2011年04月27日

キリエ・エレイソン(2) −魔法少女まどか☆マギカの私的解釈・感想

『Fate/zero』1巻のあとがきで,虚淵玄が「エントロピーの増大でどうせこの世は終わってしまうというペシミズムのせいでバッドエンドしか書けない」とか言っていたときは,正直何いってんだこいつとしか思えなかったのだが,今ならばこのスケールで考えてればそりゃね,とは思えるようになった。

以下,ネタバレ全開。まず,いろいろ解釈の分かれているらしい12話の自らの解釈を提示し,前回のキリスト教的解釈がどの程度ネタで書きどの程度マジで書いたか開陳した後,適当に感想を述べ,最後に「それだけはないだろう」と思った解釈にだけ少しだけ反論して締めることにする。


虚淵の新しいものを見せる,というのは全くの嘘で,本作は最初から最後まで,あくまでも「虚淵と,彼の周囲に存在した作品群の集大成」であった。一つ一つの要素を分解していけば,『Fate/stay night』に『鬼哭街』,果ては『Stein's Gate』と無数に分解できる。新しいような要素はどこにも見当たらない。が,それでも本作は傑作としてアニメ史に残るだろう。


まず,根本的なところで,魔法少女になることはそれ自体が悲劇か否か,という点について。これは誰かが言っていたが,実は魔法少女システム自体があいまいにしか説明されていないため,はっきりと言うことができないし,ここが最大の解釈の分かれ目ではないかと思う。加えて言えば,評価の分かれ目かもしれない。

この世界は根本的に理不尽である。そして複雑系でもある。前半はよく言われることだが,後半は忘れられがちである。だがこの2つは必ずセットだ。QBは魔法少女システムが人間世界に文明をもたらしたと言っていたが,それとは関係なく,世界全体の幸福の総量はさして変わらない。魔法少女システム程度で世界から理不尽が消え去るわけではなく,魔女がおらずともこの世界は絶望と不幸に満ち溢れている。逆に言って,魔女が魔獣になった程度で,大きく幸福に傾くなんてこともない。加えて言えば,これは別に希望と絶望が等価交換だとか言っているわけでもない。これをなんと表現すればよいかいい言葉がなくて困っていたのだが,twitterでぼやいていたら「世界の不幸はある一定値以下には下がらない」という言葉が飛んできたので,使わせていただく。

ゆえに,魔法少女になることそれ自体が悲劇であるかどうかは,あまり本質的な議論ではないし,仮に答えるのであれば悲劇ではない,と私は答える。その個人においても社会全体においても。この点をはっきり明示するためには,一人くらい希望を抱いたまま幸福な状態で魔法少女を続けているキャラがいても良かったかもしれないが,プロットの関係でそれは困難であった。些事ではあるが,本作は悲劇へと突き進むあまり,世界観やテーマの正確な描写において不備があったという指摘・批判は真っ当であろう。


その上で,まどかは魔獣という存在を残さず消すこともできたのではないか? という意見もあるが,まどかにそれは不可能であったのだろう。クリームヒルト・グレートヘンが決して倒せない魔女であるのと同様に(あの魔女の能力は確かにエヴァンゲリオンの人類補完計画に通じるが,そうならなかったし,あの説明は公式HPにしか掲載されない程度の重要度である)。魔女というのは絶望した魔法少女から誕生するものではあるが,そもそもは人々の魂が食糧で,怨念を撒き散らすのがその本領だ。そして,不幸は連鎖する。

魔女は世の理不尽の一部が具象化したものであり,「魔女の代替物は世界にとって必要」である。あまり注目されていないが,12話Bパートのラストで,ほむらが同じようなことを言っている。この観点では,絶望した魔法少女が魔女化するというのは二次的な意味しか持たない。さらに言えば,まどかは全人類を救ったわけではなくて,魔法少女しか救っていない。つまり,私はこの物語をキリスト教的だと例えたが,まどかが三位一体でもなく全知全能でもないという点で決定的に違う。まどかは人性しか持たない。「まどかは神ではなく英雄である」と言った北守さんは非常に正しかろう。(ちなみに,この辺の設定は非常に『天使ノ二挺拳銃』的ではある。あの作品もそこまでは筋を間違えていなかったが,解決編がひどい間違いだった。)


