2013年06月19日

アマデウス

1984年の映画。主人公はアントニオ・サリエリ,18世紀末から19世紀前半にかけて活躍した音楽家で,タイトルのアマデウスはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指す。二人の交流が物語の主軸となる。

本作は天才モーツァルト,それには一歩及ばない秀才サリエリ,とその他の凡才の3つの区分がはっきりと示されている。秀才サリエリはモーツァルトにかなわないことに苦悩するが,これは単純に才能が追いつかないから,と見るのは少し違う気がした。結局のところ本作のサリエリがモーツァルトに嫉妬するのは,モーツァルトが「下品で世間知らずでいけ好かない若造」である”にもかかわらず”天才,というところだろう。モーツァルトが謙虚であったなら,このような脚本にはならない。また,史実はどうやらわりとそうだったようで,サリエリとモーツァルトの確執は後世の創作のようである。本作の,ではないのがサリエリの不幸で,モーツァルト暗殺疑惑は終生つきまとったようだ。この映画でサリエリが再評価されているのだから,皮肉なものである。

もう一つモーツァルトに欠点を挙げるとすると,それは相手を理解できるほどの天才ではなかった,という点だ。より完璧な天才なら,相手を見てそれにあった作品を提出できるはずである。そこで,芸術性だけを見てそこだけを追求し,「音が多い」と言われれば皇帝相手でも反論してしまう危うさがモーツァルトにはあった。確かに,モーツァルトやサリエリから見れば不要な音など存在しない状態であったのだろう。しかし芸術性が超越しすぎた結果,秀才のサリエリにしか通じない音楽しか作れなければそれはやはり偏った才能であり,より優れた天才とは言いがたい。その後の『フィガロの結婚』も『ドン・ジョバンニ』も,真価がわかったのはサリエリだけであった。それは本作のモーツァルトにおいては,無論謙虚さを欠いた結果でもあるのだが,同時に才能が欠如していたとも言えるのではないか。本作のモーツァルトは完璧な才能の持ち主ではなかった。


サリエリは確かにモーツァルトの立身出世を妨害した。が,サリエリが妨害しなかったからと言って本作のモーツァルトの人生が大きく変わったかというと,大差は無かったかのようにしか思えない。最終的な死因も,心因的なものを除けばサリエリが手を下したというわけでは全くなかった。だからこそ,サリエリの惨めさは際立つのではないかと思う。彼自身が言うように,サリエリの不幸は何重もの不運が重なって生まれたものだ。まずモーツァルトが音楽の才能以外ではどうしようもない奴だったこと。次にモーツァルトの才能は偏っていたこと。そしてモーツァルトの飛び抜けすぎた才能を理解できたのが,よりによって自分だけだったこと。さらに,モーツァルトを妨害できる立場に自身が立っていたこと。最後に,妨害しても結末にさしたる大差は無かったであろうこと。その全ての要因がモーツァルトには死を与え,サリエリには不幸を与えた。

このどれか一つでも欠けていればサリエリの人生は幾分マシだったに違いない。神にすがり神に音楽を捧げて努力してきた結末がこれでは,神を裏切りたくもなるし,裏切り切ることさえサリエリには許されなかった。サリエリにはレクイレムを共同で完成させるという罰が与えられた。なんとも恐ろしい話である。「アマデウス」とは見事な題だ。Gottliebではないのは,モーツァルトが民族主義者で,ドイツ語オペラにこだわっていただけにこれまた皮肉である。


最後に一点だけ。『魔笛』はモーツァルトがフリーメイソンであったために書かれた作品であり,ストーリーはイニシエーションをなぞったものになっている。また,モーツァルトに作曲を依頼した大衆オペラの座長もフリーメイソンの会員であった。本作ではこれらの描写が全くなく,単純に貧困・栄養失調・疲労困憊のまま『レクイレム』と並行して書かされたため,死因の一因になったという描写があるのみである。話がややこしくなるからカットしたのだと思う(ただでさえ本作は約180分もある)。もっと言うと『魔笛』の上演から『レクイレム』,及び死去まではややタイムラグがあるはずで,それをほぼ同時並行にしたのは本作の歴史改変である。本作はモーツァルトやサリエリの人格に史実改変が入っているので,時系列くらい今更ではあるが,フリーメイソンが関心分野であるので少し気になった。


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この記事へのコメント
>もう一つモーツァルトに欠点を挙げるとすると,それは相手を理解できるほどの天才ではなかった,という点だ
このくだりですが,個人的には塩野七生の評が当たっている気がします(もう読まれていたらすみませんが)。

>原作者シェーファーの区別の基準は,これに私も賛成だが,次のようなものではないかと思う
>天才――神が愛した者
>秀才――神が愛するほどの才能には恵まれていないが,天才の才能はわかってしまう人。ゆえに,不幸な人
>凡才――秀才の才能は理解でき,尊重はするが,天才の才能まではわからない人。ゆえに,幸福でいられる人
>この現象はあくまでも同時点,つまり「生前」の現象であって,「没後」の評価は別の話とする。「没後」ならば,秀才も凡才も天才を理解でき,それゆえに尊重し愛することになるのが一般的な現象である
(塩野七生「天才」『人びとのかたち』新潮文庫,1997年,284-285頁)

おそらく天才には「凡人の視点」はわからなくて,それが天才たる所以であり,だからこそそれをもってあの映画で描かれたモーツァルトの天才性の欠点であるかのように言うのはちょっと納得がいかないです。まあこれはわたしの趣味に過ぎないのですが。この映画は本当に良い映画ですよね。おっしゃるようにモーツァルトがダメ人間なのもサリエリの苦悩に拍車をかけていて,だからこそ素晴らしいという。
Posted by mukke at 2013年06月23日 23:58
そういう概念の切り分け自体は,実は賛成しています。
ただ,中には「天才にもなれるし秀才にもなれる」類の人はおり,一つの作品でそれを体現する場合もありえます。そうした人に対する評価はどうするべきか考えた時,「天才」でしかない人を手放しで評価するのはやめたいな,と思いまして。

実は本作でも,『魔笛』や『レクイレム』を書いた頃のモーツァルトであればそれに近い状態だったように思うんですよ。『魔笛』を受けた扱いにしたのは,そういう意味合いで読み取ることも可能じゃないかと。
人々に見捨てられ始め,恥も外聞も無くなった頃になって,ようやく真の天才として開花したが,結局再評価される前に死んでしまう。そんな悲劇ですね。
Posted by DG-Law at 2013年06月24日 21:52