2016年04月23日

黄金のアフガニスタン

キュベーレ女神円盤東博の黄金のアフガニスタン展に行ってきた。本企画展はある意味で展覧会の内容よりも開催の経緯の方が重要であるので,先にそちらに触れておきたい。

カブールのアフガニスタン国立博物館は1979年以後,長らく文化財破壊の危機にさらされ続け,特に1989年にソ連が撤退すると情勢が悪化した。タリバンが成長し,彼らが故意の文化財破壊を行っていたことと,内戦がカブール市街にまで及び始めたことがその原因である。実際に1990年代に,多くの博物館収蔵品が破壊されて灰燼に帰したか,略奪に遭ったとされる。しかし,博物館職員たちは極秘裏に最重要収蔵品を選び抜いて,それらを大統領官邸の地下金庫にしまいこんでいた。この行為は当時の政権はおろか,職員の家族にさえ秘密にされていたそうだ。そして米軍が進駐したことである程度安全が確保されたと判断されたため(皮肉にも“比較的安全”と判断されたのはソ連軍か米軍がいた時期なのである),2004年に地下金庫の存在が職員から明らかにされ,失われたと思われていた収蔵品の数々が約15年ぶりに世界に“蘇った”のである。「映 画 化 決 定」と茶化しが入るレベルの奇跡的な展開であるが,そういえば映画化の話とかハリウッドの方から来ていないのだろうか。(あった上で断っていてもおかしくはないが。)

しかし,その後もアフガン情勢が安定しないため,旧地下金庫の収蔵品はこうして国際展覧会として各国を巡回し,避難しつつ復興資金を稼いでいるというのは,巡回先の我々にとってはありがたいことだが,カブールの人々にとっては必ずしも喜ばしいことではない。ただし,本展覧会の開催の経緯はこういったことであるということは,鑑賞者も知っておいたほうがよい。ついでに,今回を機会として日本が保護していた流出文化財約100点がアフガニスタン国立博物館に返還されたことも。


そうして最重要を判断されて選ばれた品々であるが,タリバンの破壊を避けるためという目的だったこともあってか,圧倒的にプレ・イスラームの時期のものであった。展覧会は発掘された場所にしたがって大きく4つに分かれており,それぞれ青銅器文明時代,ヘレニズム時代(バクトリア王国),遊牧民の時代,クシャーナ朝時代である。

青銅器文明時代の遺跡テペ・フロールからは多数の黄金の器が発掘されているが,おそらくはメソポタミア文明とインダス文明の交易にかかわり,ラピスラズリを供給していたのではないかとされる。金細工はまだまだ原始的だが,メソポタミア文明の出土品としてルーヴルで見たものに近いなとは思った。図録にもそのようなことが書いてあった。

次にやってきたギリシア人たちの都市遺跡アイ・ハヌムは,完全なギリシア風都市だったようだ。出土品にも,どこかで見たことあるようなアンフォラ(壺・水差し)や人体彫刻が多数見られる。列柱の部分も展示されていたが,見る人が見たら一発でわかる見事なコリント式であった。当たり前のことだが,本当にアレクサンドロスの遠征はここまで来てギリシア人たちが多数移住したのだなぁと実感させられる。ギリシアで発掘されるようなものとほぼ同じものがアフガニスタンでの出土品として見れることのすごさである。ただし,大理石が無かったので,様々な代用品が用いられたことには注目してよい。それも一種の土着化というか,文明の融合であろう。笑ったのはある円盤(今回の画像)で,一つの円盤の中にヘリオス(ギリシア)とニケ(ギリシア)とキュベーレ(小アジア)が入っていて,彼女らが乗っている戦車とそれを祀っている神官の装束は明らかにメソポタミア風という混在具合である。すでにこういうことは起きてたんだなぁと思う一方で,ここまでは全て西から来たものばかりである。

遊牧民時代の遺跡ティリヤ・テペでは,その時代の王侯貴族とみられる人物の墳墓からの出土品が展示されていた。この墳墓自体が前500年頃の拝火教神殿跡地に,後1世紀頃に作られたものだそうだが,これはその宗教が滅んでも神殿自体は聖地と見なされていたということだろうか。埋葬された遊牧民の民族はよくわかっていない。パルティア系あるいは月氏,あるいはサカ族という説もある。バクトリア王国の末期からクシャーナ朝が成立するまでの間は実に様々な遊牧民が侵入しているので,特定は容易ではない,と図録にも書いてある通りである。なお,月氏とすると次のクシャーナ朝の直系の先祖になる。ここで見られる展示品は,ベルトや短剣・冠など,これまた明らかにスキタイや匈奴の影響の強いもので,既存の文明とはまた全く違ったものがここで入ってきたことがうかがわれる。青銅器文明のものとは打って変わって,細工の細かい実に見事な金細工を見ることができる。一方,この墳墓からはアテナやクピドらしき人物像やギリシア語による刻銘,パルティアの銀貨等も出土されており,以前の文化は失われたわけではなく,蓄積されていったことも見て取れる。さらに,すでにサンスクリット語の文と法輪の入ったメダイヨンも発掘されており,すでに大乗仏教の導入期に入っていたこともわかっている。

最後に出てくるクシャーナ朝時代の遺跡べグラムは,アレクサンドロス大王の遠征以後に栄えた都市で,特にクシャーナ朝の時代に繁栄した。玄奘の『大唐西域記』までは繁栄の記録があるが,いつの間にか遺跡と化しており,次に脚光を浴びるのは1937年にフランスの調査隊が発掘作業を始めてからになる。ここからの出土品はもう完全なガンダーラ美術で,ここに来て蓄積されたギリシア美術と新興の大乗仏教が完全に融合した。一方で,石膏ではなく象牙,ガンダーラというよりはグプタ様式な,純インド風の彫刻もかなりあって,ちょっと驚いた。インドからの輸入品という形では,すでに入ってきたのである。また,この時代にあってもまだヘラクレス像や,ローマ・エジプトからの青銅器・ガラス器何かも出土されている。内陸のアフガニスタンの人々に,海をイメージさせるポセイドンや魚を模したローマ産の青銅器が大受けしていた,というのはなかなかおもしろい話だ。出土品には中国からの漆器もあり,ここに来て東西南北の全ての文化が流れていく「文明の十字路」たるアフガニスタンの姿がはっきりと浮かび上がってきた。


アフガニスタン国立博物館からの出品は以上になるが,本展覧会では他に,前述の日本から返還される流出文化財約100点のうち,15点が展示されていて鑑賞することができる。また,残りの約90点は同時期に東京芸大博物館の方で展示されており,合わせて訪れれば全品鑑賞することが可能である。


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