2010年09月18日
第169回『ハプスブルクの文化革命』山之内克子著,講談社選書メチエ
オーストリア帝国,そしてその首都ウィーンというと,保守反動の権化のようなイメージがある。または,こちらは現在まで続くウィーンのイメージとして「芸術の都」,特に音楽と演劇の都というイメージが強いことだろう。少し歴史に詳しい人なら,カトリックの都というイメージを持つ人もいるかもしれない。はたしてそのイメージはどのようにして形成されたのか。また,そのイメージには偏見があるのではないだろうか。
18世紀後半,東欧には世界史上特異な政治形態が誕生した。啓蒙専制君主制である。すなわち,啓蒙主義に則り,君主自らが国家社会の合理化・自由化を図るというものだ。その合理化や自由化は自国の富国強兵に役立つかたわら,一方で絶対的な君主制そのものを揺るがしかねない危険性を秘めている,矛盾した統治体制であった。オーストリアの啓蒙専制君主といえば,ヨーゼフ2世と,広義ではその母親,マリア・テレジアが含まれるだろう。
この母子2代の君主は,啓蒙専制君主として,ウィーンという都市とその都市民に対して様々な改革を推進した。にもかかわらず,ウィーンという都市そのものが保守的で享楽的であるというイメージは,当時からすでに染み付いており,覆ることはなかったのである。それは彼ら2代の改革がうまく行かなかったからではなく,彼らの改革がウィーンの都市民の実情にあった形でなされ,そのオーストリア啓蒙専制特有の改革こそが,まさに現在の都市ウィーンを形成したのである。
具体的に言えば,マリア・テレジアもヨーゼフ2世も「人民の統治には娯楽が必要である」ということを強く認識していた。一方で粗野で下卑で暴力的な娯楽は追放し,その代わりに美食や散歩,演劇や行列といった視覚的な娯楽=「スペクタクル」が,啓蒙に則った人間の娯楽としてふさわしい行動だと考えた。ゆえに彼らは積極的に世俗の娯楽に介入し,都市民に新たな娯楽を植えつけた。結果としてこの「上からの新たな娯楽の提供」は,余暇と労働時間の分化を促し,カトリック教会の世俗化をも促したのである。
つまり,この君主母子は,「享楽の都」から娯楽を奪い去ろうとしたのではなく,娯楽そのものを啓蒙して,「芸術の都」へと進化させたのである。このラディカルではない変質が,他地域の啓蒙主義者にとって改革は失敗したかのように見え,彼らの喧伝がやや偏ったウィーンのイメージを歴史学に植えつけていたのである。特にプロテスタントの文化人にとっては,娯楽そのものが啓蒙主義的理性・禁欲とは相容れなかったがゆえに,このような喧伝・悪評を撒き散らしたのであった。しかし,ウィーンが実現した穏健な娯楽と市民の行動規範は,確かにドイツやフランスの場合とは経路が違ったが,しかし間違いなく近代的な市民像の萌芽であった。
本書はこの君主母子による「ウィーンの社会・文化改革」の進展とその受容,また啓蒙の先進地域であった他地域(特にドイツ)からの旅行者にはこの改革がどのような目で映ったのかを分析し,改革の実情とイメージ形成の過程を明晰に解き明かしている。その研究手法は,当時出版されていた旅行記や日記などの膨大な史料から読み解いていくという社会文化史研究の王道を行っており,その点でも非常に好感が持てる。2005年初版なので,ちょっと古めの本である。ただし,最近読んだ本では最もおもしろい本であった。ここ半年ほどで読んだ数十冊の中では最も興味深く読めた。
ついでに,自分用のメモも兼ねて,そもそもなぜウィーンが享楽の都となっていたのかということについて本書の内容を踏まえて記しておく。ある種地政学的な説明になるのだが,18世紀のハプスブルク家は東欧に広い領土を持ち,国土全体から見るとウィーンというのはひどく西端に位置していた。しかし,オーストリア帝国を西欧の国家として考える場合,やはり東欧に位置する国土の大半は後背地に過ぎず,その富は(収奪というとニュアンスが強すぎるが)国土の西側へ集められた。特にハンガリーとボヘミアという沃土は,ウィーンの都市民に食の娯楽を植えつけるのに十分であった。
その上さらに,ハプスブルク家というのは旧家であり,長い歴史の中で自らの宮廷を肥大化させてきた。実のところウィーンの18世紀初頭当時の人口は約13万人程度で,同時期のパリやロンドンが50万人都市,アムステルダム・ナポリ・ヴェネツィアで20万人都市であったことを考えるとまだ都市としては小さく,にもかかわらずその1/4以上は宮廷の直接の関係者であった。上記の他の大都市がすでに商工業者による都市人口増加が始まっていたいたこととは対照的に,ウィーンはほぼ完全に政治的都市でしかなかったことはうかがえる。ウィーンはヨーゼフ2世の頃にようやく20万人に到達するが,それでもこの割合は変化がなかったと思われる。であるからこそ,絶対的な宮廷の君主が,啓蒙専制を敷く事ができた。しかし,ヨーゼフ2世は宮廷の合理化に際し宮廷儀礼を大量に廃止し,「スペクタクルの民営化」を推進したため,宮廷はスリムになったが,これもまたウィーンの経済的近代化の基盤となったのではないか。なお,ウィーンが急激に都市化したのは,普墺戦争後のことである。
ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)
