2013年10月30日
love is blind ―まどか☆マギカ劇場版[新編]感想・考察 ※ネタバレ
どうにもまとまらないので,箇条書き的に。完全ネタバレなので,折りたたむ。
・最初に整理として。悪魔ほむらさんがやったことは,円環の理から女神まどかの一部(生前の記憶含)を切り離して奪い,現世に人間まどかとして再臨させたこと。だから円環の理自体は生きてて,魔女じゃなくて魔獣。ほむらも「魔獣がいなくなってから,世界を滅ぼすかどうか考える」と言っている。ただし,この人間まどかは完全に女神のほうと切れているわけではなくて,何かの拍子で女神だったことを思い出しそうな,不安定な状態。
→ ほむらには,まどかを手に入れたいという個人的欲求に歯止めをかけていた,「それはまどかの思いに背く」という理由が,花畑での会話で粉砕されていた。これが決定的な理由なので,清く正しい闇堕ちと言ってよかろうかと。
・でもこれ,不安定なのと,全容を知っている視聴者の後味悪さを除けば,そんなに悪い世界じゃない。というか,与えられたインパクトほど,ほむらは大改変をしたわけではない。QBがいつかはまどかの存在に気づいて支配しようとするだろうから,その意味で,ほむらのやったことは正解。彼女は私欲だけであの選択をしたわけではない。この世界の諸悪の根源,QBを支配下に置いてしまったという点では,まごうことなきグッドエンドであろう。ただ,またほむらさん一人で世界の問題点を抱え込んじゃったという話でもあるが。
→ まごうことなきグッドエンドのはずなのに,ものすっごい後味悪いのが本作のミソで,その辺のカタルシスがとても楽しい映画だったと思う。
・なんで女神まどかに介入できるほどの力を得てしまったのかといえば,本人は「愛」と申しておりましたが,端的に言えば魔女として孵化せず,特殊な空間のまま呪いを溜め込むだけ溜め込んだからでしょう。そこから,まどかが接近するまで自我を保った根性は「愛」としかよびようがないけれど。
→ それはそれとして,「呪いを溜め込んだらまどかに会えるんだから,ほむらにとって呪いは絶望ではない=ほむらにとってはシステムが根幹から崩れている=それが「愛」」という解釈も嫌いじゃない。
・ただ,ほむらが一つ落としてるのは,TV版というのはまどかの精神的な成長期間であったということで。ほむらの結界内に入って,記憶を改竄されたまどかは,果たしてTV版11・12話時点のような精神的な強さを持っていたかは疑問である。少なくとも11・12話のまどかは,自己犠牲をかなり受け入れていたような気がしたが。あるいは,免罪符の欲しかったほむらは,あえてそのことに気づかない振りをしたか。同様に最後のシーンでまどかに「秩序を壊すのは良くない」と言われてショックを受けているが,あのまどかと,女神にまでなった記憶のあるまどかでは,ほむらにかける言葉も違うのではなかろうか。ほむらさん,まどかの同質性にこだわりすぎて自滅しているような。ぶっさんがパンフで「ほむらも成長しているのです」と言っていて,それは確かだと思う。周囲を信頼して動けるようになった。ただ,にもかかわらず他者の成長には無頓着と言おうか,まどかのことが好きすぎて,理想化しすぎていて,盲目になっている。潔癖症的。
→ 追記:この「潔癖症」というほむらの欠点は,パンフレットで声優のお二人が指摘していた。やっぱりそうだよね。
・ここでロリババア好きとして言わせてもらうと,ほむらさんもそういう属性に片足つっこんでいて,むしろデビル化したことで完全にそうなったかなと。時間経過による老成と,肉体が変わらないことによる幼さの名残。それらが生むアンバランスが大変に美しいポイントで。正直に申し上げて悪魔ほむらさん割りとド直球です。大変にお美しい。こんな美しい存在が誕生しただけでも本作は名作。
→ pixiv百科事典で指摘されていたが,これでやっと虚淵ヒロインとして完成された感もある。この辺はかな文字一刀流ネ右さんがテレビ放映後に書いていた記事も参考にしたい:魂を漁る少女−暁美ほむらの系譜−(凍てつくが如く、哀槌を鍛つ)
・これで女神まどかは,まどかという人格と,円環の理というシステムに分離させられた。円環の理で一番大きく変わったとすればおそらくここで,これまではソウルジェムが濁りきったら,まどかが現れて迎えに来た(まさにほむらの時のように)のだと思う。それが,どこからともなく,音もなく汚れが回収されていく感じに。味気ない。まさに,ほむらがまどか(の人格の部分)を独占した。他の誰もみとらせない,という。これ,まどかからすると,慈愛の象徴としての円環の理だったのに,完全な概念にさせられて,すごい不本意だと思う。みとってあげる,というのが彼女のやりたかったことなわけである(「この手で」って言ってるし)。参考として,拙文:キリエ・エレイソン(2) −魔法少女まどか☆マギカの私的解釈・感想
