2016年04月07日

授時暦は“何の影響”を受けて成立したのか?

受験世界史(高校世界史)の闇をほじくるシリーズ。


1.授時暦とは
「授時暦」は元朝で施行された暦で,郭守敬を中心とした科学者グループによって作成された。この授時暦の作成は,二つの理由から世界史上の特筆すべき事象とされる。
・前近代の科学史において,最も精確な太陰太陽暦の一つであること。
・イスラーム世界の天文学の影響を受けており,パックス=モンゴリカ下の東西交流を象徴する成果であること。
特に後者を理由に,高校世界史上でも郭守敬と授時暦は最重要項目となっている。センター試験でも出題されるし(そういえばいつぞやの出題ミスも授時暦絡みであった),各種私大・国公立大の二次試験でも出る。中でも東大は東西交流史を極めて好むため,驚くほど出題率が高い。何と2007・2011・2015年と近い間隔で,しかもそれぞれ論述の重要なファクターとして出題がある。

2.受験世界史参考書の記述の混乱
ところが,これだけ重要な事項であるにもかかわらず,参考書やネット上の文献では,実に多様な表現が見られる。代表例を以下に挙げる。

・イスラーム“天文学”(アラビア“科学”)の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦学”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦法”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム“暦”(ヒジュラ暦)の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。
・イスラーム暦の中で最も精確とされる“ジャラリー暦”の影響を受けて,郭守敬は授時暦を作成した。

なお,天文学・暦は自明なのでよいとして,暦法・暦学とはなんぞやという方もおられると思う。それぞれ代表例として辞書(コトバンク:デジタル大辞泉)の意味を載せる。
・暦学:天体の運行の観測や暦を作ることに関する学問。
・暦法:こよみに関する学問。また,暦を作る基準。法則。
つまり,暦学は天文学に近い意味合いで,天体運行の観測を含む。その目的が暦の作成に限定されるだけであるから,現代的な意味での天文学の下位概念にあたる(そもそも前近代の東アジアでは暦学と天文が区別されていたが,現在ではどちらも「天文学」である)。一方,暦法は,天文学の成果を受けた後のカレンダーの作り方を指し,とりわけ東洋の暦では二十四節気の振り方や吉兆を占う日食の日付等も含まれる。太陽暦・太陰暦・太陽太陰暦の違いも当然暦法の違いになるし,同じ太陽暦でもユリウス暦とグレゴリウス暦では暦法が違う。旧暦2033年問題なんかは純粋な暦法の問題であろう(それを国立天文台が扱っている辺りは,暦法の研究と天文学の近さを感じさせるものではあるけど)。


これらの表現は正確なのか? 今回はこれを追ってみた……が,結果を言う前に二つ書いておくべきことがある。まず,実はこれまでの「受験世界史(高校世界史)の闇シリーズ」と異なり,教科書の表現は7冊とも一貫している。「イスラーム“天文学”」である。実教出版のみ“暦学”を併記している。つまり,この混乱は非公式的な文献,参考書の類に限定されることは先に述べておきたい。(まあ,この辺で今回の結論が読めた方もいるかと思うが,それで正解である。)

次に,今回の調査に先立って,実際のバリエーションを把握するべく某大手書店の世界史参考書コーナーを片っ端から立ち読みしてきたのだが,未だもって「モンゴル人第一主義」「オゴタイ・ハン国」「ラマ教」と書いている参考書の多さにめまいがした。出版年が古いのなら許されるが,ほとんどは2013年以降の出版であった。山川出版社の名誉のために書いておくと,あそこの参考書はこれらの記述がなく、またイスラーム天文学で統一されていたので,執筆者によらず編集部の校正が入っているのだと思われる。他社は執筆者の原稿ノーチェックなのではないか。他のページに良い記述があるかもしれないから全く価値がないとは言わないけど,モンゴル帝国史・元代について言えばゴミとしか言いようがない。


3.授時暦はイスラーム世界から何を摂取したのか?
これについては,実のところ前回のフランス東インド会社と違って,非常にあっさりと文献が手に入る。科学史上の金字塔であるジョゼフ・ニーダム著『中国の科学と文明』があり(完全な邦訳がある),さらに中国天文学史・暦法研究の大家である藪内清京大名誉教授の諸著作があり,後続の研究もそれなりに盛んである。それらの文献を読むと,これまた今回欲している答えに簡単に当たることができる。

