2014年12月15日

書評:『グレート・ギャッツビー』フィッツジェラルド著,小川高義訳,光文社古典新訳文庫

映画の方を先に見ていて,最初はギャッツビーのイメージが完全にレオナルド・ディカプリオの状態で読んでいたのが,次第にずれが大きくなった。最後まで読みきった感想としては「原作と映画でイメージが違いすぎる」。このイメージのズレについては,直接映画に言及しているわけではないのだが,訳者による解説が非常に役に立った。なぜギャッツビーは「グレート」なのか。鍵はそこにある。

要するに,後世の,それも日本人の我々からすると,アメリカはいつだってアメリカン・ドリームの国なのだ。ところが同時代人である小説家からすると,これは正反対になる。1920年代とは社会が保守化した時代であり,好景気が持続していた裏で,すでに出来上がってしまった階層秩序をひっくり返せない社会になりつつあった時代であった。ギャッツビーは言うまでもなく成金である。つまり,時代遅れなのであるが,それでも成金には違いなく,遅れてやってきたにもかかわらず階層を飛び越えた。その時代に逆行する精神こそが「偉大」なのである。ここが,過去の恋愛を取り返せると信じ,一途な愛情を昔の恋人に捧げようするギャッツビーの恋愛劇と重なる。このギャッツビーの成金としての性質と恋愛劇の行く末は,物語の後半になって綺麗に合流する。ここがこの小説を“偉大”たらしめているところだろう。映画の方はともかく,原作の方はこの前提が頭に入っていないと楽しめないのではないかと思う。いや,自分のように訳者解説を読んで,全ての疑問が氷解してすっきりする,という読み方もそれはそれでありだと思うけども。

もう一つ映画との違いで気になったのは,映像のクリアさである。原作は読んですぐに気づくことだが,かなり茫洋とした文体で,いろいろな物事をはっきりさせないまま描写していく。これが正体不明のギャッツビーやウルフシャイムといった面々の雰囲気醸成や,終盤の事件が主人公のあずかり知らぬところで進行していく様にすごくよくマッチしており,加えて言えば事件の現場にある巨大な目(「全てを見ている」)の看板との対比にさえなっている。これに対して,映画の方はあらゆることをくっきりと描きすぎている。あれはあれで狂乱の二十年代の雰囲気が楽しめたのでよかったのだけれど,『グレート・ギャッツビー』としては,それはどうなのか。


グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)
F.スコット フィッツジェラルド
光文社
2009-09-08




以下は軽くネタバレ。訳者につっこまれていたけれども,あまり細かいところを気にして読んでなかった私でさえ,作中の矛盾が多くてかなり気になった。特にブキャナン夫妻の娘の年齢。結婚前に妊娠してないか? という点と,エアマットの上に寝転がっている人間を銃殺したら空気抜けるだろという点はかなり気になっていた。きっちりと訳者解説でつっこまれていて安心した。


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