→ 加えて言うと,ほむらはまどかしか見えてないが,まどかは全魔法少女が対象の慈愛だった。新編映画前から指摘されていたが,まどほむは本当にすれ違いだ。が,不本意に感じるはずのまどかさんの人格は,自分が女神だったこと含みで忘れているという。
・前出の記事の通り,このブログではテレビ放映後の考察にキリスト教を用いていたが,キリスト教モチーフ全開だったTV版に比して,本作はキリスト教的文脈からは巣立っている。その上であえてネタにするなら,「従来は人間であるまどかと円環の理というシステムは同質不可分であったが,実際には可分であった。すなわちネストリウス派大勝利」という電波が降ってきた。特にオチはない。
→ これ,続編作れる。パンフにもそう書いてあるけど,作りうるオチ。第三世界であーだこーだは行ける。まどかとほむらの最終決着を。自分が神の子であることを忘れてしまったジーザスに未来はあるのか。続編に期待。(探せば,本家キリスト教文学で間違いなくそういう小説あると思うが……)
なんのかんので,まどかさんは優しすぎるので,ほむらのことを許すんじゃないかなぁ。と,私は思っとります。
→ ほむらには,まどかを手に入れたいという個人的欲求に歯止めをかけていた,「それはまどかの思いに背く」という理由が,花畑での会話で粉砕されていた。これが決定的な理由なので,清く正しい闇堕ちと言ってよかろうかと。
・でもこれ,不安定なのと,全容を知っている視聴者の後味悪さを除けば,そんなに悪い世界じゃない。というか,与えられたインパクトほど,ほむらは大改変をしたわけではない。QBがいつかはまどかの存在に気づいて支配しようとするだろうから,その意味で,ほむらのやったことは正解。彼女は私欲だけであの選択をしたわけではない。この世界の諸悪の根源,QBを支配下に置いてしまったという点では,まごうことなきグッドエンドであろう。ただ,またほむらさん一人で世界の問題点を抱え込んじゃったという話でもあるが。
→ まごうことなきグッドエンドのはずなのに,ものすっごい後味悪いのが本作のミソで,その辺のカタルシスがとても楽しい映画だったと思う。
・なんで女神まどかに介入できるほどの力を得てしまったのかといえば,本人は「愛」と申しておりましたが,端的に言えば魔女として孵化せず,特殊な空間のまま呪いを溜め込むだけ溜め込んだからでしょう。そこから,まどかが接近するまで自我を保った根性は「愛」としかよびようがないけれど。
→ それはそれとして,「呪いを溜め込んだらまどかに会えるんだから,ほむらにとって呪いは絶望ではない=ほむらにとってはシステムが根幹から崩れている=それが「愛」」という解釈も嫌いじゃない。
・ただ,ほむらが一つ落としてるのは,TV版というのはまどかの精神的な成長期間であったということで。ほむらの結界内に入って,記憶を改竄されたまどかは,果たしてTV版11・12話時点のような精神的な強さを持っていたかは疑問である。少なくとも11・12話のまどかは,自己犠牲をかなり受け入れていたような気がしたが。あるいは,免罪符の欲しかったほむらは,あえてそのことに気づかない振りをしたか。同様に最後のシーンでまどかに「秩序を壊すのは良くない」と言われてショックを受けているが,あのまどかと,女神にまでなった記憶のあるまどかでは,ほむらにかける言葉も違うのではなかろうか。ほむらさん,まどかの同質性にこだわりすぎて自滅しているような。ぶっさんがパンフで「ほむらも成長しているのです」と言っていて,それは確かだと思う。周囲を信頼して動けるようになった。ただ,にもかかわらず他者の成長には無頓着と言おうか,まどかのことが好きすぎて,理想化しすぎていて,盲目になっている。潔癖症的。
→ 追記:この「潔癖症」というほむらの欠点は,パンフレットで声優のお二人が指摘していた。やっぱりそうだよね。
・ここでロリババア好きとして言わせてもらうと,ほむらさんもそういう属性に片足つっこんでいて,むしろデビル化したことで完全にそうなったかなと。時間経過による老成と,肉体が変わらないことによる幼さの名残。それらが生むアンバランスが大変に美しいポイントで。正直に申し上げて悪魔ほむらさん割りとド直球です。大変にお美しい。こんな美しい存在が誕生しただけでも本作は名作。
→ pixiv百科事典で指摘されていたが,これでやっと虚淵ヒロインとして完成された感もある。この辺はかな文字一刀流ネ右さんがテレビ放映後に書いていた記事も参考にしたい:魂を漁る少女−暁美ほむらの系譜−(凍てつくが如く、哀槌を鍛つ)
