2014年07月24日

フェリペ諸王を適当に振り返る

ばたばたとしているうちに時期を逃した上,戴冠式が非常に地味でほとんど日本で報道されなかったように思えることもありすっかり忘れられかかっているが,スペイン王国のフェリペ6世が即位した。そこで,歴代のスペイン国王の「フェリペ」をざっと振り返ってみて,即位の祝賀としたい。Wikipediaへのリンクをそれぞれつけておき,適当に個人的なコメントを。正直2世以外ろくなのがいない。


・フェリペ1世(位1506年)
いきなり「誰だコイツは」感が半端無いが,狂女王フアナの夫であり,皇帝マクシミリアンの息子。こいつがぼんくら&若死にだったせいで,カルロス1世が若くして即位する羽目になった。このカルロス1世が偉大なる人物であったのは,スペインにとってはむしろ幸いであった。

・フェリペ2世(位1556〜98年)
間違いなく全フェリペの中で最も有名なフェリペ。「フィリピン」の語源でもある。カルロス1世は長くヨーロッパを股にかけて活躍したが,「日の没することなき国」を一人で統治することの無理を悟り,引退した際には弟に神聖ローマ皇帝を,息子のフェリペにスペインとその植民地,そして低地地方を継がせてハプスブルク家を分割した。カルロス1世自身はこれらのうち,スペインは母親から,残りは父親から受け継いでいる。ゆえに低地地方はこの段階でオーストリア側からスペイン側へ宗主権が移動した形になる。豊かな低地地方を息子の側に渡したのは,やはり弟より息子の方がかわいかったという説を聞いたことがあるが,どうなのだろう。

カルロス1世が過労を考えて分割したハプスブルク家であるが,フェリペ2世は父親の美徳を受け継ぎ,極めて献身的に働いた。後の失敗しか紹介されない関係で,低能で情けない君主のイメージが強いが,実際には,有能であったかは置いとくとしても情けない君主ではない。ただし,カルロス1世がありとあらゆるところに親征して暴れまわったのに対し,本人はWikipediaにもあるように,マドリードに引きこもっていた。彼の治世は豊かな低地地方と銀で溢れかえる新大陸に支えられていたが,いかんせんカルロス1世が敵を作りすぎ,その収拾に追われてしまったところがある。

新大陸産の銀などの国内の資本は,低地地方の産業に投資された。なぜなら,スペインはカスティーリャ王国時代の内政上の失敗から国内産業(特に農業)が未熟であったからだ。そこで膨大な銀を外国商品の輸入に費やし,その商品(特に低地地方産の毛織物)を新大陸の植民者に転売して利潤を上げようとした。この正統な重商主義はカルロス1世・フェリペ2世の時代にはうまくいっていたが,一方で国内産業の未熟は解消されないまま放置されることとなった。結果的にフェリペ2世の治世では飢饉が頻発したが,これは後の没落の予兆と言える。

その低地地方で新教を弾圧したところが最初のつまづきだったか。オランダ独立戦争にオスマン帝国とのレパントの海戦,フランスのユグノー戦争への介入等々に忙殺され,そのオチがイギリスとのアルマダ海戦というのは少々同情する。一応,実際のところアルマダ海戦一発で極端に劣勢となったわけではなく,フェリペ2世在位頃はまだ戦えていたらしい。こうして膨大な富は,まず投資されたオランダがごっそりと持って行き,残りも戦費で消尽し,フェリペ2世のうちにスペインは破産を繰り返した。こうしてスペインは斜陽の時代に入るのである。


フェリペ3世(位1598〜1621年)
フェリペ2世の息子。なお,5人生まれて唯一生き残った子供である。これは当時の医療技術の問題もあるが,フェリペ2世の妻はオーストリア=ハプスブルク出身であり,夫婦は伯父と姪の関係であったから,すでに近親相姦の欠点が出始めているとも言える。ここからスペイン王家はどんどん短命になっていき,アゴもとがっていく。

フェリペ3世即位時のスペインは領土広大ではあったものの,一方国庫は破産しており,国内産業は荒廃,しかも相変わらず周囲は敵だらけという,直前まで絶頂期だったとは思えない状況であった。そんなこともあってかフェリペ3世は父とはほど遠い怠惰な国王であった。だからこそ1618年にオーストリアが三十年戦争を起こした時には「勘弁してくれ」という心境だったのではないか。同じハプスブルク家であり,対抗宗教改革の旗手であったスペインとしては参戦せざるをえないが,場所はドイツでありスペインの国益から考えると全く益がない戦争であった。フェリペ3世は開戦から3年後に死ぬ。

フェリペ3世の最大の「事績」はモリスコの追放令であろう。スペインは15世紀末にすでにユダヤ人を追放していたが,そこから100年経って今度はモリスコの追放に乗り出した。モリスコとはキリスト教に改宗した元ムスリムとその子孫のことであり,砂糖や米の大農場を経営していた人々が多く,数少ない生き残っていたスペインの国内産業の担い手であった。しかし,改宗してもムスリムはムスリムということなのであろう,その数約30〜50万人という巨大な人口をまとめてモロッコ(一部はフランス・イタリア)に追い出してしまう。結果的に,ルイ14世がユグノーを追放したのと全く同じ現象がスペインを襲い,ただでさえガタガタだった農業にとどめを刺すこととなった。同時期にはキリスト教徒にはユダヤ人やムスリム・モリスコの血が混じっていてはいけないという「血の純潔」がさらに重視されるようになり,排他的な社会が形成されていく。要するにただの民族浄化である。

