2014年05月02日

第232回『貧しき人々』ドストエフスキー著,安岡治子訳,光文社古典新訳文庫

ドストエフスキーの処女作である。1845年,24歳のときに書かれたものだから非常に若い。彼の他の代表作というと『死の家の記録』が15年後の1860年,『地下室の手記』が1864年で,5大長編は全てその後になるから,かなり間が開いている。その理由は政治活動をしていたりシベリア送りになっていたり軍隊にいたりとせわしなく,小説を書いている場合ではなかったからだ。このシベリア送りの間に大きな思想的転換があり,その思想性への評価が彼を大作家たらしめている評価の一部と言える。一方,若い頃の作品は本作を除くとあまりメジャーではない。この文庫についている年表や解説でも,二作目以降は当時の評価が高くなかったことが書かれている。そういう意味では,この処女作だけが浮いているのである。

それを頭の片隅に置きつつ読むと,やっぱり私のイメージにあるドストエフスキーらしさは感じられなかった。キリスト教オチはどこ? 足の悪い女はいないの? という。特に前者についてはそこがまさにシベリア送りによる思想的転換なので,無くて当然ではあり,後者はひょっとしたら出てくるのかというちょっとした期待はあったが出てこなかった。あっちもシベリア送りの結果身についたものなのか。

そういう観点は横に置いとくと,心理描写の巧みさ,話の持って行き方の巧みさはさすがはドストエフスキーだなぁと思わせられた。解説にある通り,当時の流行の写実主義的な貧しい人たちの緻密な描写が続く小説だが,登場人物の行動や言葉の言い回しなどから,直接には表現されていない細かな感情の機微が見えてくる。特に主人公のマカールは貧しく教養も無く,卑屈ながら妙なところでプライドがある偏屈な壮年の男性である。読んでいくとどこが彼のプライドを傷つけるポイントなのか,読者にも次第にわかってくるからおもしろい。また,マカールは作中の時間経過とともに読書をして洗練した文章が書けるようになっていくのだが,それが日本語訳からでもわかるほどの変化で,これもまたおもしろかった。最初の方の彼の言葉は急き立てられるような感じで話がなかなか前に進まないが,最後の方は幾分すっきりした文章になっている。これはロシア語読める人が原文で読んだらよりはっきりしておもしろいだろうなぁ,とは思った。

ところで,本書は50代手前の男性マカールと,10代後半の少女ワルワーラの往復書簡という形態をとっている。あまりの年の差カップルに「これ,おっさんいつ裏切られるんや」といぶかしんで読んだ私の魂は汚れていた。ネタバレにならない範囲で書いておくと,この二人はともに善良な市民であり,相手を裏切るようなことはしない。ただし善良なだけかというとそうでもなく,前述の通りそれぞれ譲れないプライドがあり,特にマカールは作中とんでもない愚行を犯す。その結果,本作は完全な悲劇とも言えないが決してグッドエンドとはいえない終わりを迎えることになる。ただ単純な「貧しいが善良な人々」にしなかったところが本作のおもしろさではある。しかし,本書の解説いわく「ゴーゴリの『外套』では風刺され笑いのめされた」貧しく愚かな壮年男性を,あえてセンチメンタルな物語の主人公に仕立てあげたのがドストエフスキーの狙いだそうなので,「貧しくて善良だが愚か」からもうひとひねり入っているということで,私の読みではまだ浅い。それを味わうにはゴーゴリの『外套』を読まねばなるまいが,とりあえず今のところ私の読書予定リストには入っていない。

そうして訳者あとがきを読むと,訳者の先輩にあたる文学者の浦雅春氏が「実はこれは主人公の妄想で,往復書簡と見せかけつつ全部一人で書いているのでは」という意見を出しており,なにそれホラーすぎるんですがこわい。


貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
光文社
2010-04-08



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