2014年07月09日

『言の葉の庭』

なぜ新宿御苑でなくてはならなかったのか。「庭」は,特に都会の中の庭園は喧騒の中の憩いの場である。これは新宿御苑の場合,その意味合いはさらに強い。周囲を高層ビルに囲まれているが,新宿御苑自身も木々が多く,高層ビル群に対抗するかのごとく庭園を覆っている。結果的に庭園の中は外界から隔絶された空間となっている。それでも空を見上げると,木々の上から見下ろしてくる高層ビル群が見えてしまい,人によっては「せっかくの庭園の景観を高層ビルが壊している」と批判的であるが,私は逆だ。高層ビルが垣間見えるからこそ,新宿御苑の外界からの隔絶が際立つのである。

都内の他の庭園ではこうはいかない。六義園や清澄庭園では周囲に高層ビルがなく,そこが高評価ポイントではあるが,新宿御苑のような詩情とは別種である。また最近ではスカイツリーが見えてしまうので,そう完璧な景観でもなくなったように思う。浜離宮庭園は比較的新宿御苑に近いが,片側が海に面していて開放的である上に,池が大きすぎて樹木がそう多くない。小石川後楽園も高層ビルに囲まれていて樹木が多いものの,今度は庭園内の景観が充溢しすぎていて,心を休ませる場所というよりは「楽しむ」場所であると言える。芝離宮庭園も同様の理屈で,しっとりと落ち着いた雰囲気を推すのはやや苦しい。以上の理由から,本作の舞台は新宿御苑しか考えられないのである。(大阪や名古屋で探せばまだあるかもしれないが)


解題に近くなるが,「言の葉」は新宿御苑の木々の葉と,言葉のダブルミーニングである。木々は都会の喧騒からの守り手であり,傷ついた二人は木々に守られて言葉をかわし,庭園から巣立っていく。本作は主人公のモノローグがやたらと多く,それが「脚本がひどい」「映像で説明すべきところを全て言葉で説明しており,作劇として下手」と酷評を受けている。これはこれでまっとうな批判ではあるが,二つの点であまり意味がない批判と言えるかもしれない。まず,本作はモノローグである必要性があったとも言える。「幸せ」や「好き」という言葉は心のなかであれ発せられなくてはならなかった。あれらは自らの感情の確認であって,言葉という形で明確に表現される必要があった。それ自体が言葉の強みであり,情景描写で表現されるものではない。

もう一つは,そもそも新海誠の作品とは詩情を風景で描写することに命がかかっている作品であり,人間感情の描写やストーリーラインは二の次であり,詩情あふれる風景に対してかしずくものでしかない。だからそれらがうるさくてはいけないし,風景描写を邪魔することになってはいけないのである。本作の描く新宿御苑は,見慣れたものがこうも美しく描かれるのかと思えるほどに美しかった。ゆえに物語は至極単純で,かつ庭園が「都会の喧騒からの守護者」というのがストレートにわかるものでなくてはならず,かつ詩情を強調するためには詩=言葉そのものをダブルミーニングとして引っ張ってくる必要があった。そういうわけで,私は世間で言われているほど,ひどい脚本とは思わない。


さて,これで『星を追う子ども』を見れば新海誠監督作品はコンプリートなのだが,あまり好きそうな作品ではないのが。





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