2015年10月30日
がっこうぐらし!:原作とアニメの差異について
『がっこうぐらし!』は,ユキの描写について原作とアニメの間に非常に大きな差異があるが,皆さんお気づきになられただろうか。以下ネタバレ全開。
先に原作のユキから見ていく。1巻の1話,ユキの見えている風景が彼女の妄想による幻覚であることが示される。言うまでもなく本来の世界はゾンビがうろついている。彼女の学校生活はとても幸せそうだ。学園生活部の面々以外の,園芸部やクラスメイトとも普通に会話できている。実はその後しばらくユキ視点になっている回があまりないので,ユキが見ている風景の描写は少ない。なので話は4巻まで飛ぶ。21話,ユキがめぐねぇに「現実を見ろ」とでも言っているかのような夢を見る。ここでのユキと学園生活部の面々の距離は遠く,ユキは他の生徒たちに阻まれて近づけない。ユキは明らかに群衆に埋もれている。
そして問題の5巻。26話冒頭
「つらいこともあったけど みんな一緒に乗り越えた だから毎日がとても楽しい うんすごく楽しい ああでも楽しい時間って どうしてこんなに短いんだろう」
とある。一見すると学園生活部での生活が始まってからのことを言っているように思えるが,「だから」という接続詞や「うん」という“確認”を深読みしつつ,「楽しい時間は短い」と取ると,もう少し意味がありそうにも読める。そして29話,ユキはとうとう瀕死のゾンビを認識してしまい,そのとどめをさすことで“目が覚めて”しまった。その後1話とほぼ同じ「学校が好きだ」から始まるユキのモノローグが入るが,この文章,1巻のものとよく見比べてみて欲しい。ほぼ同じではあるが,全く同じではないのである。差異はどこか。それは冒頭も冒頭,最初の二文字。
29話の方は「学校が好きだ」。一方,1話の方は「“最近”学校が好きだ」。
そう,彼女が学校を好きになったのは,1話時点では実に最近のことなのだ。しかもこのモノローグ,学校の設備には触れているが,学園生活部以外の人間たち,楽しく会話していたはずのクラスメイトの存在が一切出てこない。
さらに,原作の海法紀光氏によるあとがき。これは『がっこうぐらし!』をある種象徴する言葉として,感想・批評ではしばしば引用されている。その意味も含めて,九州人さんが良く論じているのでリンクしておく。
・『がっこうぐらし!』に描かれた「命がけの日常」は現実の学校生活の写し鏡である(新・怖いくらいに青い空 )
・『がっこうぐらし!』総評(アニメおよび原作第1〜6巻について)(新・怖いくらいに青い空 )
ゾンビは学校生活における理不尽の象徴だ。ユキはその理不尽の最大の被害者なのだろう。我が身を振り返っても,確かに学校生活はサバイバルであったと思う。別にいじめや教師の理不尽等があったわけではないが,今考えるとくだらないような悩みで,当時の我々は真剣だったのだ。
ここでアニメの方に目を向け,原作との差異を見る。1話の描写だけを見るとユキの見えている風景は原作と同じなのだが,最終話は全く違う。最終話でユキがみーくんを救うために放送室から話した内容は「下校の時刻のお知らせ」であり,ゾンビたちが生前の行動を取る傾向があるのを利用したものだ。ここでも原作の1話とほぼ同じ,「学校が好きです」から始まるユキの語りが入るのだが,ここにも決定的な違いがある。クラスメートへの言及があるのだ。その後,ユキの回想が入るが,クラスメートたちに軽くいじられている様子である。ユキの方も嫌がっておらず,明らかに親しげだ。一方,原作の放送は避難訓練の指示である。ゾンビたちの習性を活かした点は同じながら,「学校が好きだ」の語りはなく,みーくんとくるみへの呼びかけのみだ。ここに至って,差異は明白になる。原作のユキの「学校が好きだ」には,強迫観念的なものすら感じる。
さて,このような描写の違いを確認した上で,その設定の差異を推測して,仮説を立ててみた。
仮説:原作のユキは,ゾンビ化ウイルス散布前の学校が楽しくなかった。深刻ないじめに遭っていたわけでもなさそうだが,クラスの中では“浮いた”存在であり,くるみやりーさんと親交が持てるような階層ではなかった。めぐねぇにべったりの生活だった可能性もある。そこで妄想を生み出す際に,ゾンビの存在を消し去ると同時に,学校生活も楽しいものにした。すなわち原作のユキは妄想が二重である。一方,アニメのユキは多少とろい子という扱いではあったかもしれないが,クラスメイトと疎遠だったわけでは決してなかった。すなわち,原作とアニメの設定の違いは,ゾンビ化ウイルス散布前のユキの学校生活ということになる。
