2016年08月26日
イスラーム型の民主主義は成立しうるか
・中東で民主主義が定着しない「本当の理由」 〜イスラームをめぐる2つの問題について(賢者の知恵 | 現代ビジネス)
私の中の問題意識にありつつ案外と他の人が指摘している場面を見ないので,この記事で指摘されているのを読んでちょっと驚いてしまった。近代ヨーロッパの発明とは民主主義と自由主義(基本的人権の擁護)は両輪であって,片方が欠ければ長期的には腐敗するということではなかったか。啓蒙専制や自由主義的専制は,夢はあれど時代の徒花であろう。
そして,イスラーム教という宗教自体に民主化を阻害する要因があるのではなく,社会の世俗化がなされていないことが大きな要因である,という本記事の主張には同意する。基本的人権が守られるには明確な政教分離とまではいかなくとも,人権と宗教的価値が衝突した時に人権が優先されるという社会の風潮は最低限必要で,それが達成される程度には世俗化が必要不可欠になろう。イスラーム的な価値観を盛り込んだ憲法・法律が作られること自体は問題ではない。勘違いされると困るので書いておくが,そもそもそんな無色透明な社会制度は無く,制度設計は近代の価値観と既存の歴史・文化の融合によって形成されるべきだ。ただし,その既存の価値観に則った法律によって抑圧される人権があってはならないのである。
その意味で,私は近代型民主主義ではない(少なくとも現在の意味での)イスラーム型民主主義が成立しうるとはほとんど信じていない。これでもイスラームの民主化にはかなり期待する立場に立っているので,記事中の「「イスラーム的民主主義」を体現するものと期待されたトルコの公正発展党やエジプトの自由公正党が強権的な政治運営に手を染めていったことは、イスラームにとっても民主主義にとっても不幸なことであった。」には強く同感である。イランは言うに及ばず。また近年のマレーシアやインドネシアは上手くいっているが,これらは単純に世俗化が進んだ地域であると言ったほうがいいだろう。
一方で,ひょっとしたら人類はこの先,自由主義と民主主義と「世俗化されない社会」をすべて両立させた政治・社会を作りうるのかもしれない。あるいは自由主義を欠いたまま,しかし民主主義が持続する世俗化されない社会が成立しうるのかもしれない。それらが成立したら,その時は確かに,西欧に起源を持つ近代型の民主主義とは全く違う,イスラーム型民主主義が成立したことを認めざるをえない。私はそれが成立するとはほとんど信じていないけど,それが現在の中東のイスラーム教徒の目標だとするなら,その苦慮苦闘自体は否定しない。積極的に応援する気はないが,こっそり見守っていたい。
ところで,西欧型民主主義とうっかり書いてしまいがちだけど(私自身最初は西欧型と書いてしまった),近代型民主主義がより適切であろう。なんというか,この書き方自体がヨーロッパ中心史観に陥っていて,イスラーム教徒が多数派の国家が民主化するはずがないという偏見含みな印象があるのだが,うがちすぎだろうか。
私の中の問題意識にありつつ案外と他の人が指摘している場面を見ないので,この記事で指摘されているのを読んでちょっと驚いてしまった。近代ヨーロッパの発明とは民主主義と自由主義(基本的人権の擁護)は両輪であって,片方が欠ければ長期的には腐敗するということではなかったか。啓蒙専制や自由主義的専制は,夢はあれど時代の徒花であろう。
そして,イスラーム教という宗教自体に民主化を阻害する要因があるのではなく,社会の世俗化がなされていないことが大きな要因である,という本記事の主張には同意する。基本的人権が守られるには明確な政教分離とまではいかなくとも,人権と宗教的価値が衝突した時に人権が優先されるという社会の風潮は最低限必要で,それが達成される程度には世俗化が必要不可欠になろう。イスラーム的な価値観を盛り込んだ憲法・法律が作られること自体は問題ではない。勘違いされると困るので書いておくが,そもそもそんな無色透明な社会制度は無く,制度設計は近代の価値観と既存の歴史・文化の融合によって形成されるべきだ。ただし,その既存の価値観に則った法律によって抑圧される人権があってはならないのである。
その意味で,私は近代型民主主義ではない(少なくとも現在の意味での)イスラーム型民主主義が成立しうるとはほとんど信じていない。これでもイスラームの民主化にはかなり期待する立場に立っているので,記事中の「「イスラーム的民主主義」を体現するものと期待されたトルコの公正発展党やエジプトの自由公正党が強権的な政治運営に手を染めていったことは、イスラームにとっても民主主義にとっても不幸なことであった。」には強く同感である。イランは言うに及ばず。また近年のマレーシアやインドネシアは上手くいっているが,これらは単純に世俗化が進んだ地域であると言ったほうがいいだろう。
一方で,ひょっとしたら人類はこの先,自由主義と民主主義と「世俗化されない社会」をすべて両立させた政治・社会を作りうるのかもしれない。あるいは自由主義を欠いたまま,しかし民主主義が持続する世俗化されない社会が成立しうるのかもしれない。それらが成立したら,その時は確かに,西欧に起源を持つ近代型の民主主義とは全く違う,イスラーム型民主主義が成立したことを認めざるをえない。私はそれが成立するとはほとんど信じていないけど,それが現在の中東のイスラーム教徒の目標だとするなら,その苦慮苦闘自体は否定しない。積極的に応援する気はないが,こっそり見守っていたい。