さらに言えば,フェリペ3世・4世の時代に官僚制が形骸化し,国王お気に入りの寵臣が牛耳るようになっていた。これにあわせて政治が停滞し,次第に地方が中央から自立し,スペインは封建社会に戻っていく。スペイン初代のカトリック両王やカルロス1世が整備した頃にはヨーロッパ有数の中央集権化が進んだ国であったスペインはいまや中世に取り残された側の国にまで立ち後れていた。それはそうであろう,停滞していたのではなく,時代の流れに逆行していたのだから。形態は絶対王政・啓蒙専制・立憲君主制と多岐に渡るにせよ中央集権化が既定路線であった近世欧州において,これだけ「後退」した国は珍しい。というよりもスペインしかあるまい。(ポーランドはこうした直線的な史観で判断できない特例として。)

このフェリペ3世の妻もまたオーストリア=ハプスブルク出身であり,妻のいとこがフェリペ3世の母にあたる。現時点で何を言ってるかわからないが,今後さらにわからなくなっていくのだからハプスブルク家の家系図はむごい。子供は8人授かり,少しは遠い血縁だったせいか夭折は3人とかなり生き残った。このうちの一人がルイ13世のアンヌ・ドートリッシュとなり,ルイ14世を生む。


フェリペ4世(位1621〜65年)
フェリペ3世の息子。フェリペ3世と同様に怠惰な国王であった。この時期のスペインにとっての大きな出来事というと,ポルトガルの離反・独立,三十年戦争の最終的な敗戦,さらにフランスとの国境紛争の敗戦とピレネー条約の締結であろう。負けてばかりである。

さらにこれらの敗戦に関連して,この頃から英仏蘭の「カリブの海賊」が活発化し,最後の頼みの綱であった「旧大陸商品の新大陸への転売」という産業も途切れがちになっていった。おまけに新大陸の銀産自体が減少し,露骨にスペインの収入が細る。またこの頃になるとヨーロッパとラテンアメリカの貿易が,鉱物資源と手工業品の交換から,商品作物と黒人奴隷の交換(いわゆる大西洋三角貿易)に変質した。結果的に西アフリカに全く伝手がないスペインはさらなる不利に追い込まれ,フランスに奴隷供給を一任することになる(いわゆるアシエント)。それでスペイン本国の経済も財政も回るはずがなく,スペインが「斜陽の古豪」から「ただの没落国家」に変わっていくのがこの時期である。一方,同時期のスペインといえばベラスケス,スルバラン,ムリリョがそろったスペイン・バロック美術の黄金期であった。

このフェリペ4世の最初の妻はフランス・ブルボン家出身のイサベルで,7人の子供を得たが5人は夭折した。生き残ったうちの王子は世継ぎとして将来を嘱望されていたが,結局父親よりも先に亡くなる。もう一人の王女はピレネー条約により,半ば人質的にフランスのルイ14世に嫁ぐ(マリー・テレーズ)。この夫婦直系の孫が後のフェリペ5世であり,スペイン継承戦争の引き金となる。

このようにイサベルとの間には跡継ぎが生まれなかったためフェリペ4世は再婚,この再婚相手が例によってオーストリア・ハプスブルク出身であり(マリアナ),またしても伯父と姪の婚姻であった。この婚姻,年の差29,結婚時のマリアナは14歳(ベアードさんこっちです)そもそもマリアナは息子の婚約者だったことなどから当時からスキャンダルであったが,無理に押し切って結婚した。そこから生まれた息子がカルロス2世であるが,さすがに血が濃くなりすぎたのか奇行が目立ち,またアゴは肥大になりすぎてかみ合わせがあわなかった等で有名な悲劇の君主である。当然カルロス2世に世継ぎを残すことはできず,彼が亡くなるとスペイン・ハプスブルク家の直系は断絶。こうしてスペイン継承戦争が勃発する。


フェリペ5世(位1700〜46)
スペイン継承戦争の結果,フランスの要求が通り,ルイ14世の孫が即位した。このスペイン・ブルボン家初代国王がフェリペ5世である。スペイン継承戦争は国王即位が認められる代わりに多大なる犠牲を払った戦争であり,特にフェリペ2世以来のヨーロッパにおける領土(イタリア諸邦・サルデーニャ・南ネーデルラントetc.)は参戦諸国に引き渡された。言うまでもなく,その大半を受け取ったのは王位をあきらめさせられたオーストリアである。

スペインにやってきたフェリペ5世は長く続いたハプスブルク家の怠惰な統治状況に驚愕し,フランス流の中央集権的な政治を植え付けようと試みた。これはある程度成功し,外交でも失われたヨーロッパの領土を取り戻すべくポーランド継承戦争に参戦,イタリア諸邦の大部分を奪還している。影が薄いわブルボン家って時点で暗君か暴君なイメージあるわで,そんなイメージは全くないと思われるが,内政・外交ともに卒なくこなしたそれなりの名君だったと言ってもよかろう。なおその後のスペイン・ブルボン朝の君主たちも優秀な人物が多く,特にカルロス3世は隠れた啓蒙専制君主の一人である。そのままフランス啓蒙専制路線が続けばスペインは「ただの没落国家」から「復活途上の古豪」くらいになれたかもしれないが,それを全てぶち壊しにしたのもまたフランス人であった。ナポレオンが過ぎ去った後の19世紀のブルボン家は「お前実は中身ハプスブルク家だろ」というくらいダメな君主が続き,20世紀に入ってから王政廃止,そしてフランコの台頭へと至る。



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