2011年09月01日

現代邦楽に関する議論について

0.はじめに

・伝統楽器・伝統音楽というものへの問題提起 とあるボカロPの傷林果に対する反応と、その一連の流れ - 8月24日 #gendaihougaku (Togetter)
・.ブンガPと藤山晃太郎の伝統音楽についての議論 - 8月25日 #gendaihougaku (Togetter)
・続:ブンガPと藤山晃太郎の伝統音楽についての議論 - 8月26日〜27日 #gendaihougaku (Togetter)
・.完:ブンガPと藤山晃太郎の伝統音楽についての議論 - 8月28日〜30日 #gendaihougaku (Togetter)

この議論はtogetterが乱立しており,それぞれの特性があるが,一番わかりやすいものを提示しておきたい。というよりも,このtogetterが無ければこの記事を書く気力はわかなかったであろう。これはtogetterまとめのお手本のような出来である。

さてその上で,今から私がやることはカオスラウンジ騒動同様,全く無関係の議論に対して横から茶々を入れる行為ではあるが,前回とは大きく目的意識が異なっている。この議論は内容的に非常におもしろく示唆に富んでいる。にもかかわらず,togetterが乱立しどれを参照すればよいのか判然としなくなってしまったこと。それに関連して,藤山さんは周囲全体からの意見も聞きたいとしてハッシュタグを用意し意見を募り,最序盤は有効に機能したもののやがてノイズにしかならなくなっていったため,お二人の意見のみを追うには大変困難になってしまったこと。さらにtwitterはその特性上,140字ずつしか投稿できず,しかも言及元が参照しづらく,話題の重複やループにも気付きづらいなど議論をするには欠点があり,おそらくそれが原因の一つとなって議論が止まってしまったことは残念である。

ゆえに,まだ誰もやっていないようだし,邦楽にもボカロにも全くの門外漢ながら,またおそらく議論が再燃する可能性は非常に低いと思われるものの,拙いながらの私見を交えながらでも,togetterとは別のフォームでこの議論をまとめ直しておくことは,一定の意味があるのではないかと考えた。無論,私にはこれらの専門知識が全く無いので,議論内容に関する本質的な指摘は他者にお譲りしたいし,私自身はこの記事以上の言及をするつもりはないことを先に述べておく。


1.お二人の意見

藤山さんの指す邦楽は端的に言ってかなり広い範囲を指すもので,楽器が和楽器であるか,リズムや音階など方法論的に伝統的なものが使われている等,部分的に「過去の伝統技術」が使用されていれば含まれるとするもの。あえて言えば,最大公約数的・「最広義の定義」と言える。が,ブンガPの提示に対し,藤山さんは「和楽器を使用しただけでも十分に邦楽ではないか」と自らの邦楽定義の一部分のみを提示し,それがブンガPが最も拒絶反応を示す領域であったため,初手から議論が混乱した点がある。というよりも,「藤山氏は楽器,外形のみを重視している」というブンガPの誤解は,議論の最後まで解けず,藤山さんが後出しで「本質なんてない」と言い出したことから,ブンガPには藤山さんが途中で意見を変質させたように見えてしまい,これが最終的に彼が議論を降りる原因となってしまった。議論は,実は初手で死んでいたのかもしれない。


それに対し,ブンガPが提示した邦楽の領域は,一言で言えば「魂」がこもっていなければ邦楽にあらず,としたものだ。すなわち,邦楽を歴史的にひもとき,どのような精神や発想があって,現代の邦楽が形作られていったのか。このような音色やリズムが生まれたのかに立ち返り,それが守られている範囲が「邦楽」である,と。とりわけ,彼が重視したのは「民衆の中に残っている音楽伝統」であり,その代表例として本邦では沖縄・奄美民謡を,また現代に適応してうまく生き残っている例としてボサノバなどを提示した。だから邦楽の「魂」も,方法によってはまだ生き残れるはずだ,と。彼自身の言うように,彼の主張は原点回帰ではなく,あくまで「魂」の保存であって,外形にこだわるものではない。里神楽に溶け込んだリコーダーは良い例証であった。しかし,この点について藤山さん自身はよく理解していたが,どうも周囲の外野が理解できておらず,「ブンガPは保守的」というレッテルが貼られてしまったように見え,これが彼をうんざりさせ,議論を打ち切った原因の一つとなったのであろう。

