2013年09月15日

アメリカ外交史の転換点は?

・「世界の民主主義を守るためにアメリカは立ち上がらないといけない」この傲慢な発想はどこから来たのか? パットン将軍、自腹でシアーズ・カタログから部品を購入(Market Hack)

本当はこういう記事は2,3ヶ月経って忘れた頃にツッコミを入れることにしているのだが,これについてはモヤモヤが晴れないので今のうちに書いておく。この記事,何がまずいかというと史実の指摘が怪しいか,明確に間違っている点がいくつかある。

0.この論って正しいの?
極端な誤りではないが,厳しいと思う。要約すれば「建国以来孤立主義だったが,その風潮にウィルソンがWW1を通して「スーパーヒーロー症候群」を植えつけた。そこで中東情勢にもかかわりを持った。世界恐慌で一時孤立主義に戻ったが,ホロコーストのような人権弾圧を見て,再び”人権”と”民主主義”を掲げる世界の警察を自任するようになった」ということになる。が,1.まず「建国以来孤立主義だった」というまとめは簡潔な表現にしても粗雑。モンロー宣言には言及しなくてよいのか。  2.WW1と世界恐慌は決定的な転換点ではない。 3.アメリカはおそらく戦間期の中東情勢にはかかわりが薄い。 4.ホロコーストは理由の一つに過ぎない。むしろトルーマン・ドクトリンへの言及がないのは本当に意味不明。 そのほかにウィルソンだけを過大評価であり,アメリカの民主主義の特質は他の点にもあるはず,という点は指摘されるべきだが本稿では扱わない。


1.話の始点はそこでいいの?
まずスタートでせっかく独立戦争そのものが孤立外交の起源だという指摘をせっかくしているのに,モンロー宣言に言及がないのは片手落ちである。独立直後から孤立外交に向いたのはジョージ・ワシントンの方針だが,これを明確な形で示したのはモンロー宣言になるし,モンロー宣言がその後120年ほどのアメリカ外交の基本方針となった。

ナポレオン戦争で本国スペインが荒廃したことにより,ラテンアメリカ諸国に独立の機運が巡ってきた。そこでウィーン体制下の反動主義に染まった欧州諸国は独立鎮圧に動くのだが,これに対抗してアメリカの出した宣言が1823年のモンロー宣言だ。トルーマン・ドクトリンにあわせるならモンロー・ドクトリンという表記になるが,モンロー宣言が定訳になっている。モンロー宣言は,実は単純な孤立主義というわけではない。正確な意味は「ヨーロッパ諸国と新大陸諸国の相互不干渉」になる。ベーリング海峡のことを無視して「大西洋間の相互不干渉」と簡潔に言う場合もある。独立した新大陸諸国はヨーロッパとは異なった政治体制を作るので,欧州の古い秩序を持ち込まないでいただきたい,ということだ。ちなみに,モンロー宣言全文はアメリカ大使館のHPで日本語訳で読める。同サイトにはトルーマン・ドクトリンもある。

もちろん,この宣言もアメリカ合衆国に発言力が無ければ効果は薄く,事実当時の合衆国は独立40年程度のいまだひょろっちい国家であった。では意味がなかったかというと,ちゃんと布石はあった。当時のイギリスは外相カニングのもと,「欧州諸国との協調よりも,独立を支援して新国家を経済支配したほうが国益に叶う」と判断し,ウィーン体制からの離脱を図っており,強力な海軍を用いて独立側を支援していた。アメリカが最初はイギリスの威を借りて孤立主義に振れたことは意外な事実かもしれない。ちなみにイギリスはラテンアメリカ独立支援のための共同宣言をアメリカに呼びかけているが,これをつっぱねて単独宣言としたのがモンロー宣言だ。アメリカからしてみればイギリスも「侵略者」には変わらなかったのであるが,にもかかわらずその威だけ借りてしまう辺り,見事なリアリズムであろう。