ところで,西欧型民主主義とうっかり書いてしまいがちだけど(私自身最初は西欧型と書いてしまった),近代型民主主義がより適切であろう。なんというか,この書き方自体がヨーロッパ中心史観に陥っていて,イスラーム教徒が多数派の国家が民主化するはずがないという偏見含みな印象があるのだが,うがちすぎだろうか。
Posted by dg_law at 07:30│Comments(2)
この記事へのコメント
>基本的人権が守られるには明確な政教分離とまではいかなくとも,人権と宗教的価値が衝突した時に人権が優先されるという社会の風潮は最低限必要で,それが達成される程度には世俗化が必要不可欠になろう。イスラーム的な価値観を盛り込んだ憲法・法律が作られること自体は問題ではない。
それならチベットの旧体制の支配階級追放についてMukke氏に追随する必要はないでしょう。もし一〇〇万以上のチベット族殺害を根拠にあげられるならそれは根拠なしと申し上げておきます。当の支援団体幹部が明言してますし。
http://www.nytimes.com/2008/03/22/opinion/22french.html?_r=0
http://xizang.is-mine.net/
それならチベットの旧体制の支配階級追放についてMukke氏に追随する必要はないでしょう。もし一〇〇万以上のチベット族殺害を根拠にあげられるならそれは根拠なしと申し上げておきます。当の支援団体幹部が明言してますし。
http://www.nytimes.com/2008/03/22/opinion/22french.html?_r=0
http://xizang.is-mine.net/
Posted by 近畿の野次馬 at 2016年08月26日 10:05
すみません,この週末は全くブログの管理画面を見ておらず,思わぬ放置になってしまいました。大変に申し訳ない。反応がないのではないかと不安だったでしょうから,せめて非表示から表示に変えておくべきでしたね。
さて本題ですが,まず自由主義・民主主義が守られるべきかどうかと,民族自決は別次元の問題です。中国共産党がチベットの“民主化”(物質的な近代化ではなく)をきっちりとやっているなら話が交錯して多少ややこしいことになっていたかもしれませんが,少なくともそんなことは一切ないですよね。
次に,あまり意味のないifですが,仮に20世紀後半のどこかでチベットが中国から独立して,そのまま現在を迎えていたとして,民主化も人権もない旧態依然とした国家を運営していたなら(それこそチベット仏教徒が世俗化せずに),私は間違いなく批判しています。あるいは,現実に今後チベットが高度な自治権または独立を得たとして,ある程度の時間が経過してもその後の国家運営が苛烈であったなら,やはり同様に批判的な見解を出すでしょう。
ついでに言うと,私は別にチベット仏教徒の信徒でもダライ・ラマ個人の信奉者でも全く無いので,チベットが現在より高度な自治権を得たなり独立したなりした際のダライ・ラマの立ち位置はそれほど気にしていません。ダライ・ラマ14世本人の,あるいはチベット人の判断でダライ・ラマに政治的権力は一切不要,あるいは廃位が望ましいと考えたなら,それを尊重するべきだと考えています。
ところで,百万人虐殺説は初見ですし,Mukkeさんがそれに関連する発言をしたところは見たことないです。
さて本題ですが,まず自由主義・民主主義が守られるべきかどうかと,民族自決は別次元の問題です。中国共産党がチベットの“民主化”(物質的な近代化ではなく)をきっちりとやっているなら話が交錯して多少ややこしいことになっていたかもしれませんが,少なくともそんなことは一切ないですよね。
次に,あまり意味のないifですが,仮に20世紀後半のどこかでチベットが中国から独立して,そのまま現在を迎えていたとして,民主化も人権もない旧態依然とした国家を運営していたなら(それこそチベット仏教徒が世俗化せずに),私は間違いなく批判しています。あるいは,現実に今後チベットが高度な自治権または独立を得たとして,ある程度の時間が経過してもその後の国家運営が苛烈であったなら,やはり同様に批判的な見解を出すでしょう。
ついでに言うと,私は別にチベット仏教徒の信徒でもダライ・ラマ個人の信奉者でも全く無いので,チベットが現在より高度な自治権を得たなり独立したなりした際のダライ・ラマの立ち位置はそれほど気にしていません。ダライ・ラマ14世本人の,あるいはチベット人の判断でダライ・ラマに政治的権力は一切不要,あるいは廃位が望ましいと考えたなら,それを尊重するべきだと考えています。
ところで,百万人虐殺説は初見ですし,Mukkeさんがそれに関連する発言をしたところは見たことないです。
Posted by DG-Law at 2016年08月29日 02:11