2013年02月23日
第219回『天地明察』冲方丁,角川文庫
タイ旅行の飛行機の行き帰りもたせる予定が,あまりのおもしろさに旅行中に読み終わってしまった小説。なお,帰りの飛行機では偶然にも『天地明察』映画版が視聴可能であったので,これを見て帰った。映画版については別記事を立てたいと思う。
というわけで,とてもおもしろい小説であった。歴史小説ではあるが,本質的な所では綺麗な「努力・友情・勝利」でとても少年漫画らしい作りになっている。いやらしさがなく非常にさわやかなのは主人公の性格自体がそうでありつつ,周囲の人間もまた気のいい人たちばかりであり,まさにそうした好漢たちの努力の結晶が,貞享暦の勝利として最終的に帰結する。痛快な物語である。この物語とキャラの明快さはライトノベル由来だとすれば,ラノベも他の小説ジャンルに新風を吹き入れているのだなと感覚を新たにするところである。(というのがラノベも歴史小説も中途半端にしか読まない身の正直な感想であるが,全く的外れかもしれぬ。)
一方で,暦の改訂という一制度上の変更にすぎないものを,政治体制の転換に結びつけて話を大きくしたところは歴史小説らしいところで,うまいこと融合しているとも言える。ついでに言えば,わかりやすい巨悪を設置せず,歴史の重みそのものを敵とすることで,さらにさわやかになっていると思う。その意味では,本作は歴史と科学の戦いでもあるのだが,科学の側に神道や朱子学を味方させることでそこもうまいこと和らげている。特に朱子学は比較的守旧派として描かれることが一般的に多いので,こうした使い方はとても珍しく思えた。この辺りも歴史小説らしい工夫と言えるのではないだろうか。(というところで,映画を見た方には,私にはあの映画が大いに不満だったことは察していただけるかもしれない。)
言うまでもなく本作最大の特徴は主人公,渋川春海の性格である。才能があるのに(それも多才),生まれの事情から卑屈で,読んでいると「君はもうちょっといばってもいいのだよ」と声をかけたくなる。しかし卑屈すぎるというわけではなく,見る目のある人に大業を与えられればそれをきちんとやり遂げていく。挫折と挑戦を繰り返す中で卑屈さはなくなり,どっしりと構えられるようになっていく様子は,歴史小説であり,一人の人生という長いスパンを描けるからこそのゆったりとした成長物語であろう。自らの言をひっくり返すようであるが,少年漫画特有の不自然さといえば,急激な成長の早さだと思うのだ。ドラゴンボールもそこをうまいこと処理しているなと思うが(孫悟空がちゃんと年をとっているので),話がそれてきたのでこの辺でやめておく。
ちなみに,授時暦は元代の中国で,郭守敬という天文学者が作ったものだ。本作でも「正確無比」と評されているが,郭守敬が参考にしたのはイスラームの天文学であった。ユーラシアの大部分を統一したモンゴル帝国では人材の交流が活発であり,特に元朝では西方の人材が「色目人」として,モンゴル人に続く身分制度の二番目に置かれていたことは習った覚えのある方も多いのではないか。続く明朝では大統暦が採用されたことと,授時暦に比べて正確さに劣ることが本書で紹介されているが,実際大統暦はそれほど重要ではない。しかし,本作で紹介されない大統暦の次,清朝の暦は非常に重要である。これを「時憲暦」というが,その根本に使用された知見は西洋由来のもので,伝えたのはイエズス会宣教師の一行であった。成立は1644年で,実は貞享暦よりも早い。日本の改暦事業にも,以後は西洋の知見が取り入れられるようになっていく。世界の学問の最先端がイスラーム世界から西欧に移り変わったことを図らずも示しているのが,極東の暦事情であったりするところも,歴史のおもしろみと言えるかもしれない。
歴史小説であるので史実と異なるポイントがいくつかある。これらについては一通り参照しておくべきであろう。ということで,参考文献の著者(近世数学史)から入ったツッコミを張っておく。
→ ここが違うよ『天地明察』:参考文献の著者から(satokenichilab's blog)
その他,天文学や囲碁の観点からも史実との相違や著者の誤解と思しきところに指摘が入っているので,気になる方はいろいろ調べてみるとよいだろう。
天地明察(上) (角川文庫)
著者:冲方 丁
