2010年11月02日

第171回『アンナ・カレーニナ』トルストイ著,望月哲男訳,光文社古典新訳文庫

タイトルを『コンスタンティン・リョーヴィン』に変更すべき。と,おそらくすでに言われまくっているであろうことを,あえて冒頭に掲げておく。

本書を読んだのは二回目だが,一回目は大学1年の頃で,(某人の推薦で)義務感に駆られて読んだのもあり,旧約の読みづらさもあり,当時の自分の読解力もあり,ほとんど今回が初めてのような感覚で読んだ。感想が当時と大きく違うので,そこら辺を各登場人物に対する評価としてつらつらと語っていく。既読者はぜひ,コメントの程を。

アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:レフ・ニコラエヴィチ トルストイ
光文社(2008-07-10)
販売元:Amazon.co.jp
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以下,全編ネタバレ。
・アンナ・カレーニナ
昔読んだときはちょっとかわいそうな人だなと思ってたけど,今回一番感想変わったキャラ。かわいそうな人なんかではない,ただのメンヘラ。ヴロンスキーと不倫が始まり,離婚訴訟が失敗に終わり,ヴロンスキーとヨーロッパに行ったところくらいまでは擁護できた。そこから先がダメ。そのままヴロンスキーを信じ続けてくれれば良かったし,すれば自殺することもなかったであろう。また,百歩譲って嫉妬と自殺が規定路線であったとしても,こいつは言ってはいけないことを何度も発言している。それも後半に進めば進むほど。あまりに腹が立ったので列挙。共感してくれる人は何人かいるはず。

「私は別に嫉妬深くないと思うわ。嫉妬深いどころかこうして貴方がそばにいてくれる間は,貴方を信じきっているのよ」(第4部,3章。以下4−3と表記)
「私は貴方のそういう落ち着き払ったところ嫌い。」「だって,もしも貴方が私と同じくらい苦しんでいてくれたら……」(5−33)
「セリョージャだって,あの人のために犠牲にしたんじゃない?それなのに私を傷つけてやろうと願うだなんて!そうよ,あの人は別の女を愛してるんだわ,それしかありえない」※ 以前に自分で「息子(セリョージャ)と愛人(ヴロンスキー)は二者択一でどちらも手に入れることは出来ない」と言っているにもかかわらず。かつ,ヴロンスキーに浮気のそぶりはなくまた実際浮気もしていない(7−23)。

嫉妬に狂うのは仕方ない。それが人間の情念であろう。ただし,それは恋人の側に,故意か偶然かは別として,不審な動きがあった場合である。しかし,ヴロンスキーはへたれではあってもどこまでも誠実で,アンナに嫉妬させる要素はどこにもなかった。また,母親としての自分と,「女」としての自分の間で揺れ動くのも,私は女性ではないが,それなりに理解できるつもりである。しかし,貴女はそこまで覚悟してヴロンスキーとの不倫劇に及んだのではないのか。その責任をヴロンスキーやオブロンスキーに取らせ,自らは嫉妬に狂うのみという態度はいかがなものか。第7部のアンナはまるで言葉が通じない人間であり,その終焉は自殺ではなく,まさに自滅,もしくは自爆であった。巻き込まれたヴロンスキーがどこまでも不憫である。ああ,クラムスコイの《忘れえぬ女》も今見ると印象違うな。でも,それでもこれはアンナに見えるから,この絵はやはり名画だ。


・コンスタンティン・リョーヴィン
もう一人の主人公。解説に「リョーヴィンの話がなぜ挿入されているのかわからんという読者も多い」という文があったが,まさに前読んだときの自分がそうであった。今の感想はまるで正反対で,彼こそが真の主人公である。もちろん,第一主人公はアンナに違いないのだが,アンナが輝くためにはリョーヴィンという存在が必要であり,その諸要素はまるで正反対である。

(※ ここだけエロゲトーク。今だからわかったが,『SWAN SONG』は『アンナ・カレーニナ』がベースになっているのは疑いえないだろう。リョーヴィンを分解すれば司が抽出されるし,何よりも柚香がアンナに違いない。他もやや無理に当てはめれば,オブロンスキーは田能村,雲雀はキティ,クワガタがヴロンスキーということになる。柚香とクワガタが結びつくことで物語が決定的に破局する点は,完全に物語の筋がかぶっている。ただし,『アンナ・カレーニナ』もかなりキャラの二分法が激しいが,『SWAN SONG』のほうがさらに激しい。ヴロンスキーはなんだかんだで良い人なのに対し,クワガタはアレな人なので……。)

こいつの童貞くささは現代ジャパンに通じる。代表的なところで,「彼は結婚抜きで女性を愛することなど想像もできなかった。」(1−27)とか。しかし,彼のその朴訥さは評価されるべきであったし,実際に評価されたからこそキティの結婚できた。プロポーズのシーンは本作品最高の名シーンである(4−13)。通勤電車で読んでいて不覚にもうるっと来た。正直に言えば,こういうロマンチッチなプロポーズあこがれるわー。俺の中の乙女がキュンキュン来た。結婚して。


