2011年07月27日

魁皇引退によせて

前から言っている通り,魁皇に対してはどうしても複雑な評価をせざるをえず,何とも言えない気分にさせられる。

強かったことは間違いないのだ。それもずば抜けて。彼の場合,横綱になれなかったのが間違いであった。優勝回数5回を誇る大関は長い長い大相撲の歴史で魁皇ただ一人であり,より正確に言えば4回の大関も存在しない(ただし,3回優勝の3人のうち2人が千代大海と栃東であるため,これは武蔵丸・朝青龍両政権下のみに生じた特殊事情という見方もできる)。最初の優勝が平成12年5月場所,最後の優勝が平成16年9月場所だが,平成13年には連続ではないものの二度優勝している。本来であれば,ここで横綱に上げておくべきだったのだが,間の場所の成績が4勝5敗6休というのが印象を悪くしすぎた。これが本人にとっても周囲にとっても不幸であった,というとおそらく魁皇本人は否定するのだろうが,私はそう思っている。

実のところ,魁皇はそもそも大関に上がるのも実力から分不相応に遅かった。通算勝ち星など他の成績に隠れてあまり注目されないが,殊勲賞10回は歴代最多,敢闘賞も5回で,技能賞はないものの三賞合計15回は歴代3位である(1位は安芸乃島,2位は琴錦)。しかもそのほとんどが平成7〜8年に固まっている。あと星が1つか2つ足りていれば,この時点で大関に昇進していたことだろう。並行世界の魁皇には,平成8年頃に大関,13年に横綱で,17年か18年には引退というのもあったことだろう。

しかし,当時は大の苦手力士である曙がおり(6−25という対戦成績),若くしてすでにケガが多かったため好不調の波も激しく,不運もあってとうとう平成12年まで上がれなかった。ゆえに,通算幕内在位107場所はぶっちぎりで1位だが,そのうち大関65場所,関脇21場所,小結11場所,平幕10場所という極めて偏ったバランスとなっている。他の上位陣である高見山も安芸乃島も大関にはなっていないし,千代の富士は逆に横綱にさっさと就任しており,小錦だって大関の次には平幕が多い。これだけ関脇・小結に費やしたこと自体がすでに特例なのだ。魁皇が保持している記録を並べると,通算幕内在位場所数(107),大関在位場所数(65),通算幕内勝数(879),通算勝利数(1047),幕内出場回数(1444)がある。通算出場数だけは大潮と寺尾を抜かせなかった。

取り口として,右上手の怪力は全盛期から引退まで変わることがなかった。白鵬が輪島になぞらえて「黄金の左」と称されるのに対比するのであれば(ただし輪島は下手・白鵬は上手である),魁皇は「鉄腕」と表現するべきだろう。黄金と呼ぶには不恰好で攻勢に特化しており,「とれば勝つ」が「とれば負けない」類のものではなかったように思う。上手投げは強烈で貴乃花や朝青龍,白鵬であっても警戒し,取られれば危うくなった。さらに単純に投げるだけでなく,立ち合いの瞬発力に意外と優れており,立ち合いすぐのとったりや小手投げで相手を仕留めることも少なくなかった。さらに全盛期を過ぎてからはこの瞬発力を生かし,突き落としやはたき込みでの勝利も少なくない。むしろ引退直前期にはこちらの勝ちパターンのほうが多かったように思う。右腕以外全身満身創痍ながら相撲をとっていく老獪な強さは大関取りを目指す若手力士の登竜門であり,いかに晩年であっても強いことには違いなかったのだ。


が,評価を複雑にしているのは,これらの長所が全て欠点にひっくり返っており,それも一つ一つが致命的に晩節を汚したことである。平成16年までは良かった。この年は69勝21敗で終わっており最多勝次点,最後の優勝をした年でもある。しかし,本当に良かったのはこの年が最後ではなかったか。翌17年は実働三場所,年間の半分しか働いておらず隔場所で休場し続けた。より正確に言えば,平成17年の東京場所で,魁皇は一度も最後まで戦っていないのである。それでも出れば二桁勝っていた。ところが18〜20年でも休場が頻発し,9−6や8−7での勝ち越しが目立つようになる。平成21年にはとうとう伝説の8−7グランドスラムを達成した。平成17〜20年の4年間は一度も年間45勝を越えていない。

これらは,良く言えば「ケガと高齢に耐えながら,自らの不運に負けず必死にがんばる大関」ではあるのだが,悪く言えば地位にしがみつく醜い姿にしか見えないのもまた一つ確かで,大関互助会の存在はもはや否定しがたく,2chでは「会長」と揶揄された。私自身このような検証をしたことがある。そしてその数少ない勝ち星が前述した立ち合い後即の突き落としやはたき込みで上位戦になれていない若手を食い物にするもので,老獪といえば聞こえはいいが実際はほとんど変化しているようなもので,勝ち方として全く美しくない。若手つぶしといえば,必殺技であるとったり・小手投げも何人の若手力士の左肘を破壊してきたことか。「左肘を痛めさせた相手の分だけ自らも数多の怪我を背負い込んだ」という某人の評は的確だ。それでも足りない分は互助会で補うものだったから腹立たしい。そこまでして続けたいか,と。

さらに言えば,平成17年以後の朝青龍戦の成績は3−13で(16年までは善戦していた),朝青龍全盛期には全く手も足も出ていなかった。これは白鵬に対しても同様で,大関昇進以後の白鵬との戦績はなんと2−22。そして朝青龍戦にせよ白鵬戦にせよ見るからに手を抜いており,観戦者としては場所の終盤にげんなりさせられる一番を毎度毎度見せつけられる羽目になった(さらに言えば,それを是認する風潮も嫌いであった,これは魁皇の責任ではないにせよ)。勝てないまでも善戦する栃東の姿が脳裏にあっただけに,やるせない気分になった視聴者は少なからずいたことだろう。横綱戦でヘタにケガしたくないというのはわかるのだが,それは観客に見せるべき取組だったのであろうか。

完全に「いるだけの大関」であり,記録のために存在していた。無論,千代大海も同様のことを繰り返していたために尚更心象を悪くしていた点は否定しがたいものの,それで魁皇が免責されるわけではない。以上の経緯から,私は魁皇が打ち立てた数々の記録の価値に懐疑的であり,また若手力士のチャンスを幾多もつぶしてまで残すべき記録であったのかということを考えると,角番13回という負の記録を含め,どうしても肯定的に評価することができない。晩節を汚したといっていいだろう。

その引退においても,時代の終わり目として2つの面を見いだせる。一つは貴乃花や曙などいわゆる「花の六山組」の最後を飾り,輝かしい時代の幕を引いたこと。もう一つは,第二次大関互助会黄金期というあまり嬉しくない時代を率いた人物がとうとう引退するというあまり嬉しくない幕引きでもあること。とは言うものの,第二次大関互助会の面々3人は全員引退記事を書いているが,それぞれ一長一短の特徴を持つ個性派であった。私自身がまじめに相撲を見だしたこともあり,若貴時代よりもよほど相撲を楽しめた時期であった。魁皇が楽しい大相撲を提供してくれたことには感謝しつつ,筆を置きたい。