2014年10月28日
公孫瓚が涙目
・倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(4)三国志誤読箇所(東京下町巡りと中国史・群龍天に在り(FC2版))
→ 「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」で大爆笑した。元々トンデモな人ではあるけれども,こりゃ三国志欠片も読んだことないわ。
→ 「四大奇書」も常識の範囲内だろう。「三代奇書」なんて間違え方は三国志ファンかどうか以前の問題。「陳寿の賄賂はガセネタ」というのも三国志オタクなら知ってる話で,「孔明は魯粛に会って孫権との同盟の渡りをつけた」というのも読んでれば絶対に知っている話だ。以下,つっこんでいったら切りがないっぽい。
→ 他の記事を見ると,三国志以外の部分でもあまりにもひどいようだ。よくもまあ中国史の,しかも詳しい人が多い三国志でこんなことやろうと思ったなぁ。
・スポーツ権関連の議論が地味にヤバい件(Danas je lep dan.)
→ これは第三帝国的なアレをどうしても連想する。そしてあの集会の人たちがそういう歴史をどの程度認識しているのかも気になるところ。最近こういう妙なところで,歴史教育って大事だなと思わされることがある。と同時に,高校世界史をやった人でも多分これを習った覚えがない人もいるはずで,それもそのはず一応教科書や資料集には載っているんだけど,聞きにくすぎて入試では出ない。受験世界史の欠点だなぁと。
→ 逆に言って,旧スポーツ振興法ってスポーツが強制されることの危険性への配慮があったんだなと今更。偉い。
→ 何度も言っているが,重要なのはやる・やらせることじゃなくて興味関心を育てることだ。最終的にやる人は減っていくが,観戦者は減っていかないわけで。「市民的素養としてのスポーツ」であれば,観戦の仕方を教えることだろう。
・アリウス派はイエス・キリストが神であることを否定してはいなかった(Togetter)
→ お怒りごもっともなんだけど,「こういう間違いの根本が、高校の教科書からきているということに落胆します。教員免許取って何を学んできたんだよ!知識を与える職業人は、少なくとも知識に忠実な番犬であるべきだと、思うのですが」は無理筋な要求。拙著でも書いたが,高校教科書を修正するように運動するのが最も生産的だろう。教員や予備校講師に「個々に判断する能力を持て」というのは,全分野において専門的知識を持てということになり,そもそも世界史という科目設定自体に無理があるという議論に発展しかねない。それでは元も子もないので,どこかで区切らねばならぬ。
→ さて,ここでは三位一体説とアリウス派が「イエスの神性を否定しきったわけではない」というのが論点だが,ネストリウス派も相当にややこしい。キリスト教の神学論争は非常にややこしいのだけれど,変に世界史にかかわってくるので避けられない。そうしたキリスト教知識をどこまで「市民的歴史教養」として求めていいかというと,これは面倒ではあるが,生産的な議論だろうと思う。
→ で,個人的には高校の教員が理解できないようなものは世界史から外せばいいのではないかと。キリスト教が諸教派に分かれていたことや,現在のカトリックや正教会が三位一体説であること,三位一体説が政治的なアレコレもあって正統になったこと等は教えてもよいし,ネストリウス派が最終的に中国にまで伝播したりしたことは教える価値が十分にあると思うが,アリウス派やネストリウス派の内容が現代日本の市民的教養として,どれだけ意義があるだろうか。無い,というのが私の考えである。
・アタナシオス派(Wikipedia)
→ 関連して。アタナシウス派が「世界史」用語であって,歴史家や宗教学者のタームとしては一般的ではないのは知らなかった。一応そこら辺の専門家の書いた文章もかなり多様に読んではいるのだけれど,さっぱり気づかなかったかな。正直に言うと,ニケア派も見たことない気が。本当にねじれているなら,時間をかけてでも直すべきだろう。
→ 「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」で大爆笑した。元々トンデモな人ではあるけれども,こりゃ三国志欠片も読んだことないわ。
→ 「四大奇書」も常識の範囲内だろう。「三代奇書」なんて間違え方は三国志ファンかどうか以前の問題。「陳寿の賄賂はガセネタ」というのも三国志オタクなら知ってる話で,「孔明は魯粛に会って孫権との同盟の渡りをつけた」というのも読んでれば絶対に知っている話だ。以下,つっこんでいったら切りがないっぽい。
→ 他の記事を見ると,三国志以外の部分でもあまりにもひどいようだ。よくもまあ中国史の,しかも詳しい人が多い三国志でこんなことやろうと思ったなぁ。
・スポーツ権関連の議論が地味にヤバい件(Danas je lep dan.)
→ これは第三帝国的なアレをどうしても連想する。そしてあの集会の人たちがそういう歴史をどの程度認識しているのかも気になるところ。最近こういう妙なところで,歴史教育って大事だなと思わされることがある。と同時に,高校世界史をやった人でも多分これを習った覚えがない人もいるはずで,それもそのはず一応教科書や資料集には載っているんだけど,聞きにくすぎて入試では出ない。受験世界史の欠点だなぁと。
→ 逆に言って,旧スポーツ振興法ってスポーツが強制されることの危険性への配慮があったんだなと今更。偉い。
→ 何度も言っているが,重要なのはやる・やらせることじゃなくて興味関心を育てることだ。最終的にやる人は減っていくが,観戦者は減っていかないわけで。「市民的素養としてのスポーツ」であれば,観戦の仕方を教えることだろう。
・アリウス派はイエス・キリストが神であることを否定してはいなかった(Togetter)
→ お怒りごもっともなんだけど,「こういう間違いの根本が、高校の教科書からきているということに落胆します。教員免許取って何を学んできたんだよ!知識を与える職業人は、少なくとも知識に忠実な番犬であるべきだと、思うのですが」は無理筋な要求。拙著でも書いたが,高校教科書を修正するように運動するのが最も生産的だろう。教員や予備校講師に「個々に判断する能力を持て」というのは,全分野において専門的知識を持てということになり,そもそも世界史という科目設定自体に無理があるという議論に発展しかねない。それでは元も子もないので,どこかで区切らねばならぬ。
→ さて,ここでは三位一体説とアリウス派が「イエスの神性を否定しきったわけではない」というのが論点だが,ネストリウス派も相当にややこしい。キリスト教の神学論争は非常にややこしいのだけれど,変に世界史にかかわってくるので避けられない。そうしたキリスト教知識をどこまで「市民的歴史教養」として求めていいかというと,これは面倒ではあるが,生産的な議論だろうと思う。
→ で,個人的には高校の教員が理解できないようなものは世界史から外せばいいのではないかと。キリスト教が諸教派に分かれていたことや,現在のカトリックや正教会が三位一体説であること,三位一体説が政治的なアレコレもあって正統になったこと等は教えてもよいし,ネストリウス派が最終的に中国にまで伝播したりしたことは教える価値が十分にあると思うが,アリウス派やネストリウス派の内容が現代日本の市民的教養として,どれだけ意義があるだろうか。無い,というのが私の考えである。
・アタナシオス派(Wikipedia)
→ 関連して。アタナシウス派が「世界史」用語であって,歴史家や宗教学者のタームとしては一般的ではないのは知らなかった。一応そこら辺の専門家の書いた文章もかなり多様に読んではいるのだけれど,さっぱり気づかなかったかな。正直に言うと,ニケア派も見たことない気が。本当にねじれているなら,時間をかけてでも直すべきだろう。
Posted by dg_law at 18:30│Comments(0)│