2014年06月09日
「舞の海講演会文字起こし」の落穂拾い
先日のあの文字起こしの記事には,実に多種多様な反応を頂いた。舞の海氏に対する風評被害を和らげることに貢献できたのであれば,何よりである。さて,騒動自体が落ち着いたからこそ,もう一度問題を整理しておくと,週刊金曜日の記事がまずかったのは
・舞の海氏を「ご本人の意図した内容とは別の内容に取れるかのように発言を切り取って」,「それをもって排外主義者として報道したこと」
である。「記事本文の文章自体に嘘は書いてない」という反応が見られたが,別の内容に受け取れるように切り取ったのであれば,やはりそれは改竄と言わざるをえない。しかも今回の場合「○○ということを主張する人がいる(が,私はそう思わない)」の後半部分を削ったのであり,意図が明白で悪質性は極めて高い。
ここで問題になるのは,次の2つの反応だ。
「そうは言っても昭和の日をお祝いする集い等という集会での講演であり,聴衆の性質を考えれば講演内容を好意的に解釈はできない。解釈によっては『蒙古襲来』など記事に関連する部分だけでも排外主義と取れなくもない。」
「そうは言っても講演の他の内容から,舞の海氏は排外発言をしたと解釈できる。記事内容の部分などものの問題ではない。」
前者の代表格は週刊金曜日自身のひどい言い訳だろう。勘違いしないで欲しいのだが,「舞の海氏はそもそもあのような集会に出席するべきではなかった」や「聴衆の質は正直に言って悪く,たとえば『先生がんばれ』と声をかけた人などはほぼ間違いなく排外主義者だろう」等の主張であれば私も同意する。ただまあ,「出席するべきでなかった」については,舞の海氏自身が産経新聞や正論に寄稿している右派なので,かなりの部分は自由意志で参加したのではないかと思われる。また,文字起こしの記事で書いた通り,ダメな俗流若者論をうっている辺りを見ても危ういところがあり,典型的なダメな右翼と親和性が高いのは確かだろう。そういうわけで,私は冷泉氏の訂正記事ほどにはあの講演を評価していない(んだけど,何か舞の海氏を全肯定していると思われている節が。ちゃんと文字起こし記事でもダメな部分はダメと書いたんだけどなぁ)。
しかし,前者の反応はそうではなくて,それらをもって改竄の悪意を帳消しにしようとする姿勢が醜悪なのである。端的に言えば聴衆がレイシストなら,講演者もほとんど何を言ってもレイシストと言っているのに近い。聴衆の性質も確かに一つの判断材料ではあろう,それは否定しない。しかし,それは判断材料の一つでしかなく,第一はやはり内容自体であるべきだ。『蒙古襲来』などの言葉尻を超悪意ある解釈されるのであれば,慎重に慎重を極めた話をせざるをえず,それは“漫談”として辛すぎる(そう,あれは相撲漫談なのだ)。もちろん漫談なら差別発言・排外発言をしてもいいという話では決してなく,何をどうがんばっても差別とは受け取れない発言でしか漫談しちゃダメと言われたら無理があろう。「ただし『これは難しい〜』という発言は「排除」の否定なのでしょうか。」等と週刊金曜日は反論していたが,「先生がんばれ」と叫んで拍手してきた聴衆の立場に立てばああいう表現になるのは文脈上わかる話で,難癖でしかない。ともあれ,この前者の反応の醜悪さは週刊金曜日自身が証明してくれたので,私からは事細かに言うまい。
後者であるが,じゃあなんで週刊金曜日はその部分を記事本文中に書かなかったのかという話になる。ライター本人にも説得力に自信なかったから,差別と認定するには一般性が足りないと考えたから,あの改竄に走ったのではないか。それ以外の合理的理由が私には思いつかないのだが,どうか。週刊金曜日の釈明記事でも触れられていないし。
それはそれとして,「週刊金曜日はもはや関係ない。私自身の解釈・判断で,舞の海氏の講演は内容として差別的である」というのであれば,それはもうその人の自由であり,私から言うことは特に無い。そもそも自由に解釈してもらうための文字起こしであり,私の意見に従ってもらうためのものではないのだ。そして,私は全文読んでも差別的だとは思わないし,私DG-Lawの解釈なんて貴方にとってどうでもいいのでは? と思わなくもない。が,文字起こしした人間として多少なりとも本件にかかわりを持ってしまったので,聞かれれば「その部分はこう解釈できるので,私は差別的と思わない」と反論することにしている。
