2013年11月12日
趣味の高低,あるいは価値の高低について
某所で起こった案件について,片方の方にちょっと言いたいことがあったので,ブコメを書いた後に「たまには記事本体にコメントしようかな」と思っていた。が,いつの間にか該当記事が非公開となり,さらにご本人がネット活動を停止宣言されるというスピード展開に乗り遅れた。もうお一方のブログの記事の方にコメントするのも,話の主旨が記事本体と違いすぎてためらわれ,かと言ってどこにも何も書かないのも自分の精神衛生上悪く,結果自分のブログに軽く,多少なりとも一般化して書いて済ませてしまうことにした。というわけで,特に私のはてブを追っているわけでもない人は何が何だかわからないと思うが,以下,文脈のわかる人だけお読みください。
さて,まず趣味が高尚であるか低俗であるかは,個人差があるようでそれなりに社会的共通の理解があると思われる。私のブログのサブタイトルに趣味を4つ掲げてあるが,まあどう考えてもエロゲが一番「低俗」であろう。重要なことはそこではなく,次の2点だ。それでも趣味の高低を判断する基準は案外と難しいということと,「低俗」であること自体は問題でなく,それが「無価値(低価値)」と言い換え可能な使われ方をしたときに,いさかいが生じるということ。
趣味の高低の基準について。もちろんブルデューを出して「社会的に決まってんだからしょうがない」で以上終了というのもありだが,これは一種のトートロジーであって何の解決にもなっていない。加えて言えば,低俗が無価値の意味で使われた場合には,「お前は価値の高低さえも社会に決めてもらうか」という話になり,とても情けないことになる。
よくあるのは芸術性を担保にした上で,芸術性とは人間や自然,思想などを深く掘り下げて描写したものだ,とする立場だ。ただし,芸術という概念が崩壊した現代となっては,「人間を深く掘り下げて描写したもの」が即芸術と受け取られるかどうかは疑わしく,また,どこに「人間」を感じるかも普遍的ではない,というのも社会的通念になっているのではなかろうか。これをもって「良き趣味」を振りかざすのは少々難しい時代になっているのかもしれない。また,これはハイカルチャーが即芸術を指すわけでもなくなってしまったことを意味し,逆もまた然りだ。これを乗り越えてでも,厳密な趣味議論をしたいなら,すなわち,「趣味の高低の基準とは○○にある」という主張をしたいなら,美学の知識が必要になってくるであろう。カントを持ってくるなりヒュームを持ってくるなりガーダマーを持ってくるなり。少なくとも,私はそれだけの知識はないし意欲もない。ついでに言えば,私は「この点では」エロゲが低俗だとは思っていない。
次に,「文化とは創造と継承を繰り返す人為的な所産」という考え方があり,これは現代においても普遍的と言ってよいと思う。少なくとも私は賛同する。そして,「文化的な度合いが高い(古典が豊富など)=ハイカルチャー」であり,そうでないものは低俗である,という見方は可能である。しかし,この場合,どの創作分野において創造と継承は少なからずあり,しかも現代は世界史上人口も交流の密度も空前のものである。結果として,多くの新興分野で,短期間にそれなりの文脈は構築できてしまう。してみると,結局ハイカルチャーの「高さ」を担保するのは文脈の濃さというよりは歴史性・希少性と言ったほうが実は正しいのではないか,というのは案外と真実じゃないかと思う。ゆえに,ある歴史の短い文化に対して,文脈に深入りせず,一方的に無価値なものとみなせば大反論が来るのは当然であろう。電波ソングにだって,それなりに文脈はある。「創造と継承を繰り返す人為的な所産」と言える程度には。(まあ実は「はっぴぃ にゅう にゃあ」別に好きじゃないんだけど……)
それでも,芸術性でもなく,歴史性・希少性でもなく,高尚と低俗を分ける基準がなくはない。高低の基準は「形相」ではなく「質料」にあるとする立場をとればよい。表現されている人間性がいかに深かろうとも,性的にあけすけなものは低俗であるし,暴力的なものも低俗であろう。この点,エロゲはエロゲである以上,低俗とみなされるのは仕方がないし,反論する気もない。そりゃ電波ソングだって低俗だろう。ただまあ,「低俗ってことは価値が低いんじゃろ」と因縁付けられれば「じゃあてめぇはあらゆることを質料だけで判断するのかよ」と反論したくなるかもしれない。一方,私は「質料が形相を規定する(こともある)」「質料に特有の形相こそがおもしろい」という考え方を持っているので,形相至上主義は,それはそれで違和感がある。バランスが大事だよバランスが。