この点,モンロー宣言に関する誤解がそれなりに広まってる感があるので指摘しておく。モンロー宣言は合衆国自身の独立維持・内政専念が当初の目的であって,最初からラテンアメリカ諸国に対する保護権を主張したものではない。前述の通り,当時のアメリカには単独で対外進出するだけの国力はなく,ヨーロッパの騒乱が新大陸に持ち込まれ,それにアメリカが巻き込まれるのを嫌がっていたからこそ,範囲を自国のみならず新大陸全体に広げたのである。一方,ラテンアメリカ諸国の”飼い主”が切り替わる契機は1889年のパン=アメリカ会議とされており,少なくともその時点までは明確にイギリスである。当初から保護権を訴えたものと解釈すると,この点で矛盾が生じてしまう。ただし,モンロー宣言の中に将来的に読み替えることができるだけの余地があえて作られていたことまでは否定しない(後述)し,当初からラテンアメリカに興味関心があったと言うことはできる。ちなみに日本語版Wikipediaは誤解された解釈をとっている。oh......

無論,これだけのことを書けというのは記事を冗長にしろと言っているようなもので,それは私も勧めないが,それにしてもモンロー宣言の一言も無いのは首を傾げるところだ。「ボストン茶会事件」を出すならよほどこっちだろう。また,アメリカの世界の警察論をちゃんと語るなら,本当はジャクソニアン・デモクラシーや明白な天命論あたりに触れたほうがいいわけだが,話が拡散するのでここではしない。というか別の人がしてくれるはずです(他力本願)。


2.アメリカは世界恐慌を契機に孤立主義へ回帰した?
アメリカはモンロー宣言後,順調に国内開拓を進めていた。その間には南北戦争やフランスのメキシコ出兵があったがここではおいておく(後者はモンロー宣言が実効力を示した初の出来事だ)。そして1890年,「(国内)フロンティアの消滅宣言」を行う。こうしてようやくアメリカの対外進出が始まる。最初の干渉の方向はカリブ海と太平洋・アジアであった。前述のWikipediaでは「ここでモンロー宣言は破棄された」と書いているが,これは完全に意義を取り違えている。「大西洋間の不干渉」なのだから,太平洋・アジア方面はモンロー宣言の適用範囲外だ。ただし,拡大解釈がなされて宣言の目的が読み替えられてはいるのは確かだ。国力増大を背景に,モンロー宣言はアメリカ合衆国によるラテンアメリカ覇権の正当化に読み替えられた。ラテンアメリカ保護者の地位をイギリスから奪ったのである。本当はここでジョン・ヘイの門戸開放宣言にも言及したほうがいいのだが,それこそ冗長になるので避ける。ともかく,アメリカはモンロー主義を維持したまま,ラテンアメリカや太平洋・アジアへの進出(侵略でもいいが)を強めていった。

そこでWW1とウィルソン主義が,モンロー主義の例外を生んだのは確かである。が,ポイントは戦後すぐに孤立主義に戻っていることだ。国際連盟への不参加は,直接的には共和党の反対,つまり国内の政党間の争いが原因だが,その後世界恐慌までアメリカ大統領は共和党から選出され続けることになる。アメリカ世論自体が孤立外交への回帰を希望しており,ウィルソンが例外であった。戦間期のアメリカは徹底したモンロー主義だ。太平洋・アジアに対しては主導的にワシントン会議を開いて利害を調整したが(私はワシントン会議を日本いじめと評価する向きは不当だと思う),ヨーロッパへはWW1で生じた債権の回収に必死であっただけだ。ドーズ案・ヤング案はこの向きで理解されうる。すなわち,アメリカの民間資本をドイツに注入することでドイツ経済を回復させ,賠償金が滞りなく英仏に支払われることで,ようやく英仏から債権を回収できた。

世界恐慌の発生は,このドイツへ投資したアメリカ民間資本の引き上げを意味した。そうして世界恐慌はアメリカからヨーロッパへ,そして世界へ拡散していく。しかし,これはあくまで経済的な話であって,ここを孤立主義外交への転換点としてピックアップする意味はほとんど無いと思う。


