2010年12月05日

第174回『バタイユ 消尽』湯浅博雄著,講談社学術文庫

著者がバタイユの思想を整理しながら,様々な概念について思索する本。こうした哲学書にはありがちなことだが,筆者の思考なのかバタイユの解説なのか,筆が乗りすぎてて判然としない部分が多々あるが,一応バタイユの思想の解説本ということでいいのだろう。

大雑把に本書の思考範囲を紹介する。序章はバタイユの人生・経歴を改めて確認している。そして非知や否定神学,有用性,禁止と侵犯など基礎的な概念を並べている。内的経験とは時間から解き放たれて自分を見つめなおすことだ。その無我の境地では,動物性も神秘体験も同様である。案の定サルトルからは非難されていたらしい。そりゃ理性尊重主義で実存主義のサルトルと,非合理主義で非実存主義のバタイユじゃ対極だろう。内的経験が達成するのは忘我であり,主体の外のことだ。バタイユはさらに共同体について思考を進め,王権とファシズムの関連について考える。ファシズムとはまがい物の王権なのだ。民族は「想像の共同体」である見なしたのは社会学であったが,バタイユから見ても民族とは宗教と同様であり,強引な同質性の保存であった。

第一章は動物性と人間性について論じている。人類は死の概念を発見し,生と死の区別をつけ,限られた生を活かすために有用性の概念を生み出した。聖なるものと俗なるものの違いが生まれた瞬間である。だからこそ動物性とは聖なるものの片方なのだ。ネアンデルタール人は埋葬し,クロマニヨン人はラスコーに狩猟の壁画を描いた。有用性とは正反対の方向にある宗教と芸術の誕生であり,聖なるものの発露である。ハイデガーのいうDaseinもバタイユに言わせれば,その最も本質的な有り様は単なる「死に向かっていく存在」でしかない。

第二章は俗なるものについての考察である。理性は直接的な行動を制止し,道具を製作するという回り道を通ったほうが結果的に有用であるということを明らかにした。そうして主体と外界を明確に区別し(対象化ともいえる),道具化し,自らを死から遠ざけるための行動,理性のつかさどる行動。これが俗なるものの世界である。農耕も牧畜もこうして生まれた。してみると,冠婚葬祭を司る宗教家が集団において特権的な地位を得,原始的な社会では政治も司っていたのは自然なことである。剰余を搾取することは,聖なるものの領域であるからだ。

第三章は続けざまに聖なるものとその宗教性,エロティシズムについて論じる。性のタブー化,特に近親相姦のタブー化も生と死に大きくかかわることを考えれば不思議ではない。聖なるものの反対は俗なるものではなく呪われたものであり,それは聖なるものの対極でありながら,俗なるものとの対比では聖なるもののの側にいる。人間には侵犯を超える欲望があり,とりわけ「性」という特殊な領域においてその欲望が発揮された場合,これをエロティシズムと呼ぶ。生殖は生産だが,エロティシズムは非生産的であり,聖なるものの領域にいる。生殖器官と排泄機関が(物理的な意味で)近いことは,バタイユはアウグスティヌスを引きつつ語ったこともあれば,自らの小説『眼球譚』で表したところでもある。しかしそこに羞恥心を抱くのは文化的な嫌悪である。

第四章はさらに祝祭と供儀について述べる。祝祭の乱痴気騒ぎは,それそのものが宗教性を帯びる。第五章はその宗教さえも制度化されたものに変わっていく様子を叙述する。第六章はその一例としてキリスト教を挙げ,キリストはイエス自身による供儀であったところから急速に制度化していったことを示し,バタイユの否定神学について考察する。第七章はいよいよ宗教とは別の聖なるものである,芸術・文学について論じる。第八章で再び共同体への問いかけを行い,終わる。最後に略年表と主要文献解題,キーワード解説。


あくまでバタイユに関心があれば,という本。


バタイユ (学術文庫)バタイユ (学術文庫)
著者:湯浅 博雄
講談社(2006-05-11)
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