「高尚も低俗も無い」と言い切ってしまうのも,それはそれで一つの立場だと思うが,これはこれで「じゃあ社会との折り合いどうつけんの?」というところで,意外と困難な立場なんじゃなかろうかと。結局のところ,高尚と低俗自体はどうあっても存在するし,趣味の高低判断と価値の高低判断は全くの別物としか言えないわけだ。これがつまらない一般論と言いうるか否かは個人の判断によると思うが,一般論ではあるにせよ”つまらない”と言い切ってよいかどうか。私はそれなりに価値のある結論なんじゃないかなと思っている。
趣味の高低の基準について。もちろんブルデューを出して「社会的に決まってんだからしょうがない」で以上終了というのもありだが,これは一種のトートロジーであって何の解決にもなっていない。加えて言えば,低俗が無価値の意味で使われた場合には,「お前は価値の高低さえも社会に決めてもらうか」という話になり,とても情けないことになる。
よくあるのは芸術性を担保にした上で,芸術性とは人間や自然,思想などを深く掘り下げて描写したものだ,とする立場だ。ただし,芸術という概念が崩壊した現代となっては,「人間を深く掘り下げて描写したもの」が即芸術と受け取られるかどうかは疑わしく,また,どこに「人間」を感じるかも普遍的ではない,というのも社会的通念になっているのではなかろうか。これをもって「良き趣味」を振りかざすのは少々難しい時代になっているのかもしれない。また,これはハイカルチャーが即芸術を指すわけでもなくなってしまったことを意味し,逆もまた然りだ。これを乗り越えてでも,厳密な趣味議論をしたいなら,すなわち,「趣味の高低の基準とは○○にある」という主張をしたいなら,美学の知識が必要になってくるであろう。カントを持ってくるなりヒュームを持ってくるなりガーダマーを持ってくるなり。少なくとも,私はそれだけの知識はないし意欲もない。ついでに言えば,私は「この点では」エロゲが低俗だとは思っていない。
次に,「文化とは創造と継承を繰り返す人為的な所産」という考え方があり,これは現代においても普遍的と言ってよいと思う。少なくとも私は賛同する。そして,「文化的な度合いが高い(古典が豊富など)=ハイカルチャー」であり,そうでないものは低俗である,という見方は可能である。しかし,この場合,どの創作分野において創造と継承は少なからずあり,しかも現代は世界史上人口も交流の密度も空前のものである。結果として,多くの新興分野で,短期間にそれなりの文脈は構築できてしまう。してみると,結局ハイカルチャーの「高さ」を担保するのは文脈の濃さというよりは歴史性・希少性と言ったほうが実は正しいのではないか,というのは案外と真実じゃないかと思う。ゆえに,ある歴史の短い文化に対して,文脈に深入りせず,一方的に無価値なものとみなせば大反論が来るのは当然であろう。電波ソングにだって,それなりに文脈はある。「創造と継承を繰り返す人為的な所産」と言える程度には。(まあ実は「はっぴぃ にゅう にゃあ」別に好きじゃないんだけど……)
それでも,芸術性でもなく,歴史性・希少性でもなく,高尚と低俗を分ける基準がなくはない。高低の基準は「形相」ではなく「質料」にあるとする立場をとればよい。表現されている人間性がいかに深かろうとも,性的にあけすけなものは低俗であるし,暴力的なものも低俗であろう。この点,エロゲはエロゲである以上,低俗とみなされるのは仕方がないし,反論する気もない。そりゃ電波ソングだって低俗だろう。ただまあ,「低俗ってことは価値が低いんじゃろ」と因縁付けられれば「じゃあてめぇはあらゆることを質料だけで判断するのかよ」と反論したくなるかもしれない。一方,私は「質料が形相を規定する(こともある)」「質料に特有の形相こそがおもしろい」という考え方を持っているので,形相至上主義は,それはそれで違和感がある。バランスが大事だよバランスが。
「高尚も低俗も無い」と言い切ってしまうのも,それはそれで一つの立場だと思うが,これはこれで「じゃあ社会との折り合いどうつけんの?」というところで,意外と困難な立場なんじゃなかろうかと。結局のところ,高尚と低俗自体はどうあっても存在するし,趣味の高低判断と価値の高低判断は全くの別物としか言えないわけだ。これがつまらない一般論と言いうるか否かは個人の判断によると思うが,一般論ではあるにせよ”つまらない”と言い切ってよいかどうか。私はそれなりに価値のある結論なんじゃないかなと思っている。
Posted by dg_law at 01:09│Comments(0)│