2013年09月25日
第226回『チェーザレ・ボルジアを知っていますか?』モーニング編集部,講談社
漫画『チェーザレ』の副読本。内容はルネサンスに至るまでのヨーロッパ史・イタリア史概説,キリスト教カトリック・ローマ教皇庁の簡単な紹介,ルネサンス期のローマ・教皇庁の紹介,ルネサンス期の国々・都市・人名・名家の事典,最後にチェーザレ縁の地の観光案内と,なぜかワイン・関連書籍・ドラマの紹介が入って終わる。内容は,一つ一つ見ていくと薄いところもあるが,多岐にわたっているのは間違いなく,最後の宣伝も含めてがんばって全部網羅しているというところはある。軽くここまでのおさらいをするにはこれで良かろう。
ただし,多くのチェーザレファンが本当に「軽く」を求めていたかは疑問である。もっとがっつり深く掘り下げたものを,どちらかというと期待していた。また今後の展開のネタバレを不自然に避けていることによって一々中途半端に終わっているところも気になった。たとえばジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世に即位することは明記されているのに,ロドリーゴ・ボルジアの項目ではアレクサンデル6世に即位したことが書かれていない。どうもちぐはぐである。史実を追っているのだから,そうむきになってネタバレを回避しなくても良かったのではないか。
そうしたややこしい処理をしつつ,かつ膨大な情報を取り扱ったせいか,初版は多くの誤字・誤謬がある(2版以降があるのかどうかは知らない)。誤解というよりは誤字・誤謬と言ったほうがいいミスばかりだったので,そこは原基晶がちゃんと監修しているのだろう。一読して私の気がついた範囲で一覧に示しておくので(amazonの後段),買われた方は参考にしてほしい。
ただし,多くのチェーザレファンが本当に「軽く」を求めていたかは疑問である。もっとがっつり深く掘り下げたものを,どちらかというと期待していた。また今後の展開のネタバレを不自然に避けていることによって一々中途半端に終わっているところも気になった。たとえばジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世に即位することは明記されているのに,ロドリーゴ・ボルジアの項目ではアレクサンデル6世に即位したことが書かれていない。どうもちぐはぐである。史実を追っているのだから,そうむきになってネタバレを回避しなくても良かったのではないか。
そうしたややこしい処理をしつつ,かつ膨大な情報を取り扱ったせいか,初版は多くの誤字・誤謬がある(2版以降があるのかどうかは知らない)。誤解というよりは誤字・誤謬と言ったほうがいいミスばかりだったので,そこは原基晶がちゃんと監修しているのだろう。一読して私の気がついた範囲で一覧に示しておくので(amazonの後段),買われた方は参考にしてほしい。
誤字,及び気になった箇所一覧
一読して気づいた箇所だけなので,もっとちゃんと読めばまだあるかも。私もさすがに誤字探しのためだけにもう一周読む気はしないし,そもそも私は中世・近世ヨーロッパ史の専門家でもなんでもないので,何か見つけた人はコメント欄にでも。指摘自体がおかしい場合も。
p.26:タイトルのA.D.37>>A.D.392 → B.C.37の誤り
本文では「紀元前37年」と書いてある。ただ,これはこれでよくわからない。本文にある通りヘロデ大王が即位した年だが,それがローマやキリスト教にとっての392年並の重大事だったかというと疑問だ。ちなみにA.D.37年は輪をかけて関係ない,カリグラの即位年。
p.41:1481年 オスマン・トルコ皇帝ムハンマド2世死去 → メフメト2世とすべき
これはまずいでしょう。ついでに言えば,オスマン・トルコも今どきは「オスマン帝国」としたほうが適切ではなかろうか。
p.41:1486年 ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァにてアンジュー家のルイ2世にイタリア侵攻を要請するが失敗 → ??
おそらく別の家。アンジュー家自体が極めて多岐にわたる家系なので特定しづらいが,イタリア関係でルイ2世というと先に出てくるのはアンジュー公ルイ2世であろう。この人の生没年は1377-1417のようなので(深くは調べてない),この人を指したいわけではあるまい。いろいろ調べてはみたが,該当する年代に生きているルイ2世が「ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ(トラモイユ)」しか発見できなかったので,おそらくこの人であろう。で,この人にアンジュー家の血が入っているかどうかはさすがに調べる気力が無かった。いずれにせよ,ここで「アンジュー家」という表記は誤解を生むのでやめたほうがいい。どちらかというと特筆すべきは,この人チェーザレ・ボルジアの娘ルイーザ・ボルジアと結婚している模様。
p.63:(神聖ローマ)皇帝のヒエラルキーの,皇帝>司教・辺境伯>公爵>侯爵という順番
これは本当に浅学で知らないのだが,司教・辺境伯が公爵(たとえばバイエルン公とか)よりもヒエラルキー上だったという根拠は何に基づいているのか。
p.78:下段12行目,選帝公 → 選帝侯
p.79:下段最後から12行目,16世紀半ば → 17世紀半ば
三十年戦争の期間は1618〜48年。
p.83:下段最後の行,絶対王制 → 絶対王政
絶対王政は統治システムであって,制度ではないのでそちらの字は使わないのが普通だと思われる。
p.84:存続期間:1469年〜 → 1479年〜
p.48の年表では1479年扱いになっているので,統一したほうが。1469年はフェルナンドとイサベルの結婚年なので,将来の合邦という点では間違ってない。もう一つ細かいことを言えば,スペイン王国は一度断絶しているが(1931〜75),現在までずっと続いていることになっている。これはまあ……いいか。
p.108:縁の地:ローマガンディア、マラガ →ローマ、ガンディア、マラガ
p.131:ルクレツィア・ボルジアの性別が男性 → 女性
p.142:ハプスブルク家の説明最後から6行目,12世紀より低迷の時代を迎える〜 → 14世紀
12世紀ではルドルフ1世即位前になってしまう。
一読して気づいた箇所だけなので,もっとちゃんと読めばまだあるかも。私もさすがに誤字探しのためだけにもう一周読む気はしないし,そもそも私は中世・近世ヨーロッパ史の専門家でもなんでもないので,何か見つけた人はコメント欄にでも。指摘自体がおかしい場合も。
p.26:タイトルのA.D.37>>A.D.392 → B.C.37の誤り
本文では「紀元前37年」と書いてある。ただ,これはこれでよくわからない。本文にある通りヘロデ大王が即位した年だが,それがローマやキリスト教にとっての392年並の重大事だったかというと疑問だ。ちなみにA.D.37年は輪をかけて関係ない,カリグラの即位年。
p.41:1481年 オスマン・トルコ皇帝ムハンマド2世死去 → メフメト2世とすべき
これはまずいでしょう。ついでに言えば,オスマン・トルコも今どきは「オスマン帝国」としたほうが適切ではなかろうか。
p.41:1486年 ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァにてアンジュー家のルイ2世にイタリア侵攻を要請するが失敗 → ??
おそらく別の家。アンジュー家自体が極めて多岐にわたる家系なので特定しづらいが,イタリア関係でルイ2世というと先に出てくるのはアンジュー公ルイ2世であろう。この人の生没年は1377-1417のようなので(深くは調べてない),この人を指したいわけではあるまい。いろいろ調べてはみたが,該当する年代に生きているルイ2世が「ルイ2世・ド・ラ・トレムーユ(トラモイユ)」しか発見できなかったので,おそらくこの人であろう。で,この人にアンジュー家の血が入っているかどうかはさすがに調べる気力が無かった。いずれにせよ,ここで「アンジュー家」という表記は誤解を生むのでやめたほうがいい。どちらかというと特筆すべきは,この人チェーザレ・ボルジアの娘ルイーザ・ボルジアと結婚している模様。
p.63:(神聖ローマ)皇帝のヒエラルキーの,皇帝>司教・辺境伯>公爵>侯爵という順番
これは本当に浅学で知らないのだが,司教・辺境伯が公爵(たとえばバイエルン公とか)よりもヒエラルキー上だったという根拠は何に基づいているのか。
p.78:下段12行目,選帝公 → 選帝侯
p.79:下段最後から12行目,16世紀半ば → 17世紀半ば
三十年戦争の期間は1618〜48年。
p.83:下段最後の行,絶対王制 → 絶対王政
絶対王政は統治システムであって,制度ではないのでそちらの字は使わないのが普通だと思われる。
p.84:存続期間:1469年〜 → 1479年〜
p.48の年表では1479年扱いになっているので,統一したほうが。1469年はフェルナンドとイサベルの結婚年なので,将来の合邦という点では間違ってない。もう一つ細かいことを言えば,スペイン王国は一度断絶しているが(1931〜75),現在までずっと続いていることになっている。これはまあ……いいか。
p.108:縁の地:ローマガンディア、マラガ →ローマ、ガンディア、マラガ
p.131:ルクレツィア・ボルジアの性別が男性 → 女性
p.142:ハプスブルク家の説明最後から6行目,12世紀より低迷の時代を迎える〜 → 14世紀
12世紀ではルドルフ1世即位前になってしまう。
Posted by dg_law at 23:30│Comments(0)│