2014年12月14日

書評:『怪帝ナポレオン3世 第二帝政全史』鹿島茂著,講談社学術文庫

古典的名著だが,なぜこのタイミングで取り上げるかというと,とうとう本書の内容が高校世界史に降りてきたという喜ばしい事態が訪れたゆえである。そこで,本書の内容を簡潔に取りまとめておく。

これまでのナポレオン3世の業績というと,以下のように説明されていた。

「ナポレオン3世は叔父の人気によりかかって政権を奪取した。前期は権威主義的に政権を運営し,労働者と資本家の対立を煽り,その勢力均衡を図って政権を維持した(いわゆるボナパルティズム)。しかし,1860年以降となると民主化の要求に耐えられなくなり,立憲帝政へ移行していった。外征を繰り返したのも,国民の人気を保とうとしたがゆえであった。ゆえに戦敗がかさむと政権が倒れた。」

このような説を唱えていたのはカール・マルクスとヴィクトル・ユゴーの二人であり,20世紀も末になって彼らの権威が崩れ,ようやく実証的な研究が進んできた。これらの説明はほとんどデタラメである。根本的なところで,彼らもその追随者も,空想的社会主義であるところのサン・シモン主義を理解できていなかったし,する気もなかった。また,それを本気で達成しようと考える夢想家の為政者が登場することも,それがある程度強権で成功してしまったということも,信じられなかったのだ。


ナポレオン3世の思想基盤はサン・シモン主義である。サン・シモン主義では階級対立は起こりえず,産業の発展が貧困を根絶する。彼は,そのためには政府の積極的な関与が必要であると考えていた。ルイ・ナポレオン時代に書いた著書に『貧困の根絶』があり,そこで彼は,労働者に必要なものは「協同と教育と規律」であると主張している。すなわち,彼の内政方針は人気取りのための産業育成・社会福祉拡充だったのではなく,産業育成と社会福祉拡充自体が政策の目的であり,それらは別方向を向いていないというのがナポレオン3世の思想であった。事実,フランスの産業革命は1830年頃に始まったが,七月王政下では行き詰まり,本格化したのは1850年代のことである。第二帝政下においてフランスは鉄道大国となり,イギリスに次いで成熟した工業国・資本主義国となっていく。金融改革も進み,次世代のフランス帝国主義を支えていくことになるが,なぜだかまとめて自然現象として処理され,ナポレオン3世の積極的な施策は無視されてきた。パリの大改造もこの一環で理解される。主には衛生向上と交通渋滞の解消が目的であった。都市の近代化は産業育成の上でも社会福祉拡充の上でも至上命題であった。

権威帝政から自由帝政の移行についても,体制の限界が訪れたゆえの仕方なく,ではなくナポレオン3世の希望であった。当初では既存の最大多数・穏健派(秩序派)が腐りきっており,社会主義者はまだまだ勢力が弱かったから,一時議会から権力を取り上げ,権威帝政に移さざるをえなかった。4月選挙・6月暴動といった第二共和政の失敗は彼にとって強い教訓であった。この辺の事情はムスタファ・ケマルやシャルル・ド・ゴールに近いかもしれない。大衆人気に支えられた独裁という点ではファシズムに近く,マルクス主義の歴史家は実際そうなぞらえていたが,内情は似て非なるものであった。

外征も人気取りが目的というより,それ自体が彼の目的であったか,彼の意図しない形での勃発が多々あった。クリミア戦争はパックス=ブリタニカ時代到来を見ぬいた上での参戦であったし,イタリア統一戦争はイタリア情勢の安定を図ったものであった。インドシナ侵略・アロー戦争に至っては,フランス東洋艦隊の暴走に過ぎない。従来言われてきたような帝国主義戦争の先取り,すなわち金融資本に突き動かされた侵略ではない。メキシコ出兵は将来的なパナマ運河建設の足がかりだったという説があるが,これも資本投下というより販路の拡大の意味合いが強い。普仏戦争に関してはすでに自由帝政の末期であり,議会の参戦決議を拒否しきれなかったという事情がある。戦争に反対したのは,後の第三共和政初代大統領ティエール一人であった。

彼の欠点は,自身の強すぎる性欲であった。美人ながら敬虔なカトリックであるウージェニーと結婚したことで,己の目標に反してカトリック勢力を政治や社会から排除しきれなくなり,保守勢力につけこまれる余地を残した。普仏戦争でもウージェニーは大きく足を引っ張り,あのような最悪の形での終戦を迎えることになる。また,荒淫が過ぎたことで膀胱炎にかかり,晩年は終始体調不良で,政治的決断力が大きく鈍っていたとされる。ナポレオン3世に冴えないイメージが漂うのは,この晩年のイメージが強すぎるからだ。なお,ナポレオン4世は虚弱体質で政務に耐えられず,いずれにせよ彼の一代政権で終わったと思われる。私見だが,この辺は終身かつ世襲という帝政というシステムの限界だったように思う。

もう一つの欠点は戦争に関する才能を絶望的に欠いていたことで,クリミア戦争・イタリア統一戦争と続けてようやく己の無能を悟った。普仏戦争は負けるとわかっていて出征したようだが,悲壮感余りある。






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