で,その中で「曙の身体を『ナスに爪楊枝を刺したような』と言ったのは差別的な発言ではないか」という意見を出されたので,「曙に対する超失礼な発言だとは思うが,差別性は認めがたい」と反応した。その人の理屈を要約すれば「外国人の身体的特徴をあげつらうことによって,日本人の身体的同質性を確認するという,よくある差別の構図」とのことであるが,これに対して私は「『ナスに爪楊枝』というようなものは外国人力士に共通する身体的特徴ではないし,そのような揶揄が歴史的文脈のある定型句というわけでもない。一つの解釈として,そこに蔑視を読み取ることは可能ではあるだろうが,私はそう解釈しない。」と反論しているのだが,以降自分の主張をしきって満足したのか,リプライが飛んでこなかった。原文はtwilogから読めるので,気になる人はどうぞ。
私自身,「ナスに爪楊枝」という例え方はみすぼらしくて品を欠き,横綱に対する敬意のある表現ではないと思う。笑いを取りに行きすぎて下品になった例だ(これも講演を高評価できない理由の一つ)。普通に「あんこ型」と言えばよかった話であるが,通じないと判断したか。が,10日経って再度考えても,やはりそこにレイシズムを見出すのは無理があると思う。「その言動がある特定の属性に対する不当な攻撃である」ことと,「発言者の心性に差別したいという欲求が見出される」ことか,心性がなくても「歴史的文脈からそれ自体が差別性の発露とみなされる言動をしている」ことに該当すれば,それが差別にあたると私は考えている。ここで「ナスに爪楊枝」に立ち返るに,私はそれなりに相撲を見ているが,あんこ型なのが外国出身力士に共通するとはとても思えず,そもそも白鵬と日馬富士からして全くあんこ型ではない。ハワイアンに限定すればまだそういう傾向はあると言えるが,小錦と曙しか目立った例がない。武蔵丸はそうでもない体型だし,高見山は私は世代ではないので判断は控えたい(完全に余談だが武蔵国には期待している)。それはそうとしても,あの聴衆がそうした傾向を知っていたかは疑わしかろう。なにせ舞の海が「あんこ型」という言葉が通じないと判断した集団であるのだから。逆に,「日本人の同質性の確認」と言っても,日本人にもあんこ型の力士は当然無数にいる,現役なら千代丸・千代鳳兄弟とか豊ノ島とか。これは推測でしかないが,舞の海氏は豊ノ島にだって「ナスに爪楊枝」と言う可能性はある(仮定の話をしてもしょうがないのはその通りなんだけど)。さらに,舞の海氏の普段のNHKの解説から言っても,「日本人活躍しろ」が過剰にうるさいところはあっても,外国人力士を不当にあげつらうことはない,というかそれをやったらNHK解説を降板になるだろう。もちろん「ナスに爪楊枝」は定型句でもない。よって,民族性への攻撃・心性・歴史的文脈のいずれも私の知識では認めがたいのである。
しかしまあ好きに解釈すれば良い話であるし,正直に言って二度とかかわりになりたくなかったものの,一応関連する発言をしていないか相手のTLを眺めていたところで別のtweetが目に入った。それが「(総理大臣杯授与のため)安倍入場に大歓声を送るバカな観客ども。(中略)送るのは歓声ではなくザブトンぶん投げろ」というものであったので,ガックリ来た。一応説明するが,座布団は勝利した力士に対する褒賞の意味合いで投げられるものであって敗北した力士へのブーイングではない。もともとは座布団ではなく,羽織を投げていた。その羽織には家紋が入っていたから,家紋を見て投げた観客を探し当て,後日羽織を返しに行くと,羽織と引き換えに祝儀を受け取った,という風習があった。しかし,普段着の洋装化により代わって座布団を投げるようになった。加えて言うと座布団投げは他の観客に当たると危険なので公式には禁止されている。館内アナウンスでも「大変危険ですから,座布団を投げないでください」と必ず流れる。風習だから黙認されているところがあるものの,国技館の側でも座布団を投げにくいものに変える計画があるし,すでに心ある観客は投げない。私自身投げない。
ただまあ,その分野について詳しくないと差別への批判をしてはいけないのかという一般化をすると,これはけっこう難題になる。外からの視線が無いと狭い世界では自浄作用も生じまい。実際,大相撲自体そうした視線を欠いたが故に時太山暴行死事件などが起きたのであり,あのときの処分はいまでも甘かったと思っている。その意味で,世間が相撲の動きに注目するのはありがたいことではあるのかな。
