2012年03月12日
第206回『悪霊』(3)ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫
1・2巻についてはこちら。3巻も読み終えたので,その部分も含めた話をしたい。
1・2巻のところで書いた通り,2巻末から本書の雰囲気は「狂騒」としか言いようがない状態に陥っていく。これ自体がテロリズムを考える政治結社の企みであるのだが,この政治結社の内部では個人の思想の違いから結束力に欠け,今後の計画に支障をきたす恐れもあった。そこで指導者であるピョートルは,スタヴローギンのアドバイス通り「一人殺して秘密を共有し結束力を強化する=血の縛り」を実行に移す。この陰惨な殺人事件と,その発覚過程が3巻のハイライトになるわけだが,一方で町は狂騒状態を極めていく。一方で,殺人事件の描写はいやに冷めているのである。そしてこの殺人事件の発覚と犯人集団の逮捕が,町を襲って狂騒となしたいくつものスキャンダルの原因を暴くことになり,皮肉にも町の狂騒を鎮めていくという結果となった。
無論のことながら,ドストエフスキーの『悪霊』におけるテーマは政治的テロリズムの馬鹿らしさとその結社のおぞましさの描写にある。しかし,描写上の,文章技法上の焦点としては,この町の狂騒と,いやに冷めた殺人事件の二重の推移にあったのではないかと思う。この全く正反対の雰囲気が全くの同時並行で進んでいくのは見事である。かつ,この二つの雰囲気が違和感なく次第に混ざり合っていき,それが事件の解決という文章の内容にも影響していく感覚は,さすがはドストエフスキーとしか言えない文章の冴えである。
一方,私がいまひとつこの『悪霊』を手放しで褒め称えることができず,長編では『カラマーゾフ』・『罪と罰』の3番手としか評価できないのには別の理由がある。それは端的に言って,ドストエフスキーにしてはテーマの描写に引きずられすぎていて,登場人物の描写に深みが感じられなかったことだ。ドストエフスキーが実在の事件に範をとること自体は珍しくない,というよりもこの点は『カラマーゾフ』も全く同じはずである。しかし,今回は極左サークルの内ゲバ事件が着想であり,ほぼ全く同じ事件を作中で引き起こしている。それは前述の通り,こうした結社で起こる内ゲバのおぞましさの描写が,本書の第一の目的であったからだ。
また,実のところ,本書は町一つを舞台としているため,一家の事件である『カラマーゾフ』や,個人の殺人事件である『罪と罰』に比べれば舞台は広いはずなのだ。しかし,サークルのメンバーという閉じた集団と,ステパン・ヴェルホヴェンスキーからユーリヤ夫人まで含む町の上流階級の集まりの,大雑把に分ければ二箇所しか移動がない。しかも,思い返してみるとこの二箇所を移動するのはピョートルとスタヴローギンの二人しかいない(一応レビャートキンも両方の集団に顔を出すが)。だからこそ,この2つをお話の上で結びつけるべくピョートルが2巻で八面六臂の活躍をしたわけだ。これ自体は成功していたように思う。が,その結果ピョートルのキャラだけがやけに目立ち,他の面々の描写が少々薄かったのではないか。
特にスタヴローギンは今ひとつ何をやりたかったのか,終始わからなかった。何がやりたかったというと語弊があるが,行動の指針的なものが見えないまま,(ネタバレ)いつの間にかダーシャに振られて自殺していた,というのが正直な感想である。彼については,あとがきで訳者が「有能」「神の如き」としきりに書いているのだが,全くそんな感触がない。解説をしっかり読むと,彼が暗躍していたことはよくわかったのだが,「暗躍」すぎてわかりづらかった。読解力不足と言われればそこまでだが……読み落としも含め,結局どこまでが彼らの計画でどこからが偶然の事件だったのかいまひとつ判別がつかない。ぐぐってみたが,けっこう同じ感想の人がいて少し安心した。「スタヴローギンを悪の権化だと思って読むと間違う」という人もいて,割りと納得しないでもない。というよりも,私個人の倫理観で言えば,スタヴローギンの「暗躍」は特に罪があるとはあまり……「チーホンのもとで」の告白はおいておくとして。
他の登場人物では,それでも上流階級側については1巻で紙面が割かれていたから,それなりに掘り下げがあった。ユーリヤ夫人の功名心やレンプケーの情けなさ,ワルワーラ夫人とヴェルホヴェンスキー氏の不思議な友情関係など,見所は多い。つまり,問題は反対側,「五人組」の面々である。ピョートルは当然キャラが立っていたとして,残りの面々がどうも判別がつきづらいまま殺人事件の場に至ってしまった。むしろ,彼らの殺人事件に対するかかわり方・振る舞いで判別できるようになったくらいだ。実は,読了した今でもリプーチンとリャームシンあたりが混ざる。
私自身,強い政治的保守主義で反革命派なので,ドストエフスキーの土壌主義には必ずしも賛同しないまでも,本書で描かれた暴力革命を目指す政治結社のおぞましさには共感するところがある。が,わかりきっているからこそ別の所に注目して読んだのがまずかったのか,結果として登場人物の掘り下げにだけ注目しすぎて読んだのがまずかったのか。それとも,そもそもの話,教唆に関する倫理観の著者との違いが乗りきれなかった原因か。「敗因」はこのあたりかと自己分析しておく。そこらへんを気をつけて読めば,おもしろく読めると思う。あと,本当にどうでもいいけどまた足の悪い女と聖書出てきたので,長編全部に出てくるのか期待して,いつか『白痴』に挑みたい。
悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-12-08)
販売元:Amazon.co.jp
