合いに変質していった。
もう一面の重要人物たちがヴィンケルマンとレッシングで,やはり二人ともドイツ人である。彼らが引き起こした大論争こそ,いわゆる「ラオコーン論争」である。ラオコーンの彫像はもとより傑作であり有名であるが,ヘレニズム期の彫刻の中でも最も有名になったのはこの論争のせいだろう。ヴィンケルマンがそれまでの価値観に拠ってラオコーンの均整な美を称揚すると,これにレッシングは「一場面に切り取られた感情・激情」がこの像の表現するものだと反論した。つまり,古代ギリシア・ローマこそが憧憬の先にあり,すなわち人間の理性や思想こそが最上の価値であり,美はその表象であるという価値観にくさびが打たれたのである。これはバウムガルテンとは別方向に,美学の誕生を宣言するものとなり,やはりカントやヘーゲルを経て19世紀の美術史家たちに引き継がれていく。これらの美学の勃興とロマン主義の誕生は,鶏と卵の関係だったと言えるだろう。
美術史の本流に話を戻す。発展史観的に見れば,ロマン主義の立ち位置は非常に中途半端であった,と私は思う。ロマン主義の指す範囲は非常に広く,幅がある。しかし,ロマン主義の美術は,「思想」か「技術」のいずれかにおいて新古典主義を脱しているが,そのもう片方は保守的であるという点で共通している。逸脱しなければ感情を描けなかったからだ。たとえばドラクロワは色で魅せたように技術において逸脱したが,彼は題材については歴史画の範疇であった。それに対しフリードリヒは技術においてはアカデミックであったが,「思想」においては革新的であった(つまり,「技術」の解体と思想の優位という発展史観において,ドラクロワが賞賛されてフリードリヒの芸術が長らく発掘されなかったのは容易に理解されうる)。この点,一歩頭を抜けていたのはターナーではないかと思う。彼の絵画にはすでに,自然主義を飛び越えて印象派が誕生するという予兆があった。
さて,ロココが衰退するとその隙間に入ってきたが自然主義である。自然主義はさらに一歩進めて,背景の風景を線で描かない上に,題材も歴史画からは外れるということころに至った。しかし,それでもまだ人物は線だったし,「見たままに描いている」という点では既存の美術からそれほど離れてはいなかった。加えて言えば,彼らは自分たちの作品の,伝統的ヒエラルキーにおける低さを自覚していたので,反発を受けなかった。自然主義がロマン主義とともに,アカデミーに取り入れられていったのは理解できる。
そうすると,自然主義・ロマン主義が印象主義への橋渡しとなったのは,非常に納得のいくことである。にもかかわらず前者二つは受容され,印象派は激しく反発されたか。印象派の描法は同じ線の否定であっても,筆跡を残さない自然主義とはやはり異なった。モネの絵画が「死体を描いているようだ」と評されたという逸話は有名だが,アカデミーの規範において,まだ人物>自然という観点は生き残っており(その理由については(1)を参照),自然と同じ描法で人物を描けばモノである死体を見なされるのは当然のことであった。要するに,自然主義・ロマン主義が踏み込まなかったアカデミーの規定する芸術の概念に対する一歩を,印象主義は踏みつけた形になる。それは「見たままに描く」から「印象を描く」への転換であり,印象(impression)が表現(expression)にすぐ反転したことは,歴史が雄弁に物語っている。
それでも,決定打はやはりセザンヌまで待たねばなるまい。セザンヌの最大の仕事はポリフォーカスの発明であった。「見たままに描く」が「印象」となり,「描きたいように描く」へとうとう足を踏み入れた瞬間であった。すでに「線」はとうの昔に死んでいたが,ここではさらに線的遠近法=理性=神は二度目の殺害に遭った。奇しくもニーチェが神の死亡を宣言したのとまったく同時期であった。ここにルネサンス的芸術観は完全に打ち崩されたのである。
ただし,これは学者ではなく好事家的な物言いになるのだが(そして私は紛れもなく後者だから許されるだろう),印象派の画家たち自身には,そこまでの意志がなかったように思う。そもそも彼らは「自分が見た印象を描く」ということを標榜していたのであり,「思想」的にはこれほど薄っぺらいものは無かった。もっと言えば,これは自然主義も同様であった。彼らは見目麗しい物を描こうとして,偶然アカデミーから逸脱し,アカデミー側の論理で受容されるか排除されるか決定された。そこに,「反権威」や「意味内容の消滅自体=芸術の純粋化」という“思想”を持たせ,前衛の誕生に一役買ったものが本当に存在しなかったか?それは誘導されず,自然発生的に起きたことなのか?私はノーであると答える。これは美術史学の,ひいては学者や批評家の功罪であるように思う。