・舞の海氏を「ご本人の意図した内容とは別の内容に取れるかのように発言を切り取って」,「それをもって排外主義者として報道したこと」
である。「記事本文の文章自体に嘘は書いてない」という反応が見られたが,別の内容に受け取れるように切り取ったのであれば,やはりそれは改竄と言わざるをえない。しかも今回の場合「○○ということを主張する人がいる(が,私はそう思わない)」の後半部分を削ったのであり,意図が明白で悪質性は極めて高い。
ここで問題になるのは,次の2つの反応だ。
「そうは言っても昭和の日をお祝いする集い等という集会での講演であり,聴衆の性質を考えれば講演内容を好意的に解釈はできない。解釈によっては『蒙古襲来』など記事に関連する部分だけでも排外主義と取れなくもない。」
「そうは言っても講演の他の内容から,舞の海氏は排外発言をしたと解釈できる。記事内容の部分などものの問題ではない。」
前者の代表格は週刊金曜日自身のひどい言い訳だろう。勘違いしないで欲しいのだが,「舞の海氏はそもそもあのような集会に出席するべきではなかった」や「聴衆の質は正直に言って悪く,たとえば『先生がんばれ』と声をかけた人などはほぼ間違いなく排外主義者だろう」等の主張であれば私も同意する。ただまあ,「出席するべきでなかった」については,舞の海氏自身が産経新聞や正論に寄稿している右派なので,かなりの部分は自由意志で参加したのではないかと思われる。また,文字起こしの記事で書いた通り,ダメな俗流若者論をうっている辺りを見ても危ういところがあり,典型的なダメな右翼と親和性が高いのは確かだろう。そういうわけで,私は冷泉氏の訂正記事ほどにはあの講演を評価していない(んだけど,何か舞の海氏を全肯定していると思われている節が。ちゃんと文字起こし記事でもダメな部分はダメと書いたんだけどなぁ)。
しかし,前者の反応はそうではなくて,それらをもって改竄の悪意を帳消しにしようとする姿勢が醜悪なのである。端的に言えば聴衆がレイシストなら,講演者もほとんど何を言ってもレイシストと言っているのに近い。聴衆の性質も確かに一つの判断材料ではあろう,それは否定しない。しかし,それは判断材料の一つでしかなく,第一はやはり内容自体であるべきだ。『蒙古襲来』などの言葉尻を超悪意ある解釈されるのであれば,慎重に慎重を極めた話をせざるをえず,それは“漫談”として辛すぎる(そう,あれは相撲漫談なのだ)。もちろん漫談なら差別発言・排外発言をしてもいいという話では決してなく,何をどうがんばっても差別とは受け取れない発言でしか漫談しちゃダメと言われたら無理があろう。「ただし『これは難しい〜』という発言は「排除」の否定なのでしょうか。」等と週刊金曜日は反論していたが,「先生がんばれ」と叫んで拍手してきた聴衆の立場に立てばああいう表現になるのは文脈上わかる話で,難癖でしかない。ともあれ,この前者の反応の醜悪さは週刊金曜日自身が証明してくれたので,私からは事細かに言うまい。
後者であるが,じゃあなんで週刊金曜日はその部分を記事本文中に書かなかったのかという話になる。ライター本人にも説得力に自信なかったから,差別と認定するには一般性が足りないと考えたから,あの改竄に走ったのではないか。それ以外の合理的理由が私には思いつかないのだが,どうか。週刊金曜日の釈明記事でも触れられていないし。
それはそれとして,「週刊金曜日はもはや関係ない。私自身の解釈・判断で,舞の海氏の講演は内容として差別的である」というのであれば,それはもうその人の自由であり,私から言うことは特に無い。そもそも自由に解釈してもらうための文字起こしであり,私の意見に従ってもらうためのものではないのだ。そして,私は全文読んでも差別的だとは思わないし,私DG-Lawの解釈なんて貴方にとってどうでもいいのでは? と思わなくもない。が,文字起こしした人間として多少なりとも本件にかかわりを持ってしまったので,聞かれれば「その部分はこう解釈できるので,私は差別的と思わない」と反論することにしている。