著者:山之内 克子
講談社(2005-09-10)
おすすめ度:
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
18世紀後半,東欧には世界史上特異な政治形態が誕生した。啓蒙専制君主制である。すなわち,啓蒙主義に則り,君主自らが国家社会の合理化・自由化を図るというものだ。その合理化や自由化は自国の富国強兵に役立つかたわら,一方で絶対的な君主制そのものを揺るがしかねない危険性を秘めている,矛盾した統治体制であった。オーストリアの啓蒙専制君主といえば,ヨーゼフ2世と,広義ではその母親,マリア・テレジアが含まれるだろう。
この母子2代の君主は,啓蒙専制君主として,ウィーンという都市とその都市民に対して様々な改革を推進した。にもかかわらず,ウィーンという都市そのものが保守的で享楽的であるというイメージは,当時からすでに染み付いており,覆ることはなかったのである。それは彼ら2代の改革がうまく行かなかったからではなく,彼らの改革がウィーンの都市民の実情にあった形でなされ,そのオーストリア啓蒙専制特有の改革こそが,まさに現在の都市ウィーンを形成したのである。
具体的に言えば,マリア・テレジアもヨーゼフ2世も「人民の統治には娯楽が必要である」ということを強く認識していた。一方で粗野で下卑で暴力的な娯楽は追放し,その代わりに美食や散歩,演劇や行列といった視覚的な娯楽=「スペクタクル」が,啓蒙に則った人間の娯楽としてふさわしい行動だと考えた。ゆえに彼らは積極的に世俗の娯楽に介入し,都市民に新たな娯楽を植えつけた。結果としてこの「上からの新たな娯楽の提供」は,余暇と労働時間の分化を促し,カトリック教会の世俗化をも促したのである。
つまり,この君主母子は,「享楽の都」から娯楽を奪い去ろうとしたのではなく,娯楽そのものを啓蒙して,「芸術の都」へと進化させたのである。このラディカルではない変質が,他地域の啓蒙主義者にとって改革は失敗したかのように見え,彼らの喧伝がやや偏ったウィーンのイメージを歴史学に植えつけていたのである。特にプロテスタントの文化人にとっては,娯楽そのものが啓蒙主義的理性・禁欲とは相容れなかったがゆえに,このような喧伝・悪評を撒き散らしたのであった。しかし,ウィーンが実現した穏健な娯楽と市民の行動規範は,確かにドイツやフランスの場合とは経路が違ったが,しかし間違いなく近代的な市民像の萌芽であった。
本書はこの君主母子による「ウィーンの社会・文化改革」の進展とその受容,また啓蒙の先進地域であった他地域(特にドイツ)からの旅行者にはこの改革がどのような目で映ったのかを分析し,改革の実情とイメージ形成の過程を明晰に解き明かしている。その研究手法は,当時出版されていた旅行記や日記などの膨大な史料から読み解いていくという社会文化史研究の王道を行っており,その点でも非常に好感が持てる。2005年初版なので,ちょっと古めの本である。ただし,最近読んだ本では最もおもしろい本であった。ここ半年ほどで読んだ数十冊の中では最も興味深く読めた。
ついでに,自分用のメモも兼ねて,そもそもなぜウィーンが享楽の都となっていたのかということについて本書の内容を踏まえて記しておく。ある種地政学的な説明になるのだが,18世紀のハプスブルク家は東欧に広い領土を持ち,国土全体から見るとウィーンというのはひどく西端に位置していた。しかし,オーストリア帝国を西欧の国家として考える場合,やはり東欧に位置する国土の大半は後背地に過ぎず,その富は(収奪というとニュアンスが強すぎるが)国土の西側へ集められた。特にハンガリーとボヘミアという沃土は,ウィーンの都市民に食の娯楽を植えつけるのに十分であった。
その上さらに,ハプスブルク家というのは旧家であり,長い歴史の中で自らの宮廷を肥大化させてきた。実のところウィーンの18世紀初頭当時の人口は約13万人程度で,同時期のパリやロンドンが50万人都市,アムステルダム・ナポリ・ヴェネツィアで20万人都市であったことを考えるとまだ都市としては小さく,にもかかわらずその1/4以上は宮廷の直接の関係者であった。上記の他の大都市がすでに商工業者による都市人口増加が始まっていたいたこととは対照的に,ウィーンはほぼ完全に政治的都市でしかなかったことはうかがえる。ウィーンはヨーゼフ2世の頃にようやく20万人に到達するが,それでもこの割合は変化がなかったと思われる。であるからこそ,絶対的な宮廷の君主が,啓蒙専制を敷く事ができた。しかし,ヨーゼフ2世は宮廷の合理化に際し宮廷儀礼を大量に廃止し,「スペクタクルの民営化」を推進したため,宮廷はスリムになったが,これもまたウィーンの経済的近代化の基盤となったのではないか。なお,ウィーンが急激に都市化したのは,普墺戦争後のことである。
ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)著者:山之内 克子
講談社(2005-09-10)
おすすめ度:
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る
Posted by dg_law at 17:34│Comments(0)│