が,それをわかりやすく言おうとしたのか,「方法論」と曖昧に濁したのが失敗だったかもしれない。いっそより曖昧な「魂」と表現したほうが,議論が進んだかもしれない。最後のtogetterの末尾にて,本人は「情緒」と言い換えているが,この表現でも良かっただろう。彼はとりわけ(和)楽器の音色のみを残すものに見えるもの(傷林果)や,技術のみの保存のために現代にはそぐわない家元制度,またその保存のために素人を食い物にしたやたらと高い月謝のシステム等を批判した。「傷林果」は,さぞ「器作って魂入れず」に見えたことだろう。それが最初のtweetの憤激である。ゆえに,彼にとって傷林果批判と制度批判は同根であって,この点を無視した藤山さんの反論は的を射ていない,本質を突いていないもののように感じられたのではないか。ゆえに彼は最後まで本質に関する議論を展開しようとした。しかし,藤山さんからしてみれば,本質論とは本来分けるべき作品批判と制度批判をごっちゃにしたものにしか見えず,その切り分けに腐心した結果,すれ違いがひどくなっていった感がある。

そしてまた,本質を語るにはかなりの素養が必要であり,ゆえに彼は3つ目のtogetterの末尾にて藤山さんに邦楽の素養について問うた。結果,議論相手の素養は(案の定)浅薄であるとして,議論を降りた。が,実際には最初から,「生き残りをかけた」と言いつつ邦楽の範囲をやたらと広げていく藤山さんの理路は「邦楽を歴史的にひもといていない」,浅薄な理解によるものと感じられていたのではないか。


2.議論の行方

整理すると,実際には議論すべきところは明確であった。

・ブンガPの指す「邦楽の本質」の明確化
・周知拡大と内部体制の転換は並立して可能なものか?
・「傷林果」は本当に本質から外れた作品なのか?という実証的な議論


まあ1つ目についてはブンガP自身が後日ブログで,と投げてしまっているので困難だったかもしれないが,3つ目をやっているうちに明確化していった可能性はある。というわけで後回し。

2つ目の論点については補足がいるだろう。3つ目のtogetterの冒頭にもある通り,藤山さんに既存の制度を破壊・改革する意志はない。「49900人が通り過ぎても100人が興味を持ち,10人が弟子入りして1人がプロになればよい」というのは既存の制度の強化でしかない。結局「まず周知拡大か,本質追求のための内部体制の転換か」という点は,全く議論が進まなかった。どころか,最初から議論にさえなってなかったのである。

しかし,藤山さんのほうも彼は決して「魂」を軽視しているわけではない。ただ,「魂を残す以前の問題として,滅びかかっている邦楽を生き残らせるには,まず邦楽の定義を広げて大衆の目を惹きつけるしかない」とし,また「傷林果の程度であれば,魂は失っていない」とする立場を提示した。この点の対案について,ブンガPは「よいと思ってもらえる作品を作ること。そして、その一見変わった音楽が、実は自分たちの民族性から出たものなのだと、驚きをもって感動してもらうこと。」と述べ,また「現状を「大衆的で芸術的価値の低い邦楽」と「(敷居・芸術的価値の高い?)純邦楽」に分類した上で、「その間を結ぶ作品」を発表したい」ということか?という藤山さんの確認に対し,是と答えている。藤山さんはブンガPの対案不足,具体案不足を嘆いていたが,実際にはちゃんと答えは出ており,こうした遡及性の無さはぶつ切りになるtwitterの欠点だろう。togetterになってみないとわからないという。

