2013年06月24日
松実玄は裏ドラにまで能力を及ぼしているのか議論について
最近,玄の裏ドラ支配能力に関する議論が盛り上がっている。中途半端に口を挟んでしまったので,私の見解を述べておく。先行記事は以下。
・松実玄の支配は裏ドラまで届くのか(Cat in the box,ミスタさん)
・松実玄がリーチをかけられない,もう1つの理由(Danas je lep dan.,Mukkeさん)
・【考察】松実玄は裏ドラを支配しているのか?について考えてみる(麻雀雑記あれこれ,しののぬさん)
今のところしののぬさんの説が一番説得的であるので,その成果を見つつ。ここまでの議論が大体作中の描写をもとにした帰納法的なアプローチなので,なるべく演繹法的にやってみようと思う。まず,基本原理から言えば,玄は裏ドラを支配できない。その理由を箇条書き的に書くと,
・裏ドラはめくるまで誰にも認知されない,もしくは確定しない。
・したがって,「ドラを捨てない限り,ドラが集まる」という玄の能力の性質上,玄は裏ドラを切れないはずである。
・ということは玄は裏ドラをめくる前から特定していなければならないが,そのような描写は作中にない。よって,裏ドラ察知能力は無いと考える。
・認知できない以上,玄は「どれが裏ドラ牌かわからない」ので,そもそも切る切らないの判断ができない。
・よって能力の制約上,裏ドラは支配できない。
付け加えれば,玄が裏ドラを(無意識的に)支配しているとすると,しののぬさんが指摘しているように「一見無関係に見える暗刻」がもってあってもよさそうであるが,玄の手牌を見ると意外とそうした暗刻は少ない。また,裏ドラが必ず配牌がツモ牌に紛れ込んでいて,玄は無意識的に切れないとすると,これは大変なことになる。赤ドラ4+表ドラ4+裏ドラ4で合計12枚が最終的に玄の手許に集まってくることになるが,赤ドラ4枚が5p2枚に5s・5mが1枚ずつであることを思い出してほしい。たとえば表ドラが2p,裏ドラが8sとすると,玄の手牌は早い段階で「22225p58888s5m」に近い状態になる。これがいかに絶望的な状態かは,多少なり麻雀をやっている人ならわかるだろう。裏ドラが5pでドラがだぶってるとか,せめて4−6のpで順子にしやすいなんて状況でない限り,玄ちゃんの和了が絶対に不可能になってしまう。
ここでMukkeさんが指摘しているように,「和了した照が裏ドラを確認していない」のは不自然といえばそうなるので,言及が必要だろう。彼女は彼女で打点制限という制約があるので,裏ドラが乗ってなくても制限をクリアできるよう,手役を組むはずである。ゆえに,「余分に打点を上げてしまうと,次に上がりにくくなり,稼げる総得点が逆に少なくなる」という可能性があり,ゆえに照は余分な打点上昇を避けるべくわざと裏ドラを見ていないという可能性はなくはないことを一応指摘しておく。照とて役満近くまでたどり着いたら連荘が苦しくなるはず,と考えたとき,1000→2000→3900と小刻みに刻んでいって48000までたどり着いたほうが,1000→3900→12000と刻んでいったときより,連荘回数が増え,獲得得点が大きくなるという単純な足し算の話である。
また,「玄の自分の裏ドラ支配力と,他人の裏ドラに対する支配力を別個に考えれば他の仮説も成り立つのではないか」という意見を見たが,私は無いと思う。そもそもこれは裏ドラが伏せられているからこそ成り立つ仮説である。表ドラにおいては開局時から全員の知るところとなるため,玄のドラ独占能力と他者の妨害が表裏一体で必ず同時に成り立つ。ただし,あくまで玄の能力の主体は他者にドラを与えないことではなく自らがドラを独占することであって,妨害は副産物である。能力を分離する意味はないし,分離すると場合分けの数が倍に増えるので大変なことに。
これに,しののぬさんの成果である「怜の和了時の裏ドラを,すばら先輩が配牌で持っていた」という検証から,少なくとも妨害効果に関しては皆無ということがわかり,あわせて玄は裏ドラに対する支配力が無い,という非常に強い仮説が成り立つ。つまり,ここまで玄の対局者がどれだけ立直をかけても裏ドラが乗らなかったのは偶然ということになり,また照が裏ドラをめくらなかったのは上記の如く「余分な打点上昇を防ぐため」,ということになる。これが一番説得力が高い仮説だが,そこに夢はない。また,普通に考えれば照とて裏ドラくらい見るはずであり,見なかったのは玄の能力を察知していて乗らないことがわかっていたから,と考えうる。
というわけで,しののぬさんが出した結論から,少なくとも玄が誓約を破らずリーチをかけた場合は裏ドラを独占する可能性があるのではないか,という方向で考えてみる。そこで,注目したいのは「(裏ドラはめくるまで)確定しない」という点だ。認知されないのではない。Mukkeさんが別記事(咲-Saki-色のクオリア――能力者は量子雀牌の夢を見るか?)で指摘していたように,麻雀牌はめくってみるまで世界線が収束しない。問題は収束するタイミングだ。
まず,”玄がリーチをかけた瞬間に裏ドラが確定”がある。実はこのタイミングで確定にしてしまうと,とても困ったことになる。裏ドラが上がり牌ではなかった場合,玄は強制的に誓約を破らされることになる。そうでないとしてありうるのは,「誓約を破らず玄がリーチをかけた場合は,上がり牌が必ず裏ドラになる」か,「ツモ筋から裏ドラが消滅する(しかもずらされても有効)」か,「リーチまでに裏ドラが全て手の中に入っている」ということになる。これとんでもなく強力な能力じゃないか,強制力的に……強さの割に役に立たないけど。そして作中にそんな場面がないので検証できない。
もう一系統立つ仮説として,「裏ドラは和了時に確定」というものがある。すなわち,
・局の開始時,玄の能力は一切裏ドラに作用しない。
・ただし,誰かが立直をかけて和了した瞬間に,ようやく裏ドラは確定する。
・玄本人がリーチして和了した場合:対局者4人全員の捨牌以外,かつ玄の手牌もしくは山に4枚とも埋もれている牌のなかから裏ドラが選択されて確定。玄は”無意識的に”裏ドラを支配しているということになる。
・玄以外がリーチして和了した場合:前述のしののぬさんの検証から,玄は支配力を全く及ぼさない。
となる。すると玄の参加している麻雀では,対局者3人は最高32種類の麻雀牌しか使用できない。なぜなら対局者3人で33種類の牌を使い切った状態でうち1人が和了すると,裏ドラになれる牌がなくなってしまうからだ。つまり,この仮説は作中で「玄と戦った対局者3人が,3人あわせて(表ドラ以外の)33種類の麻雀牌を使用した」局が出てきた瞬間崩壊する。というわけでそれを調べる価値が出てきたが,しののぬさんの記事によると「「玄以外の手牌と捨て牌を合わせて表ドラ以外の33種の牌が見えている」シーンを見つければ良いのですがそんなシーンはありませんでした。」とのことなので,32種類に減らしても結果は同じではないか。
これは逆の発想もできる。すなわち,玄がリーチをかけた上で和了できるかどうかは局の開始時点であらかじめ定められており,その局のみ他家3人は32種類の牌しか使用することができない……どっかで聞いたことがあると思ったら,遡及的過去形成ならぬ,まるっきり予定説である。阿知賀女子学院はカルヴァン派もしくは聖公会系の学校である可能性が微レ存……?”学院”ってついてるし(学院とついている学校はキリスト教系である可能性が高い,ex.青山学院,関西学院)。
まとめると,現時点で成り立ちうる仮説としては,5つ。
1.玄は裏ドラに対する支配力が全くない。
2.玄は裏ドラに対する支配力を及ぼすが,本人が誓約を破らずリーチした場合という,極めて限定された状況のみである。
2−1−1.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。しかし,強制的に誓約を破らされる可能性がある。
2−1−2.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。かつ,場に強烈な支配力が働き,玄は裏ドラを切って誓約を破ることなく和了できる。
2−2−1.玄がリーチをかけて和了した場合にのみ,裏ドラは確定する。裏ドラは手牌もしくは山に4枚とも埋もれた牌から選択される。
2−2−2.もしくは逆に,玄がその局リーチをかけて和了できるかどうかは局開始時に決まっており,和了が確定している場合のみ,裏ドラを支配(独占)できる。(阿知賀女子カルヴァン派説)
があるのではないかと思う。
ついでに,槓ドラについて考える。開く前の,つまり確定前の槓ドラに対しては,裏ドラ同様玄の能力が及ばないと考えたほうがいいだろう。これは単純に,裏ドラよりも開く機会の少ない槓ドラのほうが支配が強いということは考えづらいという点が一つ。そして裏ドラ同様,開く前から槓ドラを支配しているのなら,玄の手にはもっと「一見無関係に見える暗刻」があってもよさそうなものだが,彼女がドラ以外の暗刻を抱えてるシーンはそう多くない。よって,槓ドラへの支配は裏ドラ同様,本人が槓をした時のみ,かつ開いた後から支配が及ぼされるという仮定をひとまずできそうだ。
これも一つは予定説を使うと成り立つ仮定がある。すなわち,「玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される」。これなら照が暗槓したときに,すでに槓ドラが3枚も玄の手の中に存在していたという不自然な現象をなんなく説明できる。これは卑怯。なんか予定説で全部解決する気がしてきた。というか,裏ドラが予定説仮説をとらないにしても,槓ドラは予定説が非常にしっくりくるような気が,個人的にはするのだが,どうか。
予定説を取らずに考えられるのは,槓ドラが開いた後からはドラ支配(と制約)の範囲内だが,開く前は普通の牌として処理されるという仮説だ。たとえば槓ドラが一萬だとすると,玄は槓ドラが開く前までは一萬を捨てられるが,開いた後は捨てられなくなる。また,開いた瞬間に4人の捨て牌か相手の手牌にない一萬は玄のツモに出現するよう山が再構成される。(まさに遡及的過去形成。ある出来事が起きて未来が確定した瞬間,不確定だった世界の部分は,その未来に都合がいいように再構成される。ただし,確定した事象については当然書き換えることはできない。)
もう一つは当然考えられる,玄は槓ドラに対する支配力は全くないということ。現状,やはりこれが一番説得力が高い気がする。よってありうるのは,
1.玄は槓ドラに対する支配力を持っていない。
2.玄は槓ドラを察知できず,開く前には支配が及ばないが,開いた後からは表ドラと同様の支配力を及ぼす。
3.玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される。
くらいではないか。
・松実玄の支配は裏ドラまで届くのか(Cat in the box,ミスタさん)
・松実玄がリーチをかけられない,もう1つの理由(Danas je lep dan.,Mukkeさん)
・【考察】松実玄は裏ドラを支配しているのか?について考えてみる(麻雀雑記あれこれ,しののぬさん)
今のところしののぬさんの説が一番説得的であるので,その成果を見つつ。ここまでの議論が大体作中の描写をもとにした帰納法的なアプローチなので,なるべく演繹法的にやってみようと思う。まず,基本原理から言えば,玄は裏ドラを支配できない。その理由を箇条書き的に書くと,
・裏ドラはめくるまで誰にも認知されない,もしくは確定しない。
・したがって,「ドラを捨てない限り,ドラが集まる」という玄の能力の性質上,玄は裏ドラを切れないはずである。
・ということは玄は裏ドラをめくる前から特定していなければならないが,そのような描写は作中にない。よって,裏ドラ察知能力は無いと考える。
・認知できない以上,玄は「どれが裏ドラ牌かわからない」ので,そもそも切る切らないの判断ができない。
・よって能力の制約上,裏ドラは支配できない。
付け加えれば,玄が裏ドラを(無意識的に)支配しているとすると,しののぬさんが指摘しているように「一見無関係に見える暗刻」がもってあってもよさそうであるが,玄の手牌を見ると意外とそうした暗刻は少ない。また,裏ドラが必ず配牌がツモ牌に紛れ込んでいて,玄は無意識的に切れないとすると,これは大変なことになる。赤ドラ4+表ドラ4+裏ドラ4で合計12枚が最終的に玄の手許に集まってくることになるが,赤ドラ4枚が5p2枚に5s・5mが1枚ずつであることを思い出してほしい。たとえば表ドラが2p,裏ドラが8sとすると,玄の手牌は早い段階で「22225p58888s5m」に近い状態になる。これがいかに絶望的な状態かは,多少なり麻雀をやっている人ならわかるだろう。裏ドラが5pでドラがだぶってるとか,せめて4−6のpで順子にしやすいなんて状況でない限り,玄ちゃんの和了が絶対に不可能になってしまう。
ここでMukkeさんが指摘しているように,「和了した照が裏ドラを確認していない」のは不自然といえばそうなるので,言及が必要だろう。彼女は彼女で打点制限という制約があるので,裏ドラが乗ってなくても制限をクリアできるよう,手役を組むはずである。ゆえに,「余分に打点を上げてしまうと,次に上がりにくくなり,稼げる総得点が逆に少なくなる」という可能性があり,ゆえに照は余分な打点上昇を避けるべくわざと裏ドラを見ていないという可能性はなくはないことを一応指摘しておく。照とて役満近くまでたどり着いたら連荘が苦しくなるはず,と考えたとき,1000→2000→3900と小刻みに刻んでいって48000までたどり着いたほうが,1000→3900→12000と刻んでいったときより,連荘回数が増え,獲得得点が大きくなるという単純な足し算の話である。
また,「玄の自分の裏ドラ支配力と,他人の裏ドラに対する支配力を別個に考えれば他の仮説も成り立つのではないか」という意見を見たが,私は無いと思う。そもそもこれは裏ドラが伏せられているからこそ成り立つ仮説である。表ドラにおいては開局時から全員の知るところとなるため,玄のドラ独占能力と他者の妨害が表裏一体で必ず同時に成り立つ。ただし,あくまで玄の能力の主体は他者にドラを与えないことではなく自らがドラを独占することであって,妨害は副産物である。能力を分離する意味はない
これに,しののぬさんの成果である「怜の和了時の裏ドラを,すばら先輩が配牌で持っていた」という検証から,少なくとも妨害効果に関しては皆無ということがわかり,あわせて玄は裏ドラに対する支配力が無い,という非常に強い仮説が成り立つ。つまり,ここまで玄の対局者がどれだけ立直をかけても裏ドラが乗らなかったのは偶然ということになり,また照が裏ドラをめくらなかったのは上記の如く「余分な打点上昇を防ぐため」,ということになる。これが一番説得力が高い仮説だが,そこに夢はない。また,普通に考えれば照とて裏ドラくらい見るはずであり,見なかったのは玄の能力を察知していて乗らないことがわかっていたから,と考えうる。
というわけで,しののぬさんが出した結論から,少なくとも玄が誓約を破らずリーチをかけた場合は裏ドラを独占する可能性があるのではないか,という方向で考えてみる。そこで,注目したいのは「(裏ドラはめくるまで)確定しない」という点だ。認知されないのではない。Mukkeさんが別記事(咲-Saki-色のクオリア――能力者は量子雀牌の夢を見るか?)で指摘していたように,麻雀牌はめくってみるまで世界線が収束しない。問題は収束するタイミングだ。
まず,”玄がリーチをかけた瞬間に裏ドラが確定”がある。実はこのタイミングで確定にしてしまうと,とても困ったことになる。裏ドラが上がり牌ではなかった場合,玄は強制的に誓約を破らされることになる。そうでないとしてありうるのは,「誓約を破らず玄がリーチをかけた場合は,上がり牌が必ず裏ドラになる」か,「ツモ筋から裏ドラが消滅する(しかもずらされても有効)」か,「リーチまでに裏ドラが全て手の中に入っている」ということになる。これとんでもなく強力な能力じゃないか,強制力的に……強さの割に役に立たないけど。そして作中にそんな場面がないので検証できない。
もう一系統立つ仮説として,「裏ドラは和了時に確定」というものがある。すなわち,
・局の開始時,玄の能力は一切裏ドラに作用しない。
・ただし,誰かが立直をかけて和了した瞬間に,ようやく裏ドラは確定する。
・玄本人がリーチして和了した場合:対局者4人全員の捨牌以外,かつ玄の手牌もしくは山に4枚とも埋もれている牌のなかから裏ドラが選択されて確定。玄は”無意識的に”裏ドラを支配しているということになる。
・玄以外がリーチして和了した場合:前述のしののぬさんの検証から,玄は支配力を全く及ぼさない。
となる。すると玄の参加している麻雀では,対局者3人は最高32種類の麻雀牌しか使用できない。なぜなら対局者3人で33種類の牌を使い切った状態でうち1人が和了すると,裏ドラになれる牌がなくなってしまうからだ。つまり,この仮説は作中で「玄と戦った対局者3人が,3人あわせて(表ドラ以外の)33種類の麻雀牌を使用した」局が出てきた瞬間崩壊する。というわけでそれを調べる価値が出てきたが,しののぬさんの記事によると「「玄以外の手牌と捨て牌を合わせて表ドラ以外の33種の牌が見えている」シーンを見つければ良いのですがそんなシーンはありませんでした。」とのことなので,32種類に減らしても結果は同じではないか。
これは逆の発想もできる。すなわち,玄がリーチをかけた上で和了できるかどうかは局の開始時点であらかじめ定められており,その局のみ他家3人は32種類の牌しか使用することができない……どっかで聞いたことがあると思ったら,遡及的過去形成ならぬ,まるっきり予定説である。阿知賀女子学院はカルヴァン派もしくは聖公会系の学校である可能性が微レ存……?”学院”ってついてるし(学院とついている学校はキリスト教系である可能性が高い,ex.青山学院,関西学院)。
まとめると,現時点で成り立ちうる仮説としては,5つ。
1.玄は裏ドラに対する支配力が全くない。
2.玄は裏ドラに対する支配力を及ぼすが,本人が誓約を破らずリーチした場合という,極めて限定された状況のみである。
2−1−1.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。しかし,強制的に誓約を破らされる可能性がある。
2−1−2.玄がリーチした時点で裏ドラが確定する。かつ,場に強烈な支配力が働き,玄は裏ドラを切って誓約を破ることなく和了できる。
2−2−1.玄がリーチをかけて和了した場合にのみ,裏ドラは確定する。裏ドラは手牌もしくは山に4枚とも埋もれた牌から選択される。
2−2−2.もしくは逆に,玄がその局リーチをかけて和了できるかどうかは局開始時に決まっており,和了が確定している場合のみ,裏ドラを支配(独占)できる。(阿知賀女子カルヴァン派説)
があるのではないかと思う。
ついでに,槓ドラについて考える。開く前の,つまり確定前の槓ドラに対しては,裏ドラ同様玄の能力が及ばないと考えたほうがいいだろう。これは単純に,裏ドラよりも開く機会の少ない槓ドラのほうが支配が強いということは考えづらいという点が一つ。そして裏ドラ同様,開く前から槓ドラを支配しているのなら,玄の手にはもっと「一見無関係に見える暗刻」があってもよさそうなものだが,彼女がドラ以外の暗刻を抱えてるシーンはそう多くない。よって,槓ドラへの支配は裏ドラ同様,本人が槓をした時のみ,かつ開いた後から支配が及ぼされるという仮定をひとまずできそうだ。
これも一つは予定説を使うと成り立つ仮定がある。すなわち,「玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される」。これなら照が暗槓したときに,すでに槓ドラが3枚も玄の手の中に存在していたという不自然な現象をなんなく説明できる。これは卑怯。なんか予定説で全部解決する気がしてきた。というか,裏ドラが予定説仮説をとらないにしても,槓ドラは予定説が非常にしっくりくるような気が,個人的にはするのだが,どうか。
予定説を取らずに考えられるのは,槓ドラが開いた後からはドラ支配(と制約)の範囲内だが,開く前は普通の牌として処理されるという仮説だ。たとえば槓ドラが一萬だとすると,玄は槓ドラが開く前までは一萬を捨てられるが,開いた後は捨てられなくなる。また,開いた瞬間に4人の捨て牌か相手の手牌にない一萬は玄のツモに出現するよう山が再構成される。(まさに遡及的過去形成。ある出来事が起きて未来が確定した瞬間,不確定だった世界の部分は,その未来に都合がいいように再構成される。ただし,確定した事象については当然書き換えることはできない。)
もう一つは当然考えられる,玄は槓ドラに対する支配力は全くないということ。現状,やはりこれが一番説得力が高い気がする。よってありうるのは,
1.玄は槓ドラに対する支配力を持っていない。
2.玄は槓ドラを察知できず,開く前には支配が及ばないが,開いた後からは表ドラと同様の支配力を及ぼす。
3.玄本人,もしくは他家が槓子を作れるかどうかは局開始時に予め決まっており,その場合にのみ玄の槓ドラに対する支配(独占)は発揮される。
くらいではないか。
Posted by dg_law at 02:05│Comments(4)│
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この記事へのコメント