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1・2巻のところで書いた通り,2巻末から本書の雰囲気は「狂騒」としか言いようがない状態に陥っていく。これ自体がテロリズムを考える政治結社の企みであるのだが,この政治結社の内部では個人の思想の違いから結束力に欠け,今後の計画に支障をきたす恐れもあった。そこで指導者であるピョートルは,スタヴローギンのアドバイス通り「一人殺して秘密を共有し結束力を強化する=血の縛り」を実行に移す。この陰惨な殺人事件と,その発覚過程が3巻のハイライトになるわけだが,一方で町は狂騒状態を極めていく。一方で,殺人事件の描写はいやに冷めているのである。そしてこの殺人事件の発覚と犯人集団の逮捕が,町を襲って狂騒となしたいくつものスキャンダルの原因を暴くことになり,皮肉にも町の狂騒を鎮めていくという結果となった。
無論のことながら,ドストエフスキーの『悪霊』におけるテーマは政治的テロリズムの馬鹿らしさとその結社のおぞましさの描写にある。しかし,描写上の,文章技法上の焦点としては,この町の狂騒と,いやに冷めた殺人事件の二重の推移にあったのではないかと思う。この全く正反対の雰囲気が全くの同時並行で進んでいくのは見事である。かつ,この二つの雰囲気が違和感なく次第に混ざり合っていき,それが事件の解決という文章の内容にも影響していく感覚は,さすがはドストエフスキーとしか言えない文章の冴えである。
一方,私がいまひとつこの『悪霊』を手放しで褒め称えることができず,長編では『カラマーゾフ』・『罪と罰』の3番手としか評価できないのには別の理由がある。それは端的に言って,ドストエフスキーにしてはテーマの描写に引きずられすぎていて,登場人物の描写に深みが感じられなかったことだ。ドストエフスキーが実在の事件に範をとること自体は珍しくない,というよりもこの点は『カラマーゾフ』も全く同じはずである。しかし,今回は極左サークルの内ゲバ事件が着想であり,ほぼ全く同じ事件を作中で引き起こしている。それは前述の通り,こうした結社で起こる内ゲバのおぞましさの描写が,本書の第一の目的であったからだ。
また,実のところ,本書は町一つを舞台としているため,一家の事件である『カラマーゾフ』や,個人の殺人事件である『罪と罰』に比べれば舞台は広いはずなのだ。しかし,サークルのメンバーという閉じた集団と,ステパン・ヴェルホヴェンスキーからユーリヤ夫人まで含む町の上流階級の集まりの,大雑把に分ければ二箇所しか移動がない。しかも,思い返してみるとこの二箇所を移動するのはピョートルとスタヴローギンの二人しかいない(一応レビャートキンも両方の集団に顔を出すが)。だからこそ,この2つをお話の上で結びつけるべくピョートルが2巻で八面六臂の活躍をしたわけだ。これ自体は成功していたように思う。が,その結果ピョートルのキャラだけがやけに目立ち,他の面々の描写が少々薄かったのではないか。
特にスタヴローギンは今ひとつ何をやりたかったのか,終始わからなかった。何がやりたかったというと語弊があるが,行動の指針的なものが見えないまま,(ネタバレ)いつの間にかダーシャに振られて自殺していた,というのが正直な感想である。彼については,あとがきで訳者が「有能」「神の如き」としきりに書いているのだが,全くそんな感触がない。解説をしっかり読むと,彼が暗躍していたことはよくわかったのだが,「暗躍」すぎてわかりづらかった。読解力不足と言われればそこまでだが……読み落としも含め,結局どこまでが彼らの計画でどこからが偶然の事件だったのかいまひとつ判別がつかない。ぐぐってみたが,けっこう同じ感想の人がいて少し安心した。「スタヴローギンを悪の権化だと思って読むと間違う」という人もいて,割りと納得しないでもない。というよりも,私個人の倫理観で言えば,スタヴローギンの「暗躍」は特に罪があるとはあまり……「チーホンのもとで」の告白はおいておくとして。
他の登場人物では,それでも上流階級側については1巻で紙面が割かれていたから,それなりに掘り下げがあった。ユーリヤ夫人の功名心やレンプケーの情けなさ,ワルワーラ夫人とヴェルホヴェンスキー氏の不思議な友情関係など,見所は多い。つまり,問題は反対側,「五人組」の面々である。ピョートルは当然キャラが立っていたとして,残りの面々がどうも判別がつきづらいまま殺人事件の場に至ってしまった。むしろ,彼らの殺人事件に対するかかわり方・振る舞いで判別できるようになったくらいだ。実は,読了した今でもリプーチンとリャームシンあたりが混ざる。
私自身,強い政治的保守主義で反革命派なので,ドストエフスキーの土壌主義には必ずしも賛同しないまでも,本書で描かれた暴力革命を目指す政治結社のおぞましさには共感するところがある。が,わかりきっているからこそ別の所に注目して読んだのがまずかったのか,結果として登場人物の掘り下げにだけ注目しすぎて読んだのがまずかったのか。それとも,そもそもの話,教唆に関する倫理観の著者との違いが乗りきれなかった原因か。「敗因」はこのあたりかと自己分析しておく。そこらへんを気をつけて読めば,おもしろく読めると思う。あと,本当にどうでもいいけどまた足の悪い女と聖書出てきたので,長編全部に出てくるのか期待して,いつか『白痴』に挑みたい。
悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-12-08)
販売元:Amazon.co.jp
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Posted by dg_law at 23:22│Comments(0)│