さらにこの違いが生じた理由を推測してみたい。原作はじっくり話を進めることができるので,ゾンビが学校における理不尽の象徴という意味合いを練り込みながら,物語が進行した。ユキはその理不尽を一身に受ける存在として描写することが出来たし,読者の共感を促すこともできた。しかし,アニメは尺が短く,そういった要素を練り込んでいる余裕がない。しかも,2期があるかもしれないにせよ,一度物語を切る以上はそれなりにハッピーエンドにしなくてはならない。原作のような,ある種の悲壮感漂う卒業式には出来ないのだ。
確かに学校生活はサバイバルだ。しかし,多くのものにとってはサバイバルだっただけではなく,本当に楽しかったのではないか。原作のユキのように辛いだけだったというような人はそう多くないのではないか。原作のままのコンセプトだと,尺の事情で説明不足に陥り,視聴者自身の学校体験と共感を喚起するのは困難に思われた。そこで,いっそのことユキが浮いてなかった設定に変更した上で,「楽しかった学校生活からの卒業」という側面を前面に持ってきて,サバイバルとしての学校生活は後退させた……というのが設定変更の事情ではないかと思う。
これに伴い,りーさんの精神耐久力も上がっていて,アニメだとゾンビ化しかかっているくるみを刺せない。刺せないという描写をわざわざしたのは大きい。学校の火事の範囲も異なる。原作だと生活領域のかなりが燃えてしまっていて,廃墟の中での卒業式という雰囲気だが,アニメだと屋上以外は無事なので,綺麗な教室での卒業式である。また,アニメの最終話,ユキの下校の放送で,ユキは「また会える日が来るはず」とゾンビたちに語りかけており,かつ一度はゾンビ化してしまった太郎丸が薬剤投与により,短時間ではあるが正気を取り戻していたという点も,差異としては気になる。原作だと,くるみが明らかに人間離れし始めている以外に描写自体がない。
大本の設定を変更した上で,他の設定も波及的に変更し,原作となるべく共通するようにイベントをこなしつつ,設定の変わったところは,変わったことをわかりやすく描写する。総じて,非常に納得感の強いアニメ化だったのには理由があるのだなという思いであり,見事なアニメ化に称賛の声を送りたい。この考察をもって,私の『がっこうぐらし!』のアニメ,及び原作1〜5巻までの感想・批評とします。無論6巻も読み終わっているのだけれど,これはまた別の機会に。
そして問題の5巻。26話冒頭
「つらいこともあったけど みんな一緒に乗り越えた だから毎日がとても楽しい うんすごく楽しい ああでも楽しい時間って どうしてこんなに短いんだろう」
とある。一見すると学園生活部での生活が始まってからのことを言っているように思えるが,「だから」という接続詞や「うん」という“確認”を深読みしつつ,「楽しい時間は短い」と取ると,もう少し意味がありそうにも読める。そして29話,ユキはとうとう瀕死のゾンビを認識してしまい,そのとどめをさすことで“目が覚めて”しまった。その後1話とほぼ同じ「学校が好きだ」から始まるユキのモノローグが入るが,この文章,1巻のものとよく見比べてみて欲しい。ほぼ同じではあるが,全く同じではないのである。差異はどこか。それは冒頭も冒頭,最初の二文字。
29話の方は「学校が好きだ」。一方,1話の方は「“最近”学校が好きだ」。
そう,彼女が学校を好きになったのは,1話時点では実に最近のことなのだ。しかもこのモノローグ,学校の設備には触れているが,学園生活部以外の人間たち,楽しく会話していたはずのクラスメイトの存在が一切出てこない。
さらに,原作の海法紀光氏によるあとがき。これは『がっこうぐらし!』をある種象徴する言葉として,感想・批評ではしばしば引用されている。その意味も含めて,九州人さんが良く論じているのでリンクしておく。
・『がっこうぐらし!』に描かれた「命がけの日常」は現実の学校生活の写し鏡である(新・怖いくらいに青い空 )
・『がっこうぐらし!』総評(アニメおよび原作第1〜6巻について)(新・怖いくらいに青い空 )
