2012年03月25日

美学と美術史のすれ違い

・[朝日新聞書評ボツ本][書評]西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本(山形浩生 の「経済のトリセツ」)
・山形浩生氏の再反論をうけて。(昆虫亀)
→ 議論そのものは非常に専門的なものなので,あまりまじめに読んでないけど。美学を「感性学」と訳さなかった影響がここにも,という印象。山形浩生の美学の捉え方は明らかにおかしい。
→ 決して「美」について考えるだけが,美学ではないのですよ,と。感性学から芸術,美への考察の拡大が美学という学問の形成過程そのものである。美学という学問のマイナーさは,哲学が思考を扱うのに対して「感性」を扱う学問の必要性が増して分裂したから,という説明が先に必要になる点ではないだろうか,と考えざるを得ない。これで「芸術学って何?」とか考えだすとさらに収拾がつかない。
→ 哲学という美学の出自と,歴史学という美術史学の出自の差に改めて溝を感じるのだけれど。以下,下段の記事に続く。

・美術史と「他の判断基準」
→ あわせてこれも読むとおもしろい。
→ 前半は東大本郷の「美学芸術学」研究室と「美術史学」研究室の分離についてが書かれている。ついでに駒場と本郷の違い。ちなみに,ここで書かれているようなことは本当。自分の知っている限りでは写真史をやろうとした学生は院試の段階で駒場に送られた。下手したらセザンヌでも駒場でやったほうが良い(はかどる)レベル。本郷は美学にしろ美術史にしろそういうところだと思った方がよい。文中にある「ベルニーニの彫刻をライプニッツの哲学と結びつけて研究」であればまだわからないが,精神分析的セクシュアリティ論とか言い出されたら問答無用で「美学行け」って言われると思う。
→ 美学・美術史研究室の,手法による分離の弊害は指摘されている通り。美術史の非思想化,美学の非歴史化にあり,対象によってはどちらで研究すべきか,迷うところは必ず出てくる。しかしそれでも,この分割はそれなりに合理的だったのではないか,と一応美術史学研究室を出た人間として言っておく。
→ まあ,実際には美学の研究室に出入りして随分カントの美学をやりましたけどね!
→ ついでに言うと,自分が在籍していた当時の話をすれば,このブログでも恐ろしく昔に書いた気はするのだが,いまだもって美術史学は文学部内で「歴史学科」と認識されていない節がある(この点は考古学も同様)。様々な場面で無視されることが多い。別になりたくてコウモリになっているわけではないはずなのだが。
→ 確かに,あの美術史学研究室は研究手法と扱う時代においては割りと排外的ではあって,一方それは「美学芸術学」や「文化資源」,そしてなにより「駒場」という代替先が多様かつ豊富だからこそ,ああなってるんだろう。
→ 最後に,どうでもいいところに突っ込むと,1990年当時の美術史学研究室の教授陣構成は高階秀爾・辻惟雄・河野元昭だと思われる。誰が文中にあるようなリアクションをしたのか(高階秀爾?),とても気になる。