2012年11月03日

絶対王政について

絶対王政はルイ14世があまりにも有名であるため,またその名前のイメージから,専制君主との区別がついていない人が多い。実際には,絶対王政と専制君主は根本的に異なる。

絶対王政は,中央集権化・近代化の過程で西欧に出現した特殊な政体である。中央集権的な国家体制とは何かといえば,少なくとも前近代においては国家に直属する官僚制と常備軍にほかならない。言うまでもなく常備軍こそが国内外で国家の権力を裏付ける軍事力であり,これを維持するための徴税機構として整備された官僚制が必要であった。しかし,これだけならば近世アジアに出現した専制君主国家でも共通する要素であり,絶対王政に特有のものではない。

西欧で出現した絶対王政は,まず極端な封建制社会から脱して,長い時間をかけて中央集権化していったこと。そして,大航海時代以降急速に力をつけた市民層が,既存の権力層とは別に社会の主役として登場してきたこと。この2点が他地域の専制君主と,絶対王政の決定的な差異を生むことになる。

絶対王政の特徴は,具体的に2つ挙げられる。1つは,封建制でもなく,国民国家でもなく,社団国家の体裁をとっていること。もう1つは,政府(国王)が貴族と市民のバランスの上で成立していること


●封建社会の崩壊と貴族の廷臣化
中世,小規模な封建領主として自由に振る舞っていた貴族たちは,次第に時代の流れから取り残されていく。それは銃火器の発達で生じた戦術の変化(重装騎馬の地位低下),戦争の大規模化,貨幣経済の進展とインフレによる経済的困窮など,ありとあらゆる要素が彼らを時代遅れとしていった。所領からの「上がり」だけでは食べていけなくなったのである。結果として,彼らは国王に従属して生活する道を選んだ。貴族たちは,高級官僚や将校として,国王の宮廷に出仕し,その俸給や役職の特権(多くの場合は賄賂である)から生活の糧を得るようになった。

国王の側としても,急激な中央集権化の中で貴族を滅ぼし切れたわけでもなく(その気もなかったであろう),政治を預けるには市民層はいまだノウハウも権威も不足であった。また,貴族を宮廷(首都)に縛り付けて地方での自立を回避し,かつ中央集権化に不可欠な官僚制と常備軍を支える屋台骨を手に入れられるので,メリットは大きかった。

旧来の封建諸侯は国王の指図を受けなかったし,受ける必要もなかった。中世の封建諸侯と近世の貴族では何が違うのか?自立しているか否かがその最大のポイントであろう。このように中世的な封建諸侯を脱し(没落し),官僚や将校として宮廷に依存するようになった貴族のことを「廷臣」と呼ぶ。貴族の「廷臣」化は中世から近世への過渡期で生じた一つの大きな変化であった。


●絶対王政の性質:「特権」の存在と社団国家
西欧の政治史はおおよそ中央政府の中央集権化の歴史としてまとめることができるが,社団国家は中央集権化が中途半端な段階を指す。すなわち,段階を区切れば

中世の封建制→近世の絶対王政(社団国家)→近代国家(国民国家)

となる。つまり,絶対王政とは封建社会よりはマシだが,近代国家(国民国家)よりは弱い状態である。中世の封建制は,そもそも国家の体裁が整っていない状態であり,中央政府は国王の家政機関と変わらず,大規模な権力を有していなかった。半ば自立しているような勢力=封建諸侯も国内に存在していた。これに対して近世の国家は,国家の体裁は一応なしているし,国王の率いる中央政府が,常備軍と官僚制に裏打ちされて,国内全体で最高権力を有している状態である。

では近代国家とどの点が違うのか?近代国家においては,国家が国民の身分や職業によらず一元的に管理し統治する。戸籍を明確に把握し,個人から直接徴税し,国家が国民を個別に裁判にかけるのである。しかし,絶対王政下においてはそうではない。国家の領土であっても,貴族の封土であれば貴族が領内の農民に対し領主裁判権を行使し,また独自に地代を徴収した。教会であれば司教が司祭以下を統制し,都市には自治権が存在してそれをギルドが運営していた。このように絶対王政下では,政治的な自立は不完全ながら,国家権力による把握・介入を拒む「特権」を有する集団が存在し,それらの集団が政府と国民を仲介していた。国家による支配が一元的ではなく,この政府と国民の間に立つ集団組織のことを「社団」といい,国家と国民の関係が一対一ではなく,ワンステップ挟んだ間接的な支配になるものを社団国家という。はい,ここテストに出ます。

