2013年02月09日

会田誠展に関する議論周辺雑感

・退屈で倒錯した話 - 「森美術館・会田誠展への抗議」問題についての雑感(Ohnoblog 2)

私はこの大野さんの記事の論旨に納得したクチなのだが,はてブやtwitterの反応を見るに一般的にはそうでもないらしい。どころか,抗議した側の人間から本記事は「的外れ」であるという指摘があったようだ(後述)。それでまあ自分でも見に行ったので,ぼちぼち短くぼやいておこうと思う。なお,会田誠展への抗議そのものは上記の記事からのリンクで読めるので,本件について全く知らない人はそちらからどうぞ。


メタブにも書いたが,私がこの記事への反応で一番驚いたのは「筆者の主張とは無関係に「表現の自由は擁護されるべきだ」という主張が出てくるあたり」である。言うまでもなく私も撤去には反対だが,「今回の抗議はそういう問題ではない」ということを主張したのがこの記事であったのだから,はっきりと言えば記事が読まれていないも同然であった。

今回抗議した団体の最終目標が,「二次元を含めたポルノの封殺」にあるのはおそらくその通りだろう。二次元だろうとポルノ自体がダメ,女性蔑視につながる(と彼らが判断するもの)は全面的にアウト,というところが裏にあって,それが透けて見える抗議だからこそネット民の反発は大きく,これに対する反論ならば掲げるのは表現の自由で良かろう。ただし,今回の抗議そのものに限れば焦点はそこではないように思われる。上記の記事も引用しているように,

「このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの「日曜美術館」で肯定的に取り上げられ、最新の『美術手帖』では特集さえ組まれています。」

と抗議文にある。もう一箇所引用すると

「森美術館のような、公共性をもった施設が堂々と公開し、宣伝し、多数の入場者に公開していることは、このような差別と暴力を社会的に公認し、それを積極的に正当化することであり、社会における少女の性的搾取、女性に対する暴力と差別、障がい者に対する侮蔑と差別を積極的に推進することです。」

というのもある。繰り返していうが,無論のことながら彼らは会田誠の作品そのものも問題視している。が,それと同時にこれを展示した森美術館も問題視している。そして抗議の要求は「女性の尊厳を著しく傷つける諸作品の撤去」である。ひとまずのところ,会田誠に「描くな」と言っているのではなく,美術館に「展示するな」と言っているのにすぎない。

すなわち,抗議の本体は「美術館という権威が取り上げることの問題点」である。大野さんの記事で「つまり抗議側にあるのは、「性差別表現がアートとして堂々と提示されているからこそ一層問題である」という考えだ。」とある通り。美術館(そしてアート)が権威(=公共性が高く,社会的に肯定されている・絶賛されている物を展示する場所)で無いならば,こんな抗議は無意味だ。だからこそ自然と焦点は「アートだから許される・許されない」になり,それって歴史的に何周目だよ的な話で,これは退屈だという大野さんの記事は,とても納得のいくものであった。

加えて言うならば,いきなり最終目標を主張してもどうしようもないという分別はあの団体にもあって,第一歩として「社会的に地位の高い芸術の分野から疑問符をつけて社会の風潮を変えていこう」というもくろみがおそらくあって,こういう抗議になったのではないか。戦略的譲歩と言うべきか。抗議文書に対するブコメに「同人誌ならいいのかw」というコメントがあったが,実は鋭いコメントだと思う。


そういうことを考えながら展覧会を見に行っている間に,抗議者側が集会を開いており,twitterでの報告をまとめたものがTogetterに上がっていた(「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」昼間たかし氏と渋井哲也氏の実況を中心としたツイート )。いわゆる又聞きの状態であるので言及するのは心苦しいが,看過はできない。ここで取り上げるのは大野さんの記事に対するコメントである。

森田「(大野さんのブログの話)こーゆースタンス、よくありますね。まあ、あのすごい勘違いがあるんですが、この人の意見によると、私たちが、ああしたアートとして〜が看過できないのだ……というのは、抗議文には書かれていないんですよね」
森田氏「美術館も抗議する側もどっちもどっち、という言説も見られる。アートとして美化するのはナンセンスですが、アート=良いもの、の前提で批判しているのではないか、との偏見がある。アートであろうが、なんだろうが、性暴力的な表現を堂々と公共性の高い美術館で展示し、絶賛するのはおかしい」


要するに,大野さんの指摘は的外れであると言いたいようだ。大野さん本人は「書いてないこと読み込んじゃった」と反応していたが,私の解釈はちょっと違う。「アートであろうが、なんだろうが、」は本音なのだろう。だから”アート=権威だから批判したんでしょ”と指摘されたら,思わず本音が漏れてしまったのではないか。ただし,私はここにいちゃもんをつけるつもりはない。実際この場面は本音・最終目標を主張しておくべき場面だからであって,ここで「はいそうです」などと言うのは腰が引けていると見られても仕方がない。

しかし,彼らの抗議の「(展示における)女性の尊厳を著しく傷つける諸作品の撤去」を成り立たせる理屈は何かというと,今回に限れば「(ただでさえ許せないブツなのに)”公共性の高い美術館で展示し、絶賛するのはおかしい”」の部分である。そういうことを言いたかったわけではないのであれば,あの抗議文はおかしい。あれほど公共性や社会的評価に対する糾弾を強調するべきではない。

類推に類推を重ねる形ではあるが,おそらく本音である「(女性蔑視と受け取られる可能性のある)ポルノの全面的封殺」と,当座の目標のために立てた理路の整理が,批判側の中でついてないのではないかと思う。Togetterを見るとこの後段に芸術家特権論に対する批判が出てきて「アートであるかどうかは無関係に悪いものは全部ダメ」と主張していて,それはまあその通りだろう。カオスラウンジのときの騒動でも見られた態度だ。しかし,この理屈を通して本音の側が駄々漏れになると,だったらなぜあれほど美術館の公共性や作品の社会的評価の高さを理由に挙げたのか,ということになる。こうなると当座の理屈のほうは苦しくなる。

抗議側はまず,「本当は全面的にダメだけど美術館だから余計にダメ,だから抗議した」のか,「本当に全面的にダメで,たまたま森美術館が目立ったから抗議した」のか,はっきりさせるべきだ。後者でいきたいなら抗議文は改めるなり追記すべきであるし,その反論も今度こそ「表現の自由があるしゾーニングしてるから十分だろ」になる。しかし,それってひょっとして「アートだから許される・許されないの議論」並には陳腐な議論なんじゃないの?という気もするが。私自身も堂々と森美術館の擁護側に回れるので,そのほうが気楽である。(まあそもそもの私の主張は,展評の方にも書いたが「会田誠の作品は性差別称揚してないんじゃ」ではあるのだけれど。それは言ってもしょうがないので。)

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