3.アメリカがシリアの独立と国境画定にかかわってたって本当?
正確に引用すると「なぜなら第一次大戦の戦後処理の過程で、異教徒同士を無理矢理ひっつけて、シリアという国の線引きをしたことに、アメリカも一枚噛んでいたからです」である。疑問形にしたのは,私自身ここら辺の専門家というわけでは全く無いので,否定しきれないからである。しかし,少なくとも一般的な解釈で言えば疑問符のつくところなのは間違いないと思う。

さて,話をシリアに向ける。問題の根本は中東一体を支配していたオスマン帝国の戦後処理について,イギリスが戦中に,交渉相手別に三枚舌を使った外交をしていた点である。これが大戦末にロシア革命を起こしたソヴィエト政権によって暴露されてしまい,戦争協力の見返りに独立の約束をされていたアラブ人の不満が爆発,イギリスは窮地に陥った。ウィルソンの平和十四箇条の第一条にわざわざ「(帝国主義的な)秘密外交の禁止」とあるのはこれが理由である。一方,元記事が挙げている第十二条は,確かにオスマン帝国支配下の民族独立を挙げてはいるが,その周囲の条項を見ると「バルカン半島問題の解決」や「ポーランドの独立」,「イタリア国境の調整」などが挙げられており,中東のプライオリティが特別に高かったわけではない。さらに言えばこれもソヴィエト政権が先回って「平和に関する布告」を発表して民族自決を訴えているのに対し,植民地に対する共産主義勢力の影響力拡大を防ぐため,資本主義国家の側からもそうした発表を出さざるを得なくなった,という事情がある。英仏では持っている植民地が膨大すぎるため無理であった。一方,大規模な植民地はフィリピンくらいしかないアメリカは言いやすかった。

そして十四箇条通りにアメリカが動いたかというとそうではないのは指摘済だが,一応中東に話を限って具体的に見ておく。結局「アラブ人の独立国家建設」と「ユダヤ人のナショナル・ホーム建設」,「英仏露による中東の分割」という3つの戦後処理方針が衝突した結果,「中東地域は独立の準備が整っていないという名目で国際連盟預りとし,国際連盟が英仏に統治を委任した」という形式での,英仏の勢力圏となった。シリアはフランスの委任統治領となったが,当初は現在よりも北側に膨らんでいた。これはオスマン帝国と連合国の講和条約セーヴル条約によるものであった。しかし後の国父ムスタファ・ケマルがセーヴル条約締結を認めず,失地を大きく回復した上でトルコ共和国を樹立し,改めて講和条約を結び直した。これがローザンヌ条約になる。ローザンヌ条約によりフランスの委任統治領は少し削られ,こうして現在の国境線を画定した。

というわけで見ていくと,そもそもアメリカって国際連盟加盟してないよね,という時点で委任統治領の範囲策定にかかわれるわけがないで終わりと言えば終わりなのだが,ついでに言えば私の確認した範囲ではセーヴル条約・ローザンヌ条約両条約の締結国にアメリカは入っていない(セーヴル条約の条文はこちらローザンヌ条約はこちら)。一応,セーヴル条約ではアルメニアの国境画定にウィルソンからの言及があり,ローザンヌ条約ではアメリカから派遣された代表がトルコ側の擁護に立っていたようだが,シリアはやはり無関係のように見える。本当はアメリカがかかわっていたのなら,詳しい人がそう解説してくるのを待ちたいところだ。ついでにこれもWikisourceだが,平和十四箇条の原文を見ても「Syria」の言葉はない。