国王は社団に対して特権を与え,これを保障した。貴族や教会であれば所領の安堵,残存した封建的特権の保証など。国王が官僚の人事権を独占し,うまみの多い役職を貴族に振っていたことも,貴族に与えられた一つの「特権」と言えるだろう。ギルドであれば新規参入の禁止や生産調整の保障,大商人であれば貿易独占権の付与など。その代わりに各社団は国家に奉仕した。貴族であれば前述の通り,廷臣として出仕し,常備軍や官僚制を担った。教会は王権神授説を積極的に唱え,王権を理論的に補強した。商工業者からは収益の一部を徴税,ないし特許料という形で徴収して財政基盤となした。社団と国王は,このように「特権」を仲介として見事な相互扶助関係をなした。

同じような君主中心の政体であっても,「社団の不在」という点において(特に「市民」の不在),絶対王政と専制とは異なる政体なのである。


●絶対王政の限界
しかし,このような特権は「政府・国王が自由にできない」からこその特権であり,付与すればするほど国王自身の権力は低下してしまう。特権の拡大は封建制への逆戻りを意味しかねない。かといって,全く特権を与えないのでは反乱・離反の温床になりかねず,特権の少ない弱った社団は他の社団に圧迫されてその役割を果たせなくなる。ゆえに,国王は国家全体のバランスや,社団間でのバランスの調整を行う必要があった。これが2つ目のポイント,国王は社団間のバランサーとしてのみ存在し得た,という点である。

社団を大雑把に区切ると,「封建制の名残としての貴族層」と,「商業革命と重商主義で急成長する市民層」に大別できる。国王はこのバランサーとして,両者の頂点に立つことが許された。前節に書いた通りだが,どちらも国王にとっては重要なのである。貴族は軍事や行政を担い,市民層は地代に替わる収入源として商工業からの歳入を提供し国家財政の基盤となった。とはいえ,時代の遺物に過ぎない貴族の保護をしても国家の成長にはつながらず,封建制への逆行をたどってしまう。ゆえに,国家全体の利益を考えれば,時代の趨勢としてどうしても市民層の保護を重視せざるを得ないのである。

一方で,貴族を抑圧しすぎれば反乱の温床となる。ルイ14世の治世は,フロンドの乱という貴族の大反乱で幕を開けた。結果的にこれの鎮圧が絶対王政を強固なものにしたものの,国王と貴族は必ずしも蜜月の関係ではなかったのである。さらに言えば,絶対王政下の貴族というと廷臣,すなわち高級官僚や将校であり,国王の手足であるのでそうそう無下にはできないという事情もあった。しばしばフランス宮廷は過度に華美で,国家財政を圧迫したとされているが,実際のところあれは「国王権威」の確立や,華美な風潮を流行させることで大貴族の財力を削ぐという意味合いもあった。それくらい,フランス国王は貴族層の扱いに悩まされていた。

しかし,このようなバランス調整は,時代の趨勢が市民に傾いている以上,時を経るごとに困難になっていった。国家財政の破綻の危機に際し,教会や貴族への課税問題から議会が紛糾し,絶対王政崩壊に至ったのが,まさにフランス革命であった。どう考えても貴族への課税は必要であったのだが,「特権」の剥奪は絶対王政のなすシステムの根幹を揺るがす。特権は貴族のみに与えられたものではなかったからである。その事情を勘案すれば,現代的な視点ではばかばかしい話でも,当時の社会では財政破綻をかけるに値する論点であったのは納得がいく。「絶対王政」と言いつつちっとも絶対的ではない。むしろ貴族や市民に比べると相対的に,バランサーとして格上だったとしか表現しようがない,としばしば言われるのは,こうした事情による。

また,市民の側の社団への特権も,与えれば良いというものでもなかった。大きな社団の一つであるギルド制は,産業の技術革新や自由競争を阻害した。イギリスの産業革命が綿工業から始まったのは,そもそも綿工業自体が新興産業でギルド制が弱体であったから,というのがしばしば挙げられる理由である。重商主義も大商人への特権付与の産物であったが(東インド会社はその典型),当初は海外貿易を大きく進展させたものの,ある段階からは経済的な不合理が目立ち,赤字を垂れ流して自由競争を阻害するものでしかなくなっていった。結局社団の存在そのものが絶対王政の限界であり,これを打破して中央政府に極端な権力が集中したからこそ,近代国家への道が開かれたのである。
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