2015年07月11日

モスクワ大公国とロシア帝国をめぐる冒険

ロシア帝国の前身としてモスクワ大公国という国があるが,ではその切り替わりのタイミングはいつか。これが面倒なのは,「モスクワ」から「ロシア」,「大公」から「皇帝」という2つの変化を経ているからである。

実際のところ,一番賢い手段はもう一つ歴史用語を作ってしまって三段階にするというものだ。Wikipediaのロシア・ツァーリ国(Tsardom of Russia)はこれに則っている。ただし,ロシア・ツァーリ国という表記は一般的ではない。山川の各国史など,一般向けのロシア史の概説書では「ロシア国家」ないし単に「ロシア」という表記が最も多いと思われる。いずれにせよ,「帝国」ではないが「ロシア」であるという段階を挟むか,または「ロシア」から「ロシア帝国」への変化(1721年)はさしたる重要な変化ではないとして無視することで,この問題を解決している。

さて,少し気になって調べてみたところ,高校世界史においても,おおよそこの手法がとられているのだが,そこには微細な違いがあってちょっとおもしろかったので簡潔に紹介したい。なお,全て2014年版の世界史Bで,全7冊ある。


A.イヴァン3世の治世で「ロシア」と見なす(1480年)・1721年には言及なし
イヴァン3世の事績により,すでにモスクワからロシアになったとする考え。ポイントとしてはタタールのくびきからの解放(これが1480年),ヨーロッパ=ロシア北東部の統一,ツァーリの称号の使用開始,ロシア正教会の成立(「第三のローマ」理論の確立)。これを取っているのは独創的なことに定評のある山川の『新世界史B』のみで,さすがに独創的過ぎたのではないかと。以下,引用。
・山川出版社『新世界史B』「ロシアでは,モスクワ大公国のイヴァン3世がノヴゴロドなどの東北ロシア諸国を併合し,200年以上に及ぶキプチャク=ハン国の支配からも脱して,ロシア国家の統一を果たした。」(pp.158-159)
「ロシアは15世紀にタタール(モンゴル人)の支配を脱して独立を回復し」(p.234)とあり,以後は特に注記なくロシアの表記。


B.イヴァン4世の治世で「ロシア」と見なす(1547年)・1721年には言及なし
高校教科書としては最多。1547年は内向きな称号に過ぎなかったツァーリが初めて公的に使用された年で,イヴァン4世はこの年に「全ロシアの君主」としての戴冠式まで行っている。他に全ヨーロッパ=ロシアの統一も,初のシベリア遠征が実施されて植民地帝国ロシアとしての出発点となったのも,イヴァン4世の治世となる。この辺りのもろもろを考えると,やはり1547年が一番しっくり来る。以下,それぞれ教科書から引用。
・山川出版社『高校世界史B』「15世紀になると水陸の交易路をおさえたモスクワ大公国が発展し,大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一,(中略)モスクワはギリシア正教圏の中心の地位を確立し,その孫イヴァン4世によるロシア帝国発展の基礎が作られた。」(p.86)
「ロシアでは,16世紀にイヴァン4世(雷帝)が貴族をおさえて専制政治の基礎をかため」(p.141)
→ 非受験用の教科書2冊のうちの1冊。おおよそイヴァン4世の治世からロシアと定義。
・東京書籍『世界史B』「ヴォルガ川支流の水陸交通の要衝にあって発展したモスクワ大公国が,15世紀後半にイヴァン3世のもとで独立を達成した。(中略)イヴァン4世(雷帝)は農奴制を強化しつつ,諸侯勢力をおさえてツァーリ体制を確立し,ロシア帝国発展の基礎を固めた。」(p.135)
「ロシアでは,16世紀にモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が,大貴族をおさえて中央集権化をすすめ,農民の移動を禁じて農奴制を強化した。ギリシア正教会の擁護者となったイヴァン4世は全ロシアの君主として正式にツァーリの称号を用いた。また,彼はヴォルガ川沿いのカザン=ハン国などを征服し,さらにコサックの隊長イェルマークの協力を得てシベリアにも領土を広げた。こうして成立したロシア帝国では(後略)」(pp.245-246)
→ さすがに説明が詳細。しかも,正式にツァーリの称号を用いたこと,それが全ロシアの君主を意味したこと,帝国には植民地帝国という意味合いも含まれること,全てのポイントを押さえている。
山川出版社『詳説世界史B』「15世紀になると商業都市モスクワを中心としたモスクワ大公国が急速に勢力をのばし,大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一,1480年にはようやくモンゴル支配から脱した。彼は諸侯の力をおさえて強大な権力をにぎり,ビザンツ最後の皇帝の姪ソフィアと結婚してローマ帝国の後継者をもって自任し,はじめてツァーリ(皇帝)の称号をもちいた。また彼は農奴を土地にしばりつけて農奴制を強化し,その孫イヴァン4世による中央集権化に道を開いた。」(pp.135-136)
「ロシアでは,16世紀にイヴァン4世(雷帝)が貴族をおさえて専制政治の基礎を固めた。」(p.222)
→ 「ザ・世界史の教科書」は実は断定的な表現を避けている。そこで挿絵の地図を見ると,p.202の1500年頃の地図では「モスクワ大公国」,一方でp.216の16世紀半ばの地図では「ロシア帝国」となっていることから,1547年説をとっていると判断していいだろう。しかし,不親切といえば不親切である。


C.1480年か1547年か判然としない&それ以前の問題・1721年には言及なし
・東京書籍『新選世界史B』「モスクワ大公国はモンゴル勢力と結んで勢力を広げ,15世紀にはロシアをほぼ統一した。15世紀末,イヴァン3世はモンゴルの支配から自立し,滅亡したビザンツ帝国の皇帝のあとつぎを自称し,ツァーリ(皇帝)と名のった。16世紀になると,ロシアは東ヨーロッパの強国に成長した。」(p.86)
→ これは非常に問題のある表記で,まずモスクワ大公国が全ヨーロッパ=ロシアを統一したのはイヴァン4世の治世なので「15世紀」ではないし,モンゴル支配からの自立後なので時系列的にも間違っている。さらに,特に注記なく呼称がモスクワからロシアに変わっており,簡素すぎてかえって読者が混乱するだろう。そもそもイヴァン4世の名前が本文に一切出てこない。おそらくイヴァン4世の治世でモスクワからロシアに変わったと言いたい文章なのだと思うが,明確ではないので判断を保留しておく。なお,『新選世界史B』は非受験組のための教科書であり,確かに細かい説明は不要であろう。しかし,平易な説明と大雑把な説明は別物で,この記述は単なる大雑把では。
・帝国書院『世界史B』「15世紀後半,モスクワ大公イヴァン3世はビザンツ最後の皇帝の姪と結婚し,ビザンツ帝国の後継者として皇帝(ツァーリ)を自称し,1480年にはキプチャク=ハン国の支配から独立した。これ以後,モスクワは「第3のローマ」と称されギリシア正教圏の中心となり,のちのロシア帝国の基礎が築かれた。」(p.107)
「モスクワ大公イヴァン3世が統一に成功したロシアでは,彼の孫イヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリを称した。」(p.162)
→ これもわかりづらい。また,イヴァン3世が全ロシアを統一したということになっているという問題点も同様に抱えている。受験用の教科書としてはまずいのでは。なお,手がかりになればと思って参照した帝国書院の資料集(『タペストリー』)では,16世紀後半の地図に「モスクワ大公国」と書いてあった。謎は深まるばかりである。


D.1547年と1721年の両方で区切る
一番厳密なパターン。1547年でモスクワからロシアになるが,これはまだ帝国ではなく,1721年で「ロシア帝国」が成立すると見なす。ここまで6つの教科書では「ロシア」から「ロシア帝国」への変化を記述したものがなかったが,実教出版だけが唯一記載し,厳密に分けていた。
・実教出版『世界史B』「モスクワ公国は,1380年にキプチャク=ハン国を破ったのち,イヴァン3世のときに,ノヴゴロドなどの諸公国を併合してロシアを統一し,モスクワ大公国と称されるにいたった。イヴァン3世はビザンツとのむすびつきを強め,ローマ皇帝の後継者を任じてツァーリ(皇帝,カエサルが語源)の称号を用いた。このことから,モスクワ大公国は古代ローマ・ビザンツにつぐ「第三のローマ」を自任することになった。」(pp.138-139)
「ロシアでは,16世紀からモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が君主権の強化につとめ,絶対的な権力を持つ専制君主としてツァーリの称号を正式に用いた。(中略)(編註:北方戦争の)戦勝後,ピョートル1世はロシア帝国の成立を宣言し,バルト海にのぞむ地に建設されたペテルブルクを首都とした。」(pp.210-211)
→ これもイヴァン3世のときに全ロシアを統一したことになっている。また,厳密な話をすると,サンクトペテルブルクへの遷都は北方戦争中の1712年だから,ロシア帝国の成立と並べるのはまずいのでは。


総評としては,やはり1547年をもってモスクワ大公国からロシアに変化した,1721年にピョートル1世がインペラトルを称して帝国の成立を宣言したことは高校世界史では重要視されていない,ということになろうか。確かにそれはピョートル1世の西欧化の総仕上げといえる象徴的な出来事ではあるが,世界史の尺度で見ると相対的な重要性は低かろう。重要な契機は押さえつつ,可能な限り簡略化するという高校世界史としては妥当なところでは。

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