2016年06月09日

書評:『三国志』宮城谷昌光著,文春文庫

実はとうの昔に読み終わっていたのだけれど,書評を書くタイミングを逃したままここまで来てしまった。なにせ7・8巻の書評が3年前である。このまま9〜12巻は書評無しでもいいかとも思ったが,しかし12巻通した総評くらいは書かないと踏ん切りがつかなかったので,短くまとめておく。

しかし,3年経ったからこそ書けることもある。本書の世評が落ち着いているということである。本書の世評は毀誉褒貶なのだけれども,宮城谷昌光らしさという点では及第点であるが,三国志ファンの視点からすると物足りない作品とも言えるかもしれない。以下の3つの記事・Togetterは,当時の三国志ファン界隈の雰囲気が非常によくわかるものになっている。あえて言えばTogetterだけでも十分かもしれない。

・三国文化のバトンを持たずに疾走した有能なランナー宮城谷氏について(Togetter)
・『三国志読本』の感想ツイート(いつか書きたい『三国志』)
・宮城谷昌光『三国志読本』への批判 「新しい三国志」について(三国与太噺)

要するに,三国志ファン視点から見た時の不満は「今更『正史』を大正義のように持ってこられても,その,困る」ということに端を発している。3つめの三国与太噺の記事にある通り,日本の三国志は演義・正史・それ以外の文献のいいとこ取りで形成された特殊さや多様性があってそこがおもしろいところというのは私自身100%同意する意見である。別に桃園の誓いがあってもなくても,魏延が粗忽者の裏切り者であってもなくてもかまわないのである。確かに,この日本の状況で今更『正史』第一主義を主張されても,それも中国歴史小説の大家がこれこそ新規性とうたって乗り込んできても,かえって陳腐さしかない。

ただし,Togetterの末尾にあるような擁護は可能かもしれない。宮城谷三国志の連載開始は2001年である。宮城谷氏が執筆を始める準備段階(90年代末)では,まだまだ日本版三国志=『演義』という時代だった,という可能性はある。調べてみるとちくま文庫の『三国志(正史)』の出版が1992〜93年,『蒼天航路』の連載開始が1994年であるから,90年代末はまだ『演義』以外の文献の普及期だったと言えるかもしれない。またTogetterの末尾のyunishioさんの指摘は重要で,ネットの住民でも実際に正史が広がり始めたのは2001〜03年頃とすると,宮城谷三国志連載はむしろ時宜を得ていたとすら考えうる。すると宮城谷氏にとっての悲劇は約13年間走り続けている間に日本の三国志ファンの側が大きく変わってしまった,ということになろう。

なお,自分が初めて三国志(横山光輝と吉川英治,そして三好徹の『興亡三国志』)を読んだのも中学生だから2000年頃だが,当時の“大人の”空気はさすがに知らない。『蒼天航路』はうちの高校ではそれなりにメジャーな漫画であったし,『真・三國無双』のプレイ人口も多かった。ただ,じゃあその原典となる『演義』や『正史』となると踏み込んでいる人は極少数であり,話題にはならなかった。この辺の事情は2000年代前半ならどこの高校でも同じだったのではないか。大学生になって,ネットのあれこれを読むようになった2005〜06年頃には,もう「正史派VS演義派」という議論自体が“懐かしい物”になっていて,上述のような風潮だったかと思う。


はてさて,ここまで自分の感想を一切書かずに世評の分析だけをまとめてきたのだが,Togetter内にある「宮城谷氏を読む前からの三国志ファンで、宮城谷氏のファンだと言う方に、宮城谷三国志の感想を聞いてみたいもの」にお応えして,その一人して,ここからは自分の感想を述べていくが,実のところ三国志としては十分に面白かったという高評価だったりする。確かに,一人の三国志ファンとして「日本の三国志ファンは『演義』しか知らない」という氏の発言はイラッとしたし,思うところはある。しかし,『正史』と『資治通鑑』にベタッとくっついた小説だったかというと,意外とそうでもなかったように思う。採用した出来事やクローズアップするマイナーな人物の描写から言えばその通りであるが,主役級の人物の解釈や評価については宮城谷氏のオリジナリティが強く,読みどころはそこであった。白眉は劉備の描写であるが,これは7・8巻の書評の時に書いているのでリンクを張るに留めたい。

