2011年04月23日

キリエ・エレイソン −キリスト教的に解釈するまどか☆マギカ

かなりこじつけているので,穴だらけご容赦。ネタバレ全開。まじめに書いた方の感想・考察記事はこっち


・洗礼者ヨハネとしての巴マミ
イエス=キリストには先行する導き手として,洗礼者ヨハネが存在する。彼は律法を遵守することに固執していた当時のユダヤ教を批判し,神の恩寵が近いことを預言し,大衆に説いた。最もクローズアップされる功績は,ヨルダン川でキリストに洗礼を授けたことである。それゆえに「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになった。また,彼はその死についても注目を集めやすい。時のユダヤ王,ヘロデに捕らえられ,斬首された。

さて,一方のマミさんも,後のキリストであるまどかと,ついでにさやかを魔法少女に導き,殉職した。今考えれば完全に伏線なのだが,首チョンパが共通点とか想起できるはずがねぇだろということと,それ洗礼の意味違うよぶっさん,ということはここで言っておかねばなるまい。しかしそうするとポジション的にシャルロッテがサロメになるわけだが,二次創作で二人(?)が仲良く描かれるのが流行しているのを見るに,複雑な気持ちになる。まあ,捕食は一種の愛ですよ愛。で,紅茶を血の暗喩とするなら,死に際の紅茶のティーカップが割れている映像はこれなんだろうなぁ。わざわざ紅茶を台の上に置いたあたりが小憎らしい。


・マグダラのマリアとしての美希さやか
これが一番こじつけ。なんせ基本的に共通点がキーワード「娼婦」しかないですもん。マグダラのマリアは『ダ・ヴィンチ・コード』でキリストの内縁の妻であり,その子孫を育んだとされて一躍注目を浴びた。その本来の姿は,元娼婦だが,キリストに許されて悔悛し,いつの間にかキリストの女性信徒の筆頭になっていた。もっとも,マグダラのマリアは様々な女性の逸話が混ざって誕生した存在で,外典はおろか福音書内部で大分設定が危うい登場人物だったりもする(娼婦という設定自体が相当後付のようで,別人とする説も強い)。キリストの妻であるという説の最も有力な証拠はグノーシス主義の原典ナグ・ハマディ文書だが,これについても異論がある。仮にグノーシス主義の話を出すのであれば「魂が本体,肉体は器」となす極端な心身二元論という部分で,その特徴を最初に視聴者に示したのがさやかであった,という奇妙なつながりが存在する。完全に偶然だと思うが。

その本来の姿から考えると,マグダラのマリアは「キリスト者」になりきれたのに対し,さやかはなりきれずに堕落した。が,ここで『ダ・ヴィンチ・コード』を出さずとも実は昔から存在する,マグダラのマリアはキリストの内縁の妻説を採用するとちょっとだけおもしろくなる。結局キリストは神な上にマザコンなのでその妻は報われない(その点,「子をなした」という報いを与えた『ダ・ヴィンチ・コード』はやはり新しかったわけだけど)。上条君の場合は直接母ではなかったけども,母性の強い女性に(幼なじみ属性を振りきってまで)惹かれていったということは注目に値する。加えて言えば,障害者の障害を治したり死者を蘇らせたりといった類の奇跡はイエス=キリストの得意技だが,それをなしたのがマグダラのマリアの側,というのも見事な鏡である。


・聖母マリアとしての佐倉杏子
これはわかりやすい,というよりもここら辺からキリスト教的色彩がどんどん濃くなっていった。杏子自体が神父の娘であり,林檎は原罪の象徴である。無原罪のマリアが林檎を食すという,ここでもまどマギお得意の裏返しが行われている(ふと思い出したが,そういえば各主要キャラの姓名もひっくり返しても通じるという話もあったし,初期には『鏡の国のアリス』との関連も疑われていた)。7話のステンドグラスは,あの型の天使を今ひとつ見たことがないのでなんとも言えない。何か知っている人いたら教えてください。ひとまずのところ,さやかが杏子を死なせることになるという暗示ではあった。

なお,西洋美術史においてマグダラのマリアは朱色のマントを羽織り,髑髏と香油がその持物となっているのに対し,聖母マリアは純血を示す白と貞節を示す青の上下を着ていることが多い。言うまでもなく,これらについて美希さやかと佐倉杏子はひっくり返っている。イエス=キリストではなく,同じ「マリア」の祈りがもう一人のマリアを救った,とまで踏み込むのはさすがに深読みのしすぎではあろうか。また,それも踏み込み過ぎだろうと言われることを前提で書くと,オクタヴィアは髑髏をモチーフにしているように見えなくもない。


