2014年05月05日

第233回『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』塩野七生著,新潮社

塩野七生による神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の評伝である。同じ時代を何度も扱っている塩野七生なだけあって,彼もすでに何度も登場している。『十字軍物語』,『ローマ亡き後の地中海世界』,そして『ルネサンスとは何であったのか』。前二つはフリードリヒ2世というと第5(6)回十字軍がハイライトであるので当然だが,最後は意外かもしれない。これは塩野七生の定義するところでは,ダンテに先駆けるルネサンス人としてアッシジの聖フランチェスコとともに挙げられているからである。神ではなく,人間愛にあふれた人間として。

では,すでに何度も描いてきたフリードリヒ2世をわざわざ再度取り上げる意味はなんだったのか,というときちんと意味はある。本書はそのルネサンス人・近代人としてのフリードリヒ2世の姿を中心として描いており,特にフリードリヒ2世が両シチリア王国で法治国家・中央集権的な官僚制国家を作ろうとしていた点を際立って取り上げている。確かにこの方面でフリードリヒ2世を書いた評伝は珍しかろう。一方,彼の人生のハイライトである第5(6)回十字軍については,本書では驚くほど記述が少ない。塩野七生が大好きなエピソードであるにもかかわらず。それこそすでに何度も描いていることだから避けたのだろう。

そんなフリードリヒ2世が作ったメルフィ憲章が歴史にほとんど名を残しておらず,同時代のマグナ・カルタが歴史に名を残したことについて,塩野七生はいかにも苦々しい表情がにじみ出ている文体で「ホーエンシュタウフェン朝は滅んだが,イギリスは残ったから」と書いている。加えて,フリードリヒ2世は自分の死後も統治の安定する国家を志向して法治国家の建設に邁進していたのに,実際には行政の実行者としての自らの役割が大きくなってしまい,結果としてはむしろフリードリヒ2世個人に寄りかかった国家になってしまったから,彼の死後早々にシュタウフェン朝が滅んでしまったことも指摘している。このあたりの指摘は的確であろう。結局のところフリードリヒ2世は偉大ではあれど,時代の状況があまりも悪く,改革も性急に過ぎた。そしてそれらを排して押し通すほどの,つまりカエサルやアレクサンドロス大王級の力量となると,さすがに持ち合わせていなかったのである。その限界も含めて,評するにはおもしろい人物とは言える。

あとはまあ,いつもの塩野七生である。帯で「古代にカエサルがいたように,中世にはこの男がいた!」とあおっているように,彼女はフリードリヒ2世が本当に好きなんだなぁというのが強く伝わってくる。ただし,世評にも見られる通り,本書には重複した文章が目立つ。それは本作内だけでほとんど同じ文章が何度も出てくるということもあるし,過去の小説に見られた文章とほぼ同じ文章があるということでもある。これは上記のごとくフリードリヒ2世を扱うのがもはや4度目というのもあるし,そもそも同じ内容の文章を何度も繰り返して強調するのは塩野七生の文章の昔からの特徴でもあるから,ある程度は仕方がない。しかし,今回はそれにしても多い。amazonに「重複した文章をすべて削ったら上下巻じゃなくて1冊に収まったのでは」というレビューがあったが,私も同感である。ほとんど全文章を二回ずつ読まされたような感覚がある。


さて,いくつか見つけたミスを指摘しておく。まず上巻pp.124-125。現代の国境線が引かれた地中海地方の地図が掲載されているが,コソヴォが存在していない,パレスチナがない(イスラエルがパレスチナ地方全域を支配している)あたりは政治的な問題が絡むからまだいいとしても,セルビアとモンテネグロが分裂していないのは完全にアウトだ。これ,現代じゃなくて2006年以前の地図なんじゃないか。

次,これが一番致命的だと思うが,上巻pp.212-213。フリードリヒ2世が1230年代の両シチリア王国で,地方統治の一環として各都市に身分制議会を創設し,聖職者・封建諸侯・市民が三分の一ずつを占めた議会であったことを述べた後に「この三部会がわれわれの前に再び姿を現すのは,これより五百七十年が過ぎたフランス大革命を待たねばならない。」とある。これは二重におかしい。まず,1230年代に570年を足せば1800年代になるが,言うまでもなくフランス大革命は1789年であり10年の開きがある。単純に算数が間違っており,「560年」が正しい。次に,フランスの三部会が誕生したのは1302年のことであり,フランス大革命のものはむしろ最後の三部会である。こんな中世ヨーロッパ史のところで塩野七生がミスをするか? とかなりいぶかしんだが,よくよく考えてみると塩野七生はなぜだかカペー朝のフランスが大嫌いなので(フィリップ2世もルイ9世も本書や『十字軍物語』でかなりけなされている),フィリップ4世のこともすぱっと頭から抜けていたのかもしれない。

下巻p.95,イブン・ルシュドのことをアヴェロール,もしくは「ヨーロッパではアヴェローエ(Averroe)の名のほうで有名だが」と紹介しているが,正確にはラテン語名の「アヴェロエス(Averroes)」の名で有名であった。アヴェローエは現代イタリア語の表記であり,この表記が中世イタリアに存在していたか不明。また,イブン・ルシュドの著作の翻訳が進んだのはイベリア半島のトレドなので,いずれにせよイタリア語にする必要性は感じず,やはり一般的なラテン語が良かろう。なお,現代スペイン語でも英語でもAverroesのようだ。アヴェロールはどこの表記なのか不明。

下巻p.108,1180年と1223年のフランス王国の地図があるが,フランス王領の範囲がおかしい。どちらもフランス王国のうち,イングランド王領でない領域はすべてフランス王領になっているが,もちろんそんなことはない。当時のフランスにはイングランド王領でもフランス王領でもない,自立した封建諸侯の領土が存在していたのだから。こんなにフランス王の直轄領が広ければ,フィリップ2世は苦労していない。







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