ゾンビは学校生活における理不尽の象徴だ。ユキはその理不尽の最大の被害者なのだろう。我が身を振り返っても,確かに学校生活はサバイバルであったと思う。別にいじめや教師の理不尽等があったわけではないが,今考えるとくだらないような悩みで,当時の我々は真剣だったのだ。
ここでアニメの方に目を向け,原作との差異を見る。1話の描写だけを見るとユキの見えている風景は原作と同じなのだが,最終話は全く違う。最終話でユキがみーくんを救うために放送室から話した内容は「下校の時刻のお知らせ」であり,ゾンビたちが生前の行動を取る傾向があるのを利用したものだ。ここでも原作の1話とほぼ同じ,「学校が好きです」から始まるユキの語りが入るのだが,ここにも決定的な違いがある。クラスメートへの言及があるのだ。その後,ユキの回想が入るが,クラスメートたちに軽くいじられている様子である。ユキの方も嫌がっておらず,明らかに親しげだ。一方,原作の放送は避難訓練の指示である。ゾンビたちの習性を活かした点は同じながら,「学校が好きだ」の語りはなく,みーくんとくるみへの呼びかけのみだ。ここに至って,差異は明白になる。原作のユキの「学校が好きだ」には,強迫観念的なものすら感じる。
さて,このような描写の違いを確認した上で,その設定の差異を推測して,仮説を立ててみた。
仮説:原作のユキは,ゾンビ化ウイルス散布前の学校が楽しくなかった。深刻ないじめに遭っていたわけでもなさそうだが,クラスの中では“浮いた”存在であり,くるみやりーさんと親交が持てるような階層ではなかった。めぐねぇにべったりの生活だった可能性もある。そこで妄想を生み出す際に,ゾンビの存在を消し去ると同時に,学校生活も楽しいものにした。すなわち原作のユキは妄想が二重である。一方,アニメのユキは多少とろい子という扱いではあったかもしれないが,クラスメイトと疎遠だったわけでは決してなかった。すなわち,原作とアニメの設定の違いは,ゾンビ化ウイルス散布前のユキの学校生活ということになる。
さらにこの違いが生じた理由を推測してみたい。原作はじっくり話を進めることができるので,ゾンビが学校における理不尽の象徴という意味合いを練り込みながら,物語が進行した。ユキはその理不尽を一身に受ける存在として描写することが出来たし,読者の共感を促すこともできた。しかし,アニメは尺が短く,そういった要素を練り込んでいる余裕がない。しかも,2期があるかもしれないにせよ,一度物語を切る以上はそれなりにハッピーエンドにしなくてはならない。原作のような,ある種の悲壮感漂う卒業式には出来ないのだ。
確かに学校生活はサバイバルだ。しかし,多くのものにとってはサバイバルだっただけではなく,本当に楽しかったのではないか。原作のユキのように辛いだけだったというような人はそう多くないのではないか。原作のままのコンセプトだと,尺の事情で説明不足に陥り,視聴者自身の学校体験と共感を喚起するのは困難に思われた。そこで,いっそのことユキが浮いてなかった設定に変更した上で,「楽しかった学校生活からの卒業」という側面を前面に持ってきて,サバイバルとしての学校生活は後退させた……というのが設定変更の事情ではないかと思う。
これに伴い,りーさんの精神耐久力も上がっていて,アニメだとゾンビ化しかかっているくるみを刺せない。刺せないという描写をわざわざしたのは大きい。学校の火事の範囲も異なる。原作だと生活領域のかなりが燃えてしまっていて,廃墟の中での卒業式という雰囲気だが,アニメだと屋上以外は無事なので,綺麗な教室での卒業式である。また,アニメの最終話,ユキの下校の放送で,ユキは「また会える日が来るはず」とゾンビたちに語りかけており,かつ一度はゾンビ化してしまった太郎丸が薬剤投与により,短時間ではあるが正気を取り戻していたという点も,差異としては気になる。原作だと,くるみが明らかに人間離れし始めている以外に描写自体がない。
大本の設定を変更した上で,他の設定も波及的に変更し,原作となるべく共通するようにイベントをこなしつつ,設定の変わったところは,変わったことをわかりやすく描写する。総じて,非常に納得感の強いアニメ化だったのには理由があるのだなという思いであり,見事なアニメ化に称賛の声を送りたい。この考察をもって,私の『がっこうぐらし!』のアニメ,及び原作1〜5巻までの感想・批評とします。無論6巻も読み終わっているのだけれど,これはまた別の機会に。
Posted by dg_law at 07:30│Comments(0)│