・キリストとしての鹿目まどかと,11・12話
宗教としてのキリスト教の特異点は「贖罪」だろう。ツイッターでつぶやいたことだが,宗教というのは多かれ少なかれ「理不尽からの魂の救済」がその主目的に据えられる。だが,いかにしてその理不尽を具体化し,納得の良く説明をつけるか,そして救済の方法や救済する主体,救済される対象の範囲などをめぐり,教義は分かれる。アブラハムの宗教の特徴はその理不尽を原罪という形で具体化したが,その救済方法はそれぞれバラバラである。その中で,キリスト教で最も強調されるのはやはり「恩寵」であり「贖罪」であろう。

まどかは願おうと思えば,人類の文明社会を無に帰すとしても時系列の矛盾が生じるとしても,「魔法少女のシステム自体を消滅させる」ことも願うことができたと思われる。しかし,それはしなかった。彼女が行いたかったのは全人類の救済ではなく,「奇跡を願う心=希望が,反転して絶望になってしまわないこと」である。彼女は理不尽を許容しつつ,それでも希望を抱くことを許した。そして,その人間には度の過ぎた願いをいだいてしまった罪は,彼女が一人背負い,天に帰った。まどかは全ての魔法少女に恩寵を施し,贖罪を与えたのだ。魔法少女になることとはすなわち,原罪を背負うことであった。

11話のまどか母と先生が飲んでいる場面に掲げられた絵がミケランジェロの「創世記」連作の《天地創造》であった。また,これは後から気づいたのだが,12話で上条君が弾いていたのも『アヴェ・マリア』で,聖母への祈りの曲である(それを聞いて被昇天するさやかという皮肉)。これほどあからさまな伏線を張ってくるとは思わなかった。ここまでキリスト教色を抑え(誰にも気づかれないほど),その上でこの話を導いてきていたので,11話にして明示するとは,あまり考えていなかった。と同時に,これだけキリスト教の具体物を消して,キリスト教的な話を持ってったという点が,実は本作の本質ではないかと思う。

ただ予型論(『新約』で起きる事件は『旧約』で一度起きているという説)に従えばそこは「創世記」ではなく,《キリストの昇天》か,《エノクの昇天》にしておくべきであった。まどかの魔法少女化は確かに天地の再創造ではあるのだが,どちらかと言えばキリストの昇天のほうがさらに近いだろう。後者ならマイナーで誰も気づかない代償を支払って,エルシャダイとのコラボの可能性が広がったのに!というくだらないオチでこの話を閉めさせていただく。


あ,書き忘れてたけど,ほむらはペテロですかね。最初に贖罪された人間というのと,現世にとどまって人類を救う側に立ったという点で。ただ実質的な主人公というか,人間代表なのであえて当てはめる意味もないかもしれない。このループからの解放と地蔵菩薩化をもって「まどかは大乗仏教」とする記事も見かけた。これを指して「じゃあキリスト教と仏教の合体でマニ教で」ってブコメつけたら割と好評でした。

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「魔法少女まどか☆マギカ」11話、12話を視聴。
雑記「魔法少女血風録」【HOTEL OF HILBERT】at 2011年04月25日 23:13
この記事へのコメント
>ほむらはペテロですかね。

私はヨハネじゃないかと思いました。洗礼者ヨハネであり、福音書のヨハネ、黙示録のヨハネでもある。三人を合わせたような……。
福音書のヨハネは、イエスの最愛の弟子と呼ばれていますしね。
Posted by 通りすがり at 2011年05月04日 10:05
実はヨハネというのも少し考えたんですよね。
そのほうが(百合的に)美しいような気はしますし。
まあ厳密に当てはめる意味もないか,というのを含めて考えた結果,上記のような文章になりました。

洗礼者ヨハネはマミさんだと考えていますが,後者二つはそうですね。
ほむらも当てはまっている要素だと思います。
Posted by DG-Law at 2011年05月04日 18:16
折角だからキュゥべえもそそのかした蛇とかグリゴリの天使とかなんとか。
Posted by ゚ろ゚ at 2012年11月02日 14:24
奴の位置づけは難しいですね。
話が『新約』のほうで完結してるので,なるべくその範囲内にしておきたいところですが。
最大の問題として,向こうのイエスさんは生まれながらにして神なので願いをかなえてもらったわけではないんですよね。

物語の中で一貫して敵,かつ『旧約』世界の支配者という意味では,パリサイ派の指導者たちということにはなるのかなーとか。
Posted by DG-Law at 2012年11月02日 23:28