・アレクセイ・ヴロンスキー
初読では「こいつが諸悪の根源じゃ」と思っていたが全然そうではなかった。不倫良くない,という道徳的な小説で終われれば彼も非難できる対象であったのだが。この物語のそもそもの発端は,アンナが本当の恋愛を知らずにカレーニンと結婚してしまった点にあり,それは19世紀後半ロシアの貴族同士という事情が生んだものであるから,ヴロンスキーだけを非難できまい(そもそもこれを道徳的に非難してしまったら,『アンナ・カレーニナ』という作品自体が未成立となる)。さらに言えば,当時の社会において不倫はそこまでの罪ではなかった。問題は彼らの恋愛が火遊びの領域を超え,離婚問題にまで踏み込んだことである。そして,ことヴロンスキーに限れば,常識的な範囲でギリギリ非難されない領域でうまく立ち回っていた。しかし,カレーニンとアンナがそうはさせてはくれなかったのである。

自暴自棄になってセルビアに出征する下りには,さすがに同情せざるをえなくなった。彼は彼なりに,己の人生をかなぐり捨てて愛に生きようとしたのだ,それも誠実に。だが,その精一杯の愛は届かなかった。アンナの自殺は,彼にとって青天の霹靂であったであろう。この辺りのアンナとヴロンスキーの心情描写は,さすが歴史に残る名著だとうならされた。私は,彼に「リア充死ね」ということはできない。


・キティ(カテリーナ・シチェルバツカヤ,後リョーヴィナ)
1・2部ではメインキャラの割にキャラ薄いなーという印象しかなかったが,3部以降は非常に濃い動きをしてくれた。なるほど,キャラがあえて薄かった理由はこのためか,と。リョーヴィンの項目でも書いたが,あのプロポーズは非常に良かった。この辺,私は彼女に感情移入していたような気がする。結婚後もナイス萌えキャラで,しかも良妻賢母であった。しかし,キティが良い人すぎるからこそ,それを裏切ってアンナになびいた,ヴロンスキーの恋愛の燃え上がる炎が際立つわけだが。また,キティとヴロンスキーが結婚しても,互いに幸せにならなかったであろう。互いに求めているものが違いすぎたからである。それこそ,ヴロンスキーは浮気を繰り返しそうである。これらの諸要素が,恋愛結婚って素晴らしい,というトルストイからのメッセージだとすれば,さすがにちょっとだけアンナが不憫に思える。

しかし,改めて考えてみると,キティが1部の時点でリョーヴィンの求婚を受け入れていれば,いろいろ丸く収まったんじゃないだろうか。第2・3部で張られたもろもろの伏線が崩壊するような……。アレ?


・オブロンスキー
言うまでもなく本作の狂言回し,兼道化。ただし,彼の道化性能はあまり高くなく,ところどころで失敗がある。たとえば,4−6でカレーニンに遭遇したときの対応の間違いは,その後のアンナとの離婚交渉にまで悪影響を及ぼした。また,道化は舞台裏で泣かねばならぬが,彼はドリーとアンナに頼りすぎた。ドリーは出来た女性だったが,オブロンスキーは彼女にあまりにもつけを回しすぎたため,彼女だけでは回しきれなくなった。その端緒はまさに冒頭の騒動である。オブロンスキーはその解決さえもアンナに頼った。そしてアンナにとって頼られた結果が,ヴロンスキーとの出会いという皮肉な結果を生んだ。

とうとう彼は,そのつけを自分で処理することになった。第6部以降の金策は道化らしからぬ滑稽さである。そしてその余裕の無さは彼の言動の節々に現れる。第6部以降の彼の余計な行動が,ヴロンスキー側の人間関係に微妙なダメージを及ぼしていく。カレーニンに対する離婚交渉の失敗や,うっかりリョーヴィン・キティとアンナを会わせてしまったことなどは,その山場となっている。特にこの2つの事例は,アンナが鉄道自殺する直接の原因となった。それでもオブロンスキー自身は,最後の最後に委員会の職を得て人生に一筋の光明が見える。これは,「彼も根の良い奴である」というトルストイの意思表示か。なんだかんだ言って,リョーヴィン型の人間とも,ヴロンスキー型の人間とも,両方話ができる人材は貴重で,こういう人はそうそういない。


・カレーニン
序盤の良い人っぷりはどこへやら,アンナに不倫されてからのへたれっぷりは,「ああ,こいつどっちにしても仕事上のどこかでへまして失脚しただろうな」と思わせられてなんとも言えない気分になる。彼にヴロンスキーかリョーヴィンの思い切りの一部でもあったなら。離婚は認めてやるべきだったし,もっと言えば彼は瀕死のアンナを見て,アンナとヴロンスキーの二人を感情的に許してしまったわけだが,そこで冷静になれないのが,彼の人間としての決定的な弱さである。この弱さは,彼の人生にも彼の出世街道にとっても致命的であった。