その上で,まず,Togetter内で全く同じことを言っている人がいてちょっと安心したのだが,本作は良くも悪くも圧倒的に史書の翻訳であり年表であった。宮城谷氏の作品はもとよりその傾向はあるが,三国志は特にこの傾向が強く,特に曹操と劉備が全く話に絡まない部分ではこの傾向が強くなった。というよりも結局のところ小説として描きたかったのは劉備と曹操だけ(あと諸葛亮と司馬懿かな)であり,あとは「こんな隠れた好漢を史書から発掘したので紹介します」ということに徹していたような気もする。我々が読みたかったのは小説であって史書の翻訳ではないのである。正史の紹介という意識が強すぎて,こういうことになったのかもしれない。次に,その影響もあってか,本作は曹操の躍進が始まる4巻から劉備が死ぬ8巻までは無茶苦茶おもしろいが,その前後は史書の翻訳傾向が強くなるアンバランスさがある。それもあって9巻以降の書評は書くことがあまり見当たらず,放置してしまったというのは言い訳として挙げておきたい。

さらに,世評も踏まえた上で書くならば,十分におもしろい三国志ではあったが,三国志小説の新たな金字塔にはなりえなかったのもまた確かであるかなとも思う。極めて長く,しかもスタートが黄巾の乱の百年近く前であることもあってとっつきづらく,それを乗り越えて「00〜10年代の代表的な『三国志』はこれを外せない」という評価にも至らなかった。「(劉備が)おもしろい三国志」の枠は出ていないのである。ましてや宮城谷昌光の代表作に本作を挙げる人も出てこないだろう。これは完結して3年経ったからこそ,実際にいないのを見て確信できてしまったことである。つまるところ,“あの”宮城谷昌光が10年以上の歳月をかけておきながら,塩野七生にとっての『ローマ人の物語』にあたるものを書けなかったということではないか。世間がかの大作家に課したハードルはかくも高かったのである。



三国志 第十二巻 (文春文庫)
宮城谷 昌光
文藝春秋
2015-04-10



この記事へのコメント
これは宮城谷先生がその深い人間洞察と純度の高い文章を駆使して、夏商周や春秋戦国時代といった、日本人に馴染みがなかった時代を開拓した作家だからこそ起こった悲劇というべきでしょうかね。
三国時代は先生が今まで開拓してきた春秋戦国と違って、多くの日本人によって開拓されている耕田であり、宮城谷先生が開拓する余地はなかった。
開拓するには特別な工夫やリサーチが必要だった。
結果として先行研究の参照やリサーチを怠ってしまったのは、宮城谷先生の失敗といえるかもしれません。


私も宮城谷ファンですが、序盤がつまんなすぎて一、二巻を買った後は放置してました。
個人的には、項羽や劉邦を友、臣、敵の目から描いた『長城のかげ』が面白く味わいがあったので、またああいった短編集を書いて三国志のリベンジをしてほしいです。
宮城谷先生による様々な視点からの、曹操、劉備、孫権像が見てみたい。
Posted by N at 2016年06月19日 09:40
記事中に貼ったTogetter内でも言われてましたけど,そういうことかもしれませんね。
宮城谷先生にとっては,すでに「他の作家によって開拓されて切っている地」というのが意外にも未知の分野で,それゆえに原典漢籍以外の先行研究の参照やリサーチを無視してしまった。そして起きてしまった事故なのかも。

おっしゃる通り,短編ならいけるかもしれません。劉備だけ切り取って,『三国志』中のあの劉備が描けるのならば,評価を覆せるかも。
Posted by DG-Law at 2016年06月19日 22:59
いえ、いえ、近年このような心躍る作品に会ったことがない。77歳にはやや難解でしたが、誰かにこの感動を伝えたかった。後漢から始まる序奏が圧巻でした。まるで、四十七士の討ち入りのような。宮城谷氏作品を読んでいれば時代の背景も人物も理解でき、素晴らしい作家です。

小説に、映画に、ドラマに読みつくされ、今更と思って氏のフアンなのによけていました。しかし、この壮大な史実のドラマに圧倒されました。

文春さん是非、宮城谷昌光氏に伝えてください。この感動を。
 
                  北九州の果てに住む老女より
Posted by てんてん at 2018年03月25日 20:01