4.トルーマン・ドクトリンには言及しなくていいの?
最後にコレ。まさか言及が無いとは思わなかった。「WW2がアメリカが世界に積極的にかかわっていかざるをえなくなった契機になった」というならまだしも,ホロコーストだけを挙げてウィルソン主義が復活したから,というのはあまりも理由が断片的すぎる。記事中にもある通りWW2においてアメリカは当初消極的な態度であったが,真珠湾にヨーロッパ第二戦線形成と,強制的に参加させられていった(少なくとも表面上は)。「民主主義の兵器廠」を名乗ったあたりは確かにウィルソン主義的な考え方も見えるが,あくまで”兵器廠”であって直接参戦を示唆したものではない。ここにおいてもアメリカはいまだ巻き込まれた側には違いないのであって,自分から日本やドイツに宣戦布告したわけではないのだ(少なくとも表面上は,と注記しなくてもいいか)。

一方戦後のアメリカは引き続いて冷戦にもかかわっていくことになるが,こちらで”巻き込まれる”という表現は中立的ではあるまい。よって,ここでトルーマン・ドクトリンは大きな意味を持つ。なぜならあれは「アメリカ合衆国がソ連封じ込め政策を取る上で,”積極的に”トルコとギリシアを防衛する」,すなわち「巻き込まれるくらいなら先んじて西側国家の防衛・拡大をする,それがヨーロッパであっても」という宣言なのだ。トルーマン・ドクトリンはこの点でモンロー宣言の撤回が明確である。その積極性でも,”ヨーロッパ”という点でも。仮にWW2を「アメリカが他の主要国の水準で国際社会にかかわりを持つようになった」契機として強調するにしても,「世界の警察」と化した契機はやはりトルーマン・ドクトリンではないか。ついでに言えばアメリカが積極的な外交姿勢になったのは冷戦が大きな理由であって,人権や民主主義が前面に出てきたというわけでもないと思うのだが,どうだろうか。

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この記事へのコメント
はじめまして。いつも記事を拝見させていただいています。
稚拙な文章ではありますが、どうかご容赦ください。

>>「世界の警察」と化した契機はやはりトルーマン・ドクトリンではないか。

 この意見に賛同させていただきます。
 論の補強として島田眞杉氏が、1947年3月12日にトルーマン大統領がギリシア・トルコ援助法案を議会に提出する際に「武装した少数派、または国外からの圧迫による制服の企みに抵抗している自由な諸国民を支援することが、アメリカの政策でなければならない」と説明したことを引用し、自由主義国の防衛に幅広く介入する可能性をはじめて示唆、アメリカの介入で秩序維持をはかる方向への転換を示した、と論じていることを挙げさせていただきます。

 個人的には、表題の
「世界の民主主義を守るためにアメリカは立ち上がらないといけない」この傲慢な発想はどこから来たのか?
 というのは、アメリカ建国当時のカルヴァン主義的な「丘の上の町」の理念が、「明白な運命」論が米国の拡大に援用されていったのと同時に、米国の使命感の核になった。
 結局、移民国家たるアメリカ=国民という等式が成り立てば、アメリカは善であり、民主主義を広めるのはアメリカの使命だ! という考え方がいまでも主流なのであろう。
わお! とっても独善的!!
……的な、よくある解答になってしまうのでは、と思います。

 この下地が、トルーマン・ドクトリンの積極外交の姿勢に加わって、現在のアメリカの外交のあり方となっているのではないでしょうか。
Posted by Ei Yakoh at 2013年09月17日 23:17
言われて気づいたんですが,今回の参照元の一つに山川の各国史があるので,氏の書いた部分かもしれませんね。>島田眞杉氏
今回,かなり教科書通りの解説をしたつもりです。


>個人的には、表題の〜〜
表題に対して答えるなら,やはりそこら辺に切り込む必要が出てくるかと思います。
本稿では思いっきり避けて(他力本願)にしましたがw
これについては「ローズヴェルトやトルーマンは,国民を納得させるために,わかっていて強い言葉を使ったのではないか」という指摘もあります。
http://d.hatena.ne.jp/maukiti/20130915/1379247328
Posted by DG-Law at 2013年09月18日 17:31