そもそも,カレーニンなんぞとアンナが結婚したのが不幸の始まりだったわけだが,それを言い出すと小説が成立しないのでやめておく。さりげに,直接対決してないものの,リョーヴィンとは政治思想はまるで正反対(カレーニンが近代主義者)なのもポイント。


ドリー(ダリヤ・オブロンスカヤ)
良くも悪くも本作には珍しい常識人。オブロンスキーとの夫婦は意外と良好なのはひとえに彼女の努力の成果である。


・リディヤ・イワーノヴナ夫人
あんた何がしたかったんだ?カレーニンと肉体関係になったわけでもないし。単にアンナが嫌いなだけだったら,いわゆる嫌なお局様だなぁと。ペテルブルクの社交界怖いです。



最後の最後に,第4部に示されたトルストイの芸術観について少しだけ述べておく。7−5の末尾。ラファエロ前派の単純さを賞賛し,甘ったるくて野放図な単純さを批判している。ラファエロ前派を単純と評するのは初めて見たのだが,当時としてはどうだったのであろうか。加えて,トルストイがどの程度,ロセッティやミレイを鑑賞したことがあるのかは相当疑問である。エルミタージュって当時から収集していたか?

もう一つ。トルストイは,フランス人はどの国民にもまして芸術の様式性を極端に高めてしまったために,かえってリアリズムへの回帰に格別な地位を見出している,と述べている。当時はちょうど《印象 日の出》がぼこぼこに批判されていた時代で,確かに自然主義全盛期ではあった。しかし,「芸術の様式性を極めてしまった」かぁ。その後の前衛の流れを予期しての発言なら,相当先見の明があるなぁ。


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この記事へのコメント
初めまして。

『アンナ・カレーニナ』の書評で当サイトを発見したのですが、エロゲーの批評も大変面白くて読み嵌ってしまいました。特に私の大好きなエロゲーの「穢翼のユースティア」の評論がとても素晴らしかったです。そのうちコメントできたらと思います。

リョーヴィンは本当に現代でも通じる童貞キャラですよねー。キティに振られてから、キティと再開するまでの間の振られた思い出の屈辱だとか、もう俺はどんな恋愛もできないんだー、って描写の辺りは特にそう思いました。

カレーニンは最初はつまらない男だと思っていたのですが、アンナの難産を間の辺りにしてアンナとヴロンスキーを赦すシーンでホロリとしました。血の繋がらない娘に、実の息子と同じぐらいの愛情を持てるところも。その後からカレーニンを単なる小人物のように見なせなくなりました。

アンナは全く同じ感想持ちました。後半のメンヘラ女化がひどいですよね。

リョーヴィン達の家族描写のどこかで、ドリーが「自分もアンナみたいに愛に誠実に生きていたらどうなっていたんだろう」と、カタギの世界で生きている者が持つアウトサイダーへの憧れが描かれていて、ドリーとアンナは対になっていますね。

ドストエフスキーの女性キャラの方が萌えキャラ的で、トルストイの女性像は写実的というかリアル寄りの女性像という風に思っています。

望月哲夫さんの『アンナ・カレーニナ』の翻訳を読みやすいと思って、今は『白痴』を読んでいる最中です。1巻時点でムイシュキンさん大好きになってます。子どもとの交流が好きで『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャっぽいキャラクターですね。

ただアリョーシャに関してはDG-Lawさんの『カラマーゾフの兄弟』の感想と同じく、内面が空虚で、作りもの感がありますが。それでもゾシマ長老の遺体の腐敗の話は大好きです。
Posted by 祈 at 2015年01月26日 16:02
大変熱の入ったコメントで,返事が遅れました。その割に大した返事じゃないですが,申し訳ない。

『穢翼のユースティア』は名作ですね。私も大好きです。

カレーニンはこの大事件に巻き込まれた小市民ですが,小市民すぎて憎めない。
私はあそこでアンナを許してしまったことで「その感触が強まりました。
ここは割と人によって感想が異なるところかもしれません。

>ドストエフスキーの女性キャラの方が萌えキャラ的で、トルストイの女性像は写実的というかリアル寄りの女性像という風に思っています。
これはあるかもしれません。
ドストエフスキーの書く女性像の方がぶっ飛んでますよね。

『白痴』は前から読もうとしつつ,まだ手をつけていません。光文社古典新訳文庫に入ってから読もうかと思っていたのですが,よくよく考えてみると,おっしゃるとおり河出文庫の訳が本書と同じ望月哲男さんなんですよね。だったらそれで読めばいいか,という気もしてきました。
Posted by DG-Law at 2015年01月28日 10:23