http://mitikusaboya.blog.fc2.com/blog-entry-107.html
既にご存知かもしれませんが、能力と運命に関しては、予め定まってること基にしたこのような考察もあります。
長いですし書いた本人でもありませんが一応。
予定されてると、本人の頑張りや意志とは何だったのかとなりますが、だからといって遡及的に過去が形成されるというのも(既にオカルト過多で言うのもあれですが)あまりにオカルトじみてますよね。
どっちが正しいということでもないですけど。
既にご存知かもしれませんが、能力と運命に関しては、予め定まってること基にしたこのような考察もあります。
長いですし書いた本人でもありませんが一応。
予定されてると、本人の頑張りや意志とは何だったのかとなりますが、だからといって遡及的に過去が形成されるというのも(既にオカルト過多で言うのもあれですが)あまりにオカルトじみてますよね。
どっちが正しいということでもないですけど。
Posted by ななし at 2013年06月24日 21:46
紹介ありがとうございます。道筋理論の記事は割りと読んでますね。
言われてみるとあれの「作る」も予定説的ですね。
>予定されてると、本人の頑張りや意志とは何だったのかとなりますが、
実はまさにそこがカルヴァン派の教理でありまして,
”神に救われるか否かは,予め定められている。そして,そのことは神のみぞ知ることであり,本人は知ることができない。しかし,だからこそ自分が救われているという確信を得るべく天命を果たす。”
という論理展開になるわけです。
自分が上がれるかどうかは認知できない以上,あらかじめ定まっているかどうかは気にせず,「上がりを確信して」,上がりに向かって邁進するわけで。
某華菜ちゃんも言ってますが,「もし神がいるのなら 前に向かう者を 好きでいてくれるはず!」ということですね。(もっとも,本当に予定説なら信心と救いは無関係なわけですが,心構えとしてはこれでいいはずです。)
一応,予定説は仮説の一つでありまして,私自身がこれを推しているわけでもありません。考えうるというだけです。
>どっちが正しいということでもないですけど。
ですね。
言われてみるとあれの「作る」も予定説的ですね。
>予定されてると、本人の頑張りや意志とは何だったのかとなりますが、
実はまさにそこがカルヴァン派の教理でありまして,
”神に救われるか否かは,予め定められている。そして,そのことは神のみぞ知ることであり,本人は知ることができない。しかし,だからこそ自分が救われているという確信を得るべく天命を果たす。”
という論理展開になるわけです。
自分が上がれるかどうかは認知できない以上,あらかじめ定まっているかどうかは気にせず,「上がりを確信して」,上がりに向かって邁進するわけで。
某華菜ちゃんも言ってますが,「もし神がいるのなら 前に向かう者を 好きでいてくれるはず!」ということですね。(もっとも,本当に予定説なら信心と救いは無関係なわけですが,心構えとしてはこれでいいはずです。)
一応,予定説は仮説の一つでありまして,私自身がこれを推しているわけでもありません。考えうるというだけです。
>どっちが正しいということでもないですけど。
ですね。
Posted by DG-Law at 2013年06月24日 22:24
すごい今更なんですが,阿知賀女子カルヴァン派説を採用すると,「なんであんな辺鄙なところに女子校が?」問題が解決できますね。布教のために異教の霊山の奥深くまで分け入るプロテスタントという構図で。穏乃蔵王権現との相性はどうなのかと気になりますが,やはりそこはカルヴァン派も山に絡め取られてしまったのかなあ,とか。
Posted by mukke at 2013年07月17日 13:55
このブログで何度か扱ってますが,「山を崇高なものとして見る」美学の発祥はプロテスタント系の美学です。カトリックの神学では「山は地球にできた”あばた”」なので。
案外と相性が良いかもしれません。ただし,プロテスタントに修験道的な発想は無いですが。
案外と相性が良いかもしれません。ただし,プロテスタントに修験道的な発想は無いですが。
Posted by DG-Law at 2013年07月18日 09:43