さて,互いの方法論が出揃っているがゆえに,この先議論を進めるなら,やはり「実際,魂の保存に余裕がないほど邦楽は死んでいるのか?」,「そもそも傷林果は本当に邦楽の本質を外したものであったのか?」という論点のすりあわせは必要であった,というのは自明であろう。これが3つ目の論点が浮上する理由である。


しかし,実はその実証的な議論が出来たかはやや疑問である。藤山さん自身はやる気も能力もおそらく無かったのだろうが,七三先生ご本人を投入してでもやるべきだったのではないか。しかし,藤山さんは七三先生について,こうコメントしている。「今回の議論でつらと思うに、七三先生は邦楽のルーツやらソウルやら、なんも知らないんよ。ただ良い音を奏でる、という機能特化。もしブンガPが仰るような「先達には本質を示してもらいたい」というのを叶えるような方がいたとしたら、それは奏者の仕事じゃない。Pの仕事だ。」実際にはそんなことはないのだろうが,いずれにせよ七三先生自身にも,ともすれば空理空論と受け取られがちな「本質論」をする気がなく,本質とは曖昧なままで良いという立場であろうことは推測がつく。(少なくとも藤山さん自身は割とそう考えている節がある。このtweetなんてまさに。)

それにしても,この点が全く深まらなかったどころか,ほぼ完全に無視された点は残念である。ブンガPが「傷林果は全くもって邦楽の本質ではない」とするなら,その反論は「そんなことはない」であるべきではなかったか。ど素人の私でさえも,「Bad Apple!」が東方曲の二次創作であり,東方projectであることは邦楽にとって一つの意味合いを持つというコンセプトは気づく。Togetterを丹念に読んでいくと,ブンガPにもそれなりに東方曲に対して親しみがあるようなので(project本体に親しみがあるかどうかは読み取れなかったが),せめてこの点だけでも議論が深まっても良かったのではないか。

特に,「傷林果」自体,「法界唯心」を踏まえており,あちらのほうがより「邦楽である意味合いが強い」コンセプトであるとは言うことが可能ではあり,本作はより逸脱を目指したものであるとは言えるものの,それでも東方曲の範疇ではあるだろう。「法界唯心」については,ブンガPがどう思ったか,ぜひ尋ねて欲しかった。これは,この点を提示しなかった,藤山さん自身にも落ち度はある。というよりも,議論の途中で本人が「当方は「人気曲のアレンジ」を新しいものとして捉えていない。この活動の斬新な点は「ネット受けを狙い投稿した邦楽演奏動画で大きな視聴者を獲得した」事」としか答えておらず,これでは手妻師自身が本作の力量を見誤っているような気がするし,その返答は自身が「法界唯心」を無視したものになってしまっている。もったいない話である。

無論,東方であるコンセプト以外でも,本作がブンガPの言う「邦楽の本質」からどれだけ外れているものか,という議論は展開されるべきであったのだが,今回の議論は,具体的な音楽理論の話が全く出てきていない。その意味で,ブンガPが「もっと勉強してから来いよ」と言い放ったのは正しい。正直,邦楽はおろか音楽のど素人としては,私的に最も期待していた議論であった。2つ目のtogetterの末尾で蝉丸Pが「本質論はtwitterでやるに向かないのでニコ生でやってはいかがか」と極めて重要な指摘と斡旋をしているのだが,これは流れてしまった。議論の途上でもちゃんと指摘している第三者関係者がいた。むしろ,今からでも手妻師陣営はやるべきではないか。ニコニコ大百科のものよりも詳しく。


それはそれとして,一つ文句を言わせていただく。知らない人も多数いる中で,2垢併用で議論をするのは裏切り行為としか。最初から明示した上でならともかく,「2垢使ってるのは有名だから皆知ってる」「(本当に自演するつもりだったのだとしたら)すぐ自演と気づくレベルのものでその意志はなかった」という言い訳で通すのは,故意でないでも相当苦しい。たとえば,このtogetterをブンガPの普段の活動を知らない人が見たら別人にしか見えないし,私にはそうとしか見えなかった。


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