2014年10月21日

台湾と日本の間で

台湾の近代美術芸大の台湾の近代美術展に行ってきた。国立台北教育大学北師美術館との共同企画である。1895年に日本領となってから,1945年に独立するまでの間,東京芸大に台湾から多数の留学生が訪れていた。そこを卒業した彼らはそのまま日本に残ったもの,台湾に帰って近代美術を広めたもの,あるいは大陸に渡ってそちらで近代美術を広めたものと,多種多様な進路をたどった。なお,1895年と展覧会のサブタイトルにもついているが,実際には最初の留学生が芸大に入ったのは1915・1916年のことである。ただし,彼らの生まれた年が奇しくも1895・1894年であり,純粋に清代に生まれた留学生というのは存在していないようだ。

近代美術とあえてぼかしたが,要するに西洋美術の技法である。台湾植民地からの留学生が,東京で西洋美術を学ぶという非常にねじくれた現象が当時の東京では起きていた。そうした留学生たちが卒業後,東京や台湾にとどまらず,大陸に渡った例が少なくなかったというのも驚きで,端的に言えば西洋美術の水準においてはそういう力関係だったと言えるのだろうし,当時の日本・台湾・大陸の距離の近さが垣間見える事例でもある。また,たとえばもろに梅原龍三郎のフォロワーがいたり,「日本の」西洋美術的な雰囲気が漂っていたりするあたり,間違いなく「東京芸大」の薫陶を受けたのがこの留学生たちであり,その意味では政治的意識での鑑賞で片付けるにはもったいない美術史的なおもしろさがある。(念のため,当時はまだ東京美術学校の名で,戦後に芸大に改組。)

これまた「西洋の規範をどの程度普遍化してよいか」という極めて困難な問題意識が立ち上ってくるのではあるが,とりわけ19世紀の当時にあっては西洋美術の手法が「近代」芸術の最先端には違いなかった。だからこそ日本も西洋美術の摂取に勤しんでいたのであるし,ある種の文明化の使命をもって台湾人にもその門戸を開いていた。当の台湾人たちも,技法を学んで故郷や大陸に広めるのだという,そうした重大な使命感を帯びて日本までやってきた様子が,公開されている当時の手記から読み取れた。しかし,今回の展覧会を見たところ,はっきり言ってしまうと,技法的なレベルは高くない。同時期の日本人画家と比較しても低い。帝展や日展に入選している作品もあり,そもそも東京美術学校に入学できるのだから極端に低いものは無かったが,じゃあ和田英作や安井曾太郎のようなレベルの人がいたかというといなかった。台湾と日本列島の人口比もあれば,経済状況など植民地ゆえの問題も現れているのかもしれない。だからこそ,今回このような企画が立ち上がるまでは注目を浴びなかったのではないかとも思う。

10/26までではあるが,入場無料で,おそらく次はまた数十年後という類の展覧会だと思われるので,美術ファンのみならず植民地問題に関心のある方にお勧めしておく。


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