郭守敬が参照したのは,科学的な意味でのイスラーム天文学のみである。それも観測機器の採用のみに絞られる可能性が高い。ジャマール・アッディーンなるペルシア人がイスラーム天文学を中国に持ち込んだのは事実である。しかし,郭守敬がそれをどの程度参照したかは不明であり,導入が確実視されているのは観測機器のみである。また,イスラーム科学を含む古代オリエント・ギリシア由来の天文学は黄道座標系を用いていたが,中国の天文学は伝統的に地球の赤道が基準であった。郭守敬はイスラーム伝来の観測機器を導入した上で,中国式の赤道座標系のものに改良して観測結果を記録し,その記録を基に授時暦を完成させた。赤道基準の方が精確な観測結果になると気づいたからであるとも,単純に中国の伝統に則ったとも言われている。郭守敬を高く評価する向きの研究者は当然前者の説を採っている。

いずれにせよ近代天文学は赤道座標系を用いているが,イスラーム以西の天文学が初めてこれを採用したのは郭守敬に遅れること300年後の,ティコ・ブラーエだそうだ。ニーダムはティコ・ブラーエが自主的に赤道基準の重要性に気づいたとは考えづらいとし,授時暦を参照した可能性を指摘しているが,これについては現在でも定説がなく議論が続いている。ニーダムの主張が実証されれば,科学史が大きく書き換わるところだ。また,薮内清氏が「イスラーム天文学の影響は観測機器の改良に限定されるのであるから,これを強調するのは郭守敬の独創性を損ねることになるし,中国天文学の成果を矮小化することになる」と随所で書いていたのは印象的であった。現在の高校世界史の「グローバルヒストリーの申し子」的な存在になっているのを見たら,どういう感想を持つだろうか(氏は2000年に亡くなっている)。これについては私自身も授時暦を便利に使っているところがあるので,若干反省している。

そして,授時暦は“暦法としては”純粋な中国の暦である。そもそも中国王朝の皇帝にとって暦を示すことは「天子」として重要な仕事であった。天の法則を民に与えるのである。もちろん実態としては政府が天体観測をさせる役所を設置し,その観測結果を基に,伝統的な暦法に則って暦を作成させた。モンゴルが出自の元も,フビライが中国統治の正統性を示す上でその必要性を感じたために,暦の作成を郭守敬らに命じている。ここにイスラーム由来の暦法の要素が混じっていたら,目的を損なうことになる。

ついでに言うと,イスラーム暦自体はそれ以前から中国に入ってきているから(唐代の長安や広州にだってムスリムはいた),わざわざ元の時代になってから参照する意味は無い。また,イスラーム暦は完全な太陰暦で一年が354日であり,太陰太陽暦で一年を365.2425日とした授時暦とはそぐわない。また,ジャラリー暦は太陽暦であるから,やはり太陰太陽暦の授時暦の参考にはならない。目にしていた可能性はあるが,目にしていたら記録に残るだろうし,諸研究者が言及しないはずがないので,おそらく目にしたことがないか,読んでいても授時暦の成立に影響が無かったというのが現在の研究の成果と考えてよいだろう。


4.結論

・イスラーム“天文学”(アラビア“科学”)の影響を受けて:○
→ 最も適切な表現。
・イスラーム“暦学”の影響を受けて:○
→ セーフではあるが,暦法と暦学が混同されている様子の現在の高校世界史においては,使わないほうが紛らわしくなくていいかも。
・イスラーム“暦法”の影響を受けて:×
・イスラーム“暦”(ヒジュラ暦)の影響を受けて:×

→ これらはアウト。
・“ジャラリー暦”の影響を受けて:極めて高い確率で×
→ “暦法”とヒジュラ暦についてはまだ「誤解の産物」という雰囲気があるが,これは出典不明で,受験世界史の参考書以外では一切見ない。これまたどういう経緯でこの説が出てきたのか気になるところ。

ところで,先ほど「教科書の表現は7冊とも一貫してイスラーム“天文学”である。」と書いたが,旧課程の用語集は教科書を同じ表現だったのに対し,2014年からの新課程の用語集は「イスラーム暦法の影響を強く受けた太陰太陽暦」とある。つまり,表現が後退している。これは由々しき問題であると思う。