しかし,全知全能ではない中で,まどかのしたことは意義深い。ほとんど前記事の後半で語ってしまっているので繰り返しは避けるが,魔法少女達に与えられたのは物質的な救済ではなく,精神的な救済であり,キリスト教的な言い方をすればやはり「恩寵」としか言いようがない。ここは本当に,その人が本質的に宗教はなぜ人類に必要だったかどうか,意識的にせよ無意識的にせよ,気づいているかどうかということにならざるを得ないのではないだろうか。ゆえに私は本作が予想以上に正しく受け取られ,賞賛・喝采を浴びているため,正直な話少々驚いている。視聴後の一番の不安は手のひら返しであったから,一人だけでも俺は擁護するぜ,とさえ思っていた。

本作は私のように,本作に薄く散りばめられた伏線からキリスト教を連想した人もいれば,大乗仏教だと主張する人もいた。というよりも,ほとんどありとあらゆる宗教が連想できてしまうと思う。なぜなら本作の追求したところは「理不尽からの魂の救済」という,宗教にとって最も本質的な部分の一つであるからだ。これも前記事で書いたことだが,確かに終盤の9話以降ではキリスト教を思わせる描写が多かったものの,これだけ宗教色を消しながらこのテーマに斬り込んでいったというのは,それだけで一つの賞賛に値すると思う。

あまりにも11・12話で突然宗教色が濃くなってしまったにもかかわらず,どの既存の宗教に寄って立つことができないため,確かにこれは「まどか教」としか表現できない。無論,この言葉は七割方茶化しではあるが。ぶっちゃけてしまえば,私の前記事も前半半分はこじつけで,「・キリストとしての鹿目まどかと,11・12話」以下のみは真っ当な読みだと,自分では思っている。ただ,『ブラスレイター』との関連性を知ってしまうと,「ぶっさん,『ブラスレイター』がこけたからやり直したかっただけなんじゃ」と思わなくもない。


12話のCパートについて。QBが語ったように,魔獣というシステムはどうやらエネルギー回収効率が悪かったようだ。効率の悪い感情エネルギーの回収システムはいつしかエントロピーの増大に追いつかなくなり,世界は滅びを迎える。しかし,それでもほむらは自らの使命を果たし続けた。それが,親友との約束だったからだ。この約束を呪いと呼ぶのならば,ほむらは結局,まどかの呪いを払いきれなかったのだ。ループしようがしまいが変わらなかった。耳元に聞こえるのは,世界に遍在するまどかからの「がんばって」の声。彼女自身の身も朽ち果てようとしている。おそらく,ほむらが原初にして最後の魔法少女なのだろう。もうすぐ,二人は再会のときを迎える。

というのが,私の解釈になる。結局,ぶっさんは「エントロピーのもたらすペシミズム」という哲学を貫いたとも言えるし,払拭できなかったとも言える。端的に言って非常に美しいシーンではあるのだが,ぶっさんの限界突破を見たかった人にとっては,非常に不満の残るエンドだったのではないだろうか,という点で批判者に一定の理解は示しておく。



最後に,どうにも気になった他人の解釈だけピックアップして語っておく。「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら,私,そんなのは違うって,何度でもそう言い返せます」というのは一見すると確かにぶっさん的マッチョイズムではあるのだが,この言葉の指すところは来世的な魂の救済であって,別段「だからがんばれよ」的意味合いは皆無であるため,やはり読み筋を外していると思う。その点で,ぶっさんはきちんと自分の限界を超えてきたのではないかなと。確かに魔獣がいる世界での魔法少女は「理想をだいて溺死しろ」的であることに違いないのだが,まどかがやったことというのはむしろ「それを溺死だなんて間違ってる,貴女のことは私が弔ってあげる」でありまして。そんな男性的強さを持つものではない。むしろものすごいニーチェに批判されそう。

もう一つ。様々な宗教に仮託できる要素があるとは言ったが,グノーシス主義というのはかなり大きな違和感を覚える。理由その1。教義が諸説あり統一されていないが,誤解を恐れずに言えば,基本的にグノーシスというのは「肉体はデミウルゴスが作った物,精神には真の神が宿っている」ので,個々がその自覚を持つことで初めて天国に行ける,とするものである。本作でQBの思惑を振りきって神域に達したのはほむらとまどかの二人だけなので全く合わない。理由その2。まどかはデミウルゴスになったわけではない。デミウルゴスは人間の肉体にしか干渉できないが,まどかは逆に物質的な干渉が不可能だった。言い換えれば,彼女がやったのはマヤや北欧神話的な世界の再創造ではなく,「世界観」や「秩序」と呼ばれるものの変更であって,これはやはり旧約の律法世界から,新約の恩寵世界への変更のほうが近いように思われるが,いかがだろうか。

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「魔法少女まどか☆マギカ」11話、12話を視聴。 4月27日、リンクをいくつか追加。
雑記「魔法少女血風録」【HOTEL OF HILBERT】at 2011年04月27日 22:14