・これで女神まどかは,まどかという人格と,円環の理というシステムに分離させられた。円環の理で一番大きく変わったとすればおそらくここで,これまではソウルジェムが濁りきったら,まどかが現れて迎えに来た(まさにほむらの時のように)のだと思う。それが,どこからともなく,音もなく汚れが回収されていく感じに。味気ない。まさに,ほむらがまどか(の人格の部分)を独占した。他の誰もみとらせない,という。これ,まどかからすると,慈愛の象徴としての円環の理だったのに,完全な概念にさせられて,すごい不本意だと思う。みとってあげる,というのが彼女のやりたかったことなわけである(「この手で」って言ってるし)。参考として,拙文:キリエ・エレイソン(2) −魔法少女まどか☆マギカの私的解釈・感想
→ 加えて言うと,ほむらはまどかしか見えてないが,まどかは全魔法少女が対象の慈愛だった。新編映画前から指摘されていたが,まどほむは本当にすれ違いだ。が,不本意に感じるはずのまどかさんの人格は,自分が女神だったこと含みで忘れているという。
・前出の記事の通り,このブログではテレビ放映後の考察にキリスト教を用いていたが,キリスト教モチーフ全開だったTV版に比して,本作はキリスト教的文脈からは巣立っている。その上であえてネタにするなら,「従来は人間であるまどかと円環の理というシステムは同質不可分であったが,実際には可分であった。すなわちネストリウス派大勝利」という電波が降ってきた。特にオチはない。
→ これ,続編作れる。パンフにもそう書いてあるけど,作りうるオチ。第三世界であーだこーだは行ける。まどかとほむらの最終決着を。自分が神の子であることを忘れてしまったジーザスに未来はあるのか。続編に期待。(探せば,本家キリスト教文学で間違いなくそういう小説あると思うが……)
なんのかんので,まどかさんは優しすぎるので,ほむらのことを許すんじゃないかなぁ。と,私は思っとります。
Posted by dg_law at 23:33│Comments(2)
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「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ新編/叛逆の物語」を観る。面白かった。テレビシリーズ視聴済み。 平日シネコン最終上映1200円。客の入りは50人弱くらいか。 21:50に予告編含め暗くなり、23:59に明るくなった。エンドロールの後にも映像あり。 パンフ1000円購入可能。ネタ
[映画]【懐柔する怪獣】at 2013年11月06日 17:09
この記事へのコメント
人間としてキリストについて描いた物語なら「最後の誘惑」当たりを想い出しますね。この当たりは例の「ユダの福音」にまつわるイエスとユダのすり替わり伝説(当のイエス自身はマグダラのマリアと幸せにー人間として暮らしましたとさ)と,十字架でのキリストの言葉の福音書による違い「主よ何故私を見捨てられたのだ」「全てがこれで成就した」に掛けた話です。
SSの中で続編として人間まどかの登場をキリストの歴史上における受肉に掛けた話がありますね。【神の子の物語】
それとオーソドックな続編話だけど,円環軍に負けた暁美ほむらに「この世界を作ってくれて、わたしにもう一度人生をくれて……ありがとう。本当に……ありがとう、ほむらちゃん」とまどかが言う話ほむら【私は今まで、間違えてばかりだった】当たりが好きだったりします
SSの中で続編として人間まどかの登場をキリストの歴史上における受肉に掛けた話がありますね。【神の子の物語】
それとオーソドックな続編話だけど,円環軍に負けた暁美ほむらに「この世界を作ってくれて、わたしにもう一度人生をくれて……ありがとう。本当に……ありがとう、ほむらちゃん」とまどかが言う話ほむら【私は今まで、間違えてばかりだった】当たりが好きだったりします
Posted by 徳永基二 at 2014年04月16日 21:34
人間としてのキリストを描いた作品はあると思うんですが,「自分が神の子であることを忘れてしまった」ことまで含めるとやっぱり難しいですかね。
【神の子の物語】読みました。すごいですねこれ。
まどかにイエス本人をなぞらせるための仕掛けがよく練ってあると思います。おもしろかったです。
【神の子の物語】読みました。すごいですねこれ。
まどかにイエス本人をなぞらせるための仕掛けがよく練ってあると思います。おもしろかったです。
Posted by DG-Law at 2014年04月17日 23:39