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
というわけで,とてもおもしろい小説であった。歴史小説ではあるが,本質的な所では綺麗な「努力・友情・勝利」でとても少年漫画らしい作りになっている。いやらしさがなく非常にさわやかなのは主人公の性格自体がそうでありつつ,周囲の人間もまた気のいい人たちばかりであり,まさにそうした好漢たちの努力の結晶が,貞享暦の勝利として最終的に帰結する。痛快な物語である。この物語とキャラの明快さはライトノベル由来だとすれば,ラノベも他の小説ジャンルに新風を吹き入れているのだなと感覚を新たにするところである。(というのがラノベも歴史小説も中途半端にしか読まない身の正直な感想であるが,全く的外れかもしれぬ。)
一方で,暦の改訂という一制度上の変更にすぎないものを,政治体制の転換に結びつけて話を大きくしたところは歴史小説らしいところで,うまいこと融合しているとも言える。ついでに言えば,わかりやすい巨悪を設置せず,歴史の重みそのものを敵とすることで,さらにさわやかになっていると思う。その意味では,本作は歴史と科学の戦いでもあるのだが,科学の側に神道や朱子学を味方させることでそこもうまいこと和らげている。特に朱子学は比較的守旧派として描かれることが一般的に多いので,こうした使い方はとても珍しく思えた。この辺りも歴史小説らしい工夫と言えるのではないだろうか。(というところで,映画を見た方には,私にはあの映画が大いに不満だったことは察していただけるかもしれない。)
言うまでもなく本作最大の特徴は主人公,渋川春海の性格である。才能があるのに(それも多才),生まれの事情から卑屈で,読んでいると「君はもうちょっといばってもいいのだよ」と声をかけたくなる。しかし卑屈すぎるというわけではなく,見る目のある人に大業を与えられればそれをきちんとやり遂げていく。挫折と挑戦を繰り返す中で卑屈さはなくなり,どっしりと構えられるようになっていく様子は,歴史小説であり,一人の人生という長いスパンを描けるからこそのゆったりとした成長物語であろう。自らの言をひっくり返すようであるが,少年漫画特有の不自然さといえば,急激な成長の早さだと思うのだ。ドラゴンボールもそこをうまいこと処理しているなと思うが(孫悟空がちゃんと年をとっているので),話がそれてきたのでこの辺でやめておく。
ちなみに,授時暦は元代の中国で,郭守敬という天文学者が作ったものだ。本作でも「正確無比」と評されているが,郭守敬が参考にしたのはイスラームの天文学であった。ユーラシアの大部分を統一したモンゴル帝国では人材の交流が活発であり,特に元朝では西方の人材が「色目人」として,モンゴル人に続く身分制度の二番目に置かれていたことは習った覚えのある方も多いのではないか。続く明朝では大統暦が採用されたことと,授時暦に比べて正確さに劣ることが本書で紹介されているが,実際大統暦はそれほど重要ではない。しかし,本作で紹介されない大統暦の次,清朝の暦は非常に重要である。これを「時憲暦」というが,その根本に使用された知見は西洋由来のもので,伝えたのはイエズス会宣教師の一行であった。成立は1644年で,実は貞享暦よりも早い。日本の改暦事業にも,以後は西洋の知見が取り入れられるようになっていく。世界の学問の最先端がイスラーム世界から西欧に移り変わったことを図らずも示しているのが,極東の暦事情であったりするところも,歴史のおもしろみと言えるかもしれない。
歴史小説であるので史実と異なるポイントがいくつかある。これらについては一通り参照しておくべきであろう。ということで,参考文献の著者(近世数学史)から入ったツッコミを張っておく。
→ ここが違うよ『天地明察』:参考文献の著者から(satokenichilab's blog)
その他,天文学や囲碁の観点からも史実との相違や著者の誤解と思しきところに指摘が入っているので,気になる方はいろいろ調べてみるとよいだろう。
天地明察(上) (角川文庫)
著者:冲方 丁
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
Posted by dg_law at 16:28│Comments(0)│