で,その中で「曙の身体を『ナスに爪楊枝を刺したような』と言ったのは差別的な発言ではないか」という意見を出されたので,「曙に対する超失礼な発言だとは思うが,差別性は認めがたい」と反応した。その人の理屈を要約すれば「外国人の身体的特徴をあげつらうことによって,日本人の身体的同質性を確認するという,よくある差別の構図」とのことであるが,これに対して私は「『ナスに爪楊枝』というようなものは外国人力士に共通する身体的特徴ではないし,そのような揶揄が歴史的文脈のある定型句というわけでもない。一つの解釈として,そこに蔑視を読み取ることは可能ではあるだろうが,私はそう解釈しない。」と反論しているのだが,以降自分の主張をしきって満足したのか,リプライが飛んでこなかった。原文はtwilogから読めるので,気になる人はどうぞ。
私自身,「ナスに爪楊枝」という例え方はみすぼらしくて品を欠き,横綱に対する敬意のある表現ではないと思う。笑いを取りに行きすぎて下品になった例だ(これも講演を高評価できない理由の一つ)。普通に「あんこ型」と言えばよかった話であるが,通じないと判断したか。が,10日経って再度考えても,やはりそこにレイシズムを見出すのは無理があると思う。「その言動がある特定の属性に対する不当な攻撃である」ことと,「発言者の心性に差別したいという欲求が見出される」ことか,心性がなくても「歴史的文脈からそれ自体が差別性の発露とみなされる言動をしている」ことに該当すれば,それが差別にあたると私は考えている。ここで「ナスに爪楊枝」に立ち返るに,私はそれなりに相撲を見ているが,あんこ型なのが外国出身力士に共通するとはとても思えず,そもそも白鵬と日馬富士からして全くあんこ型ではない。ハワイアンに限定すればまだそういう傾向はあると言えるが,小錦と曙しか目立った例がない。武蔵丸はそうでもない体型だし,高見山は私は世代ではないので判断は控えたい(完全に余談だが武蔵国には期待している)。それはそうとしても,あの聴衆がそうした傾向を知っていたかは疑わしかろう。なにせ舞の海が「あんこ型」という言葉が通じないと判断した集団であるのだから。逆に,「日本人の同質性の確認」と言っても,日本人にもあんこ型の力士は当然無数にいる,現役なら千代丸・千代鳳兄弟とか豊ノ島とか。これは推測でしかないが,舞の海氏は豊ノ島にだって「ナスに爪楊枝」と言う可能性はある(仮定の話をしてもしょうがないのはその通りなんだけど)。さらに,舞の海氏の普段のNHKの解説から言っても,「日本人活躍しろ」が過剰にうるさいところはあっても,外国人力士を不当にあげつらうことはない,というかそれをやったらNHK解説を降板になるだろう。もちろん「ナスに爪楊枝」は定型句でもない。よって,民族性への攻撃・心性・歴史的文脈のいずれも私の知識では認めがたいのである。
しかしまあ好きに解釈すれば良い話であるし,正直に言って二度とかかわりになりたくなかったものの,一応関連する発言をしていないか相手のTLを眺めていたところで別のtweetが目に入った。それが「(総理大臣杯授与のため)安倍入場に大歓声を送るバカな観客ども。(中略)送るのは歓声ではなくザブトンぶん投げろ」というものであったので,ガックリ来た。一応説明するが,座布団は勝利した力士に対する褒賞の意味合いで投げられるものであって敗北した力士へのブーイングではない。もともとは座布団ではなく,羽織を投げていた。その羽織には家紋が入っていたから,家紋を見て投げた観客を探し当て,後日羽織を返しに行くと,羽織と引き換えに祝儀を受け取った,という風習があった。しかし,普段着の洋装化により代わって座布団を投げるようになった。加えて言うと座布団投げは他の観客に当たると危険なので公式には禁止されている。館内アナウンスでも「大変危険ですから,座布団を投げないでください」と必ず流れる。風習だから黙認されているところがあるものの,国技館の側でも座布団を投げにくいものに変える計画があるし,すでに心ある観客は投げない。私自身投げない。
ただまあ,その分野について詳しくないと差別への批判をしてはいけないのかという一般化をすると,これはけっこう難題になる。外からの視線が無いと狭い世界では自浄作用も生じまい。実際,大相撲自体そうした視線を欠いたが故に時太山暴行死事件などが起きたのであり,あのときの処分はいまでも甘かったと思っている。その意味で,世間が相撲の動きに注目するのはありがたいことではあるのかな。
Posted by dg_law at 02:12│Comments(0)│