2016年10月07日

『高慢と偏見とゾンビ』

イギリスの傑作古典小説『高慢と偏見』になぜかゾンビをつっこむという,どう考えても作者の頭がどうかしているパロディ(マッシュアップ)小説の映画化。原作の『高慢と偏見』が好きだったし,どうB級映画化したのかが気になったので見に行ったら,予想通りの面白さであった。

ストーリーの基本ラインは『高慢と偏見』の通り……と言いたいところだが,ゾンビが混入されているせいで後半は大きく捻じ曲げられていくことになる。というか前半も,本筋から外れていないだけで,原作では優雅なお茶会で姉妹が語り合うシーンがカンフーの修行しながら語り合うシーンに変わっているし,何よりダーシーが高慢さを捨ててリジーに愛を告白する(が,リジーの偏見により振られる)という原作屈指の名シーンもなぜかカンフーバトルになるというぶっ壊し具合で(私が見た劇場はここで観衆一同大爆笑であった),この映画最大の“加害者”はゾンビというよりカンフーだったのではないかと思う。

本作のