2013年10月07日

第227回『マグダラのマリア』岡田温司著,中公新書

本書の構成は大きく2つである。1つはマグダラのマリア像の形成過程,もう1つはマグダラのマリア信仰の変遷である。

マグダラのマリアはキリスト教カトリックでは重要な聖女であるが,他の教派ではそうでもない。なぜなら,『聖書』における彼女の活躍は,実は描写が少ない。残りの「設定」,つまりマルタ・ラザロの妹であったり娼婦であったりするするのは後世のカトリック教会による後付に過ぎないからだ。確かにその数少ない描写は,イエスの復活に最初に気づいた人であり,いわゆるノリ・メ・タンゲレの場面であるから,重要には違いない。が,そこだけなのである。残りの設定は元々,「別のマリア」(ベタニアのマリア,罪深い女)のものであったが,カトリック教会はあえて同一視を進めた。この後付がなぜ,どのように行われたのかを見ていくのが第1章である。

残りのすべて,つまり第2章から第4章はマグダラのマリア信仰の変遷を扱っている。当初のマグダラのマリアは悔悛する姿が強調された。最も罪深い娼婦であっても,深く悔悛すれば救われる代表例などとして扱われた。ゆえに,彼女は地味な描かれ方であった。ところがルネサンスが到来した頃から,「元は娼婦なんだから着飾ってる美女で当然」,「いつかは悔悛すればいいのだから若い内は人生を楽しんで良いというのがマグダラのマリアの教訓」という論理の転倒が行われ,実在の高級娼婦や有力者の愛人をモデルに,きらびやかにも自慢の金髪をたなびかせるマグダラのマリアが量産されていった。その後,宗教改革・反宗教改革の流れで服装自体は地味になるが,一方で金髪美女の設定は残る。そしてバロック期に今度は「聖女だから,悔悛後・苦行後でも美しさは失われない」という理屈が加わり,さらにアビラのテレサに代表される「法悦」の概念も強調されていく。

結果としてさまざまな要素が合体し,「服はボロだけど金髪美女がなんか恍惚として香油の壺かドクロを持ってる」という,我々のよく見るマグダラのマリア像が完成した。金髪美女のエロティックな姿を描く良い口実になっていったのである。本書はこれらの流れを,中世から近世にかけての絵画作品や当時の知識人たちの文章を引用して,詳細に追っている。特に図版が多く,図版自体がマグダラのマリア像の変遷をよく示しているので,非常にわかりやすい。中世→ジョット→ボッティチェリ→ティツィアーノ→グイド・レーニと見ていくと,想像以上にイメージがころころと変わっているのがわかり,おもしろい。


ところで,本書のあとがきではマグダラのマリアが登場するフィクションが多く挙げられており,創作の良い種になっていることが説明される。しかし,『ダ・ヴィンチ・コード』について一切触れられていない。本書の初版が2005年で,『ダ・ヴィンチ・コード』は2003年に英語版,2004年に日本語版であるから,挙げようと思えば挙げられたはずである。加えて言えば,2004年の映画『PASSION』は挙げられていた。というよりも,マグダラのマリアをキリストの妻として扱った作品は一切挙げられていない。著者としては,その説だけはない,ということなのだろうか。





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