2010年10月18日

ツイッターから村上隆批判関連のpost再掲

旬なうちにセルフでいいからとぅぎゃっとけよ俺,と思った。適当に再編集してるので,まんま再掲というわけではない。


何か勘違いしている人が多いが,これを自らの思索なしに芸術と認めることは寛容の発露ではなく,単なる知的怠惰。やはり,芸術は自己破壊することでしかもはや生き残れないのか。まあ個人的な意見としてはこうした「釣れた」とか「皆さんに考えてもらうこと自体が芸術です(キリッ」とかいう時点で,芸術ってとっくに終焉してるよなぁと。

東浩紀がヲタも現代アートもハイコンテクストな世界であり,片方に無知な状態で村上隆を批判するのはお門違いだというようなことを言っていた。悔しいがこれには賛同したい。現代アートはまさにハイコンテクストな世界だと思うし,批判するならその構造自体を批判する必要がある。その上で,私はまさに「現代芸術そのもの」を批判している。

で,村上本人は「現代芸術の世界において日本は搾取される立場。そこで日本の文化であるオタクを翻訳して輸出し,対抗している」と反論していた。これには「貴方のやっていることは誤訳ですよ」としかいいようがない。東の言葉を借りればまさにオタク側のハイコンテクストを張本人が理解していない。誤訳な上に「どこをどう要約したら元のヲタク文化になるんだよ」ってなもんだから,たたかれている。それを理解しているのかしてないのか。理解していて,かつスルーしているように見えるから,余計にたたかれている。

「翻訳なんだから元とは相違して当然」なんて,欠片しか要素が残ってないものを指して言われても,なんの説得力もない。ここのブコメにある「愛の無い二次創作はたたかれる」はけっこう正解に近いと思った。そりゃ「俺魔理沙」やればたたかれますよね。


村上隆擁護で「もっと現代美術のことを勉強しろ,美術史的にはアレは否定しがたい」という意見を見るが,本気で言っているんだろうか。なんというか,これはそのまま現代アートの閉鎖性にもつながると思う。これには本気であきれた。さらに絶望しそう。

現代アートのハイコンテクスト性というのは結局「いかにして美術史は芸術の終焉に向かったか」と「終焉後も可能な芸術とは何か」という文脈の上に成り立っている。それは勉強すれば誰にでも分かるし,だからこそ自分は「偉大な画家十選」にデュシャンを入れた。

結局終焉後の芸術概念の模索は,「価値の転倒」「新たな視点」等といった美名のもとでバーリトゥードが繰り広げられることになる。だから,現代アートのハイコンテクスト性を学んだところで大概の人は「そりゃもっともらしい説明のつく目新しいものを提示すれば,ひょんなことから評価されることもあるかもね」程度の感想しか出てこないと思う。はっきりと言えば,そこからは感性の問題。その作家と自分の波長や問題意識が共通するかどうか。理屈ではない。だから共通認識の生まれる土壌に至らない。これが現代芸術の閉鎖性であり,芸術の終焉が生んだもの。この辺の詳しい話は昔ブログで書いたので,ここら辺でも読んでほしい。

ちなみに,世界的にもオールドマスターや印象派のほうが評価が高い。というか,印象派は世界を制している。だって圧倒的にわかりやすいもん。これは歴史的にそうで,20世紀の初頭にはすでに「前衛芸術家は胡散臭いもの」という常識が存在した。大衆なんてそんなもんです。要するに,現代芸術に対する視線が冷ややかなのは日本だけの状況でもなければ,現代だけの状況でもない。それこそ,その程度勉強してから発言しろよって話。日本が遅れているとか言ってる奴は腹を切って死んだほうが良い。「偽史でも語れれば良い」って言ってる奴と一緒かそれ以下じゃないか。

ああ,一応言っておきますが,前述のように波長や問題意識があっているならば,村上隆含め,現代芸術を賞賛してもいいんじゃないですか。他人の価値観にまでは侵入しません。僕だって嫌いじゃない現代芸術があると思う。探してないだけで。現代芸術に含めて良いかどうかは別にすればニコライ・レーリッヒなんかは好きですよ。


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