なお,この頃になるとイタリアは完全に美術の中心地ではなくなっていた。古代の芸術を規範とする必要がなくなってきた上に,鉄道が普及して「留学」するほどのものでもなくなってきたからだ。同じドイツ人でもフリードリヒは一流の画家であるのにイタリアに行かなかったので相当後ろ指を指されたのに対し,その半世紀後のベックリーンはイタリアに赴かずとも変人扱いはされても批判はされなかった。二人のイタリアに対するかかわりは,ドイツ人の持つ芸術に対するイメージの違いをよく示している。イギリスにラファエロ前派が登場したという点も興味深い。イタリア離れがナショナリズムの勃興や鉄道の普及に関連していたことを考えると,美術の歴史も政治史・社会史とは切り離せない。
勝利した「思想」は暴走を始める。20世紀の初頭に,アーツアンドクラフツ運動やバウハウスが起きたのは,まさに歴史画の失墜と表裏一体であった。古典的な「芸術」概念が崩壊すれば,「芸術家」と職人の区別は再びつかなくなるからである。また,モネが晩年,抽象的な表現に向かったのは大変に興味深いことであると,私は思う。始めはよりよく対象を描くために発明された筆触分割は画家の個性を表すものとなり,対象は具象物をとる必要がなくなった。「筆触」こそが重要になったから,対象はうち捨てられた。
私が現代芸術に対して最も反発しているのはこの点である。美術は「何かの表象」であるからこそおもしろいのであり,表象を読み解くにはルールが共有されている必要がある。ルールが無い,基準が無ければ趣味は判断され得ない。とりわけ,古典的ルールから外れ,見目も麗しくなく,さらにデザイン的なセンスの良さを示したものでもなければ,それはもはや画家の個性の表出でしかない。意味内容を持たない「純粋な芸術」などというものは幻であった。もしくは,「純粋な芸術」は各々の心の内にしか存在しない,ということができる。しかし,個性の表出がやったもん勝ちに堕し,どんどん鑑賞者との距離は開いて「前衛」化する。結局,自らの個性を万人に訴えかけるには,具象物に思いを託し,一定のルールに則るしかないのである。古典的ルールに代わる新たなルールが,これまで提示されたか?もしくは,提示されたものは受け入れられて共有されたか?
現代において「芸術」とは何かと問われれば,すでに解体された概念であるか,定義不能というほかない。現代芸術家は自らの個性を表出する前に,自らの則りたい芸術概念がなんであるかを先に示さなくてはならなくなったが,その過程をすっ飛ばすか,その概念自体が突拍子もないため,理解がえられない。私がよほどのことがなければ,20世紀以降の画家・作家を評価しないのは,一定のルールなしに評価するなどおこがましい行為でしかないと感じているためである。自然,セザンヌ〜ピカソあたりが限界になる。
「芸術」という概念が解体されているにもかかわらず,芸術と見なしうるかもしれないものが存在し,しかも国家や富豪がパトロネージしているのは,まさに既存の制度から逃れることを皆怖がっているからである。芸術が本当に線的に発展してきたもので,現代がその到達点であるならば,よくわからなくても保護しなければ,「あの国(人)は芸術のわからない野蛮な国(人)だ」ということになってしまう。正直な話をすると,私はここにとやかく言うつもりはないし,完全に無駄な投資だとは思わない。結局それが「芸術」であったかどうかということは後世の人間が規定することであり,選択肢の幅を縮めることはないからである。50年後,私の側が「敗北者」になっているということもありうるだろう。
なお,(3)で書いたようなことはちょうど今月の『芸術新潮』で高橋明也がオルセー美術館の実際の展示にひっかけて語っているので,皆買って読めばいいと思う。俺は超頷きながら読んだ。
美学という学問の創設者は一般にバウムガルテンというドイツ人とされるが,実はバウムガルテンに美学を作ったという意識はなかった。これには当時の学問分野の分け方に事情がある。すなわち,哲学は人間の理性や悟性を対象として扱うが,「感性」を対象にする学問は当時存在していなかった。そこでバウムガルテンは感性を研究する学問を創始した。そこで美を認識するのは感性であると定義し,バウムガルテンは感性は下位的な認識能力であり,哲学こそが本道とした。つまり,バウムガルテンの時点では「感性学」であった。
これに続いたのがバークとカントだが,この二人に関しては以前崇高概念の説明で語ったことがあるので簡潔に書いておきたい。すなわち,バークは美のみが感性の観念ではなく,崇高という概念を提示した。カントは,美とは感性と構想力(悟性)の双方(=判断力)による認識であるとした上で,感性は劣った認識能力ではなく,悟性と同格であるとした(ただし,理性を最上段におくことが前提)。バウムガルテンの物言いを,きちんと学問の形として筋道をつけたのはやはりカントであろう。ただしそれは自律した美学ではなく,いまだ倫理学によりかかるものであった。その意味で,美学が完全に自律するのはヘーゲルを待たねばならないだろう。以後,本来「感性学」という意味合いだったaestheticは,美という概念について考える「美学」という新たな意味合いに変質していった。
もう一面の重要人物たちがヴィンケルマンとレッシングで,やはり二人ともドイツ人である。彼らが引き起こした大論争こそ,いわゆる「ラオコーン論争」である。ラオコーンの彫像はもとより傑作であり有名であるが,ヘレニズム期の彫刻の中でも最も有名になったのはこの論争のせいだろう。ヴィンケルマンがそれまでの価値観に拠ってラオコーンの均整な美を称揚すると,これにレッシングは「一場面に切り取られた感情・激情」がこの像の表現するものだと反論した。つまり,古代ギリシア・ローマこそが憧憬の先にあり,すなわち人間の理性や思想こそが最上の価値であり,美はその表象であるという価値観にくさびが打たれたのである。これはバウムガルテンとは別方向に,美学の誕生を宣言するものとなり,やはりカントやヘーゲルを経て19世紀の美術史家たちに引き継がれていく。これらの美学の勃興とロマン主義の誕生は,鶏と卵の関係だったと言えるだろう。
美術史の本流に話を戻す。発展史観的に見れば,ロマン主義の立ち位置は非常に中途半端であった,と私は思う。ロマン主義の指す範囲は非常に広く,幅がある。しかし,ロマン主義の美術は,「思想」か「技術」のいずれかにおいて新古典主義を脱しているが,そのもう片方は保守的であるという点で共通している。逸脱しなければ感情を描けなかったからだ。たとえばドラクロワは色で魅せたように技術において逸脱したが,彼は題材については歴史画の範疇であった。それに対しフリードリヒは技術においてはアカデミックであったが,「思想」においては革新的であった(つまり,「技術」の解体と思想の優位という発展史観において,ドラクロワが賞賛されてフリードリヒの芸術が長らく発掘されなかったのは容易に理解されうる)。この点,一歩頭を抜けていたのはターナーではないかと思う。彼の絵画にはすでに,自然主義を飛び越えて印象派が誕生するという予兆があった。
さて,ロココが衰退するとその隙間に入ってきたが自然主義である。自然主義はさらに一歩進めて,背景の風景を線で描かない上に,題材も歴史画からは外れるということころに至った。しかし,それでもまだ人物は線だったし,「見たままに描いている」という点では既存の美術からそれほど離れてはいなかった。加えて言えば,彼らは自分たちの作品の,伝統的ヒエラルキーにおける低さを自覚していたので,反発を受けなかった。自然主義がロマン主義とともに,アカデミーに取り入れられていったのは理解できる。
そうすると,自然主義・ロマン主義が印象主義への橋渡しとなったのは,非常に納得のいくことである。にもかかわらず前者二つは受容され,印象派は激しく反発されたか。印象派の描法は同じ線の否定であっても,筆跡を残さない自然主義とはやはり異なった。モネの絵画が「死体を描いているようだ」と評されたという逸話は有名だが,アカデミーの規範において,まだ人物>自然という観点は生き残っており(その理由については(1)を参照),自然と同じ描法で人物を描けばモノである死体を見なされるのは当然のことであった。要するに,自然主義・ロマン主義が踏み込まなかったアカデミーの規定する芸術の概念に対する一歩を,印象主義は踏みつけた形になる。それは「見たままに描く」から「印象を描く」への転換であり,印象(impression)が表現(expression)にすぐ反転したことは,歴史が雄弁に物語っている。
それでも,決定打はやはりセザンヌまで待たねばなるまい。セザンヌの最大の仕事はポリフォーカスの発明であった。「見たままに描く」が「印象」となり,「描きたいように描く」へとうとう足を踏み入れた瞬間であった。すでに「線」はとうの昔に死んでいたが,ここではさらに線的遠近法=理性=神は二度目の殺害に遭った。奇しくもニーチェが神の死亡を宣言したのとまったく同時期であった。ここにルネサンス的芸術観は完全に打ち崩されたのである。
ただし,これは学者ではなく好事家的な物言いになるのだが(そして私は紛れもなく後者だから許されるだろう),印象派の画家たち自身には,そこまでの意志がなかったように思う。そもそも彼らは「自分が見た印象を描く」ということを標榜していたのであり,「思想」的にはこれほど薄っぺらいものは無かった。もっと言えば,これは自然主義も同様であった。彼らは見目麗しい物を描こうとして,偶然アカデミーから逸脱し,アカデミー側の論理で受容されるか排除されるか決定された。そこに,「反権威」や「意味内容の消滅自体=芸術の純粋化」という“思想”を持たせ,前衛の誕生に一役買ったものが本当に存在しなかったか?それは誘導されず,自然発生的に起きたことなのか?私はノーであると答える。これは美術史学の,ひいては学者や批評家の功罪であるように思う。
なお,この頃になるとイタリアは完全に美術の中心地ではなくなっていた。古代の芸術を規範とする必要がなくなってきた上に,鉄道が普及して「留学」するほどのものでもなくなってきたからだ。同じドイツ人でもフリードリヒは一流の画家であるのにイタリアに行かなかったので相当後ろ指を指されたのに対し,その半世紀後のベックリーンはイタリアに赴かずとも変人扱いはされても批判はされなかった。二人のイタリアに対するかかわりは,ドイツ人の持つ芸術に対するイメージの違いをよく示している。イギリスにラファエロ前派が登場したという点も興味深い。イタリア離れがナショナリズムの勃興や鉄道の普及に関連していたことを考えると,美術の歴史も政治史・社会史とは切り離せない。
勝利した「思想」は暴走を始める。20世紀の初頭に,アーツアンドクラフツ運動やバウハウスが起きたのは,まさに歴史画の失墜と表裏一体であった。古典的な「芸術」概念が崩壊すれば,「芸術家」と職人の区別は再びつかなくなるからである。また,モネが晩年,抽象的な表現に向かったのは大変に興味深いことであると,私は思う。始めはよりよく対象を描くために発明された筆触分割は画家の個性を表すものとなり,対象は具象物をとる必要がなくなった。「筆触」こそが重要になったから,対象はうち捨てられた。
私が現代芸術に対して最も反発しているのはこの点である。美術は「何かの表象」であるからこそおもしろいのであり,表象を読み解くにはルールが共有されている必要がある。ルールが無い,基準が無ければ趣味は判断され得ない。とりわけ,古典的ルールから外れ,見目も麗しくなく,さらにデザイン的なセンスの良さを示したものでもなければ,それはもはや画家の個性の表出でしかない。意味内容を持たない「純粋な芸術」などというものは幻であった。もしくは,「純粋な芸術」は各々の心の内にしか存在しない,ということができる。しかし,個性の表出がやったもん勝ちに堕し,どんどん鑑賞者との距離は開いて「前衛」化する。結局,自らの個性を万人に訴えかけるには,具象物に思いを託し,一定のルールに則るしかないのである。古典的ルールに代わる新たなルールが,これまで提示されたか?もしくは,提示されたものは受け入れられて共有されたか?
現代において「芸術」とは何かと問われれば,すでに解体された概念であるか,定義不能というほかない。現代芸術家は自らの個性を表出する前に,自らの則りたい芸術概念がなんであるかを先に示さなくてはならなくなったが,その過程をすっ飛ばすか,その概念自体が突拍子もないため,理解がえられない。私がよほどのことがなければ,20世紀以降の画家・作家を評価しないのは,一定のルールなしに評価するなどおこがましい行為でしかないと感じているためである。自然,セザンヌ〜ピカソあたりが限界になる。
「芸術」という概念が解体されているにもかかわらず,芸術と見なしうるかもしれないものが存在し,しかも国家や富豪がパトロネージしているのは,まさに既存の制度から逃れることを皆怖がっているからである。芸術が本当に線的に発展してきたもので,現代がその到達点であるならば,よくわからなくても保護しなければ,「あの国(人)は芸術のわからない野蛮な国(人)だ」ということになってしまう。正直な話をすると,私はここにとやかく言うつもりはないし,完全に無駄な投資だとは思わない。結局それが「芸術」であったかどうかということは後世の人間が規定することであり,選択肢の幅を縮めることはないからである。50年後,私の側が「敗北者」になっているということもありうるだろう。
なお,(3)で書いたようなことはちょうど今月の『芸術新潮』で高橋明也がオルセー美術館の実際の展示にひっかけて語っているので,皆買って読めばいいと思う。俺は超頷きながら読んだ。
Posted by dg_law at 13:28│Comments(2)
この記事へのコメント
権威化している為に維持されてるだけなのが現代美術だと思います。ポーズだけ既存の文脈に反抗しているように見せてますが。
東京都現代美術館の運営がジブリ展無しには金銭的に成り立たない事も興味深いです。
東京都現代美術館の運営がジブリ展無しには金銭的に成り立たない事も興味深いです。
Posted by みみ at 2012年02月12日 14:57
うーん,確かに「価値の逆転」をアートと見る向きもあるので,ポーズによらず既存の文脈に反抗するのは現代芸術の一環だとは思いますが,逆は言えるかというとそうでもないかと思います。
それもひっくるめて,アートという言葉の拡散が見られるのではなかろうかと。
ジブリ展含めて,ね。
それもひっくるめて,アートという言葉の拡散が見られるのではなかろうかと。
ジブリ展含めて,ね。
Posted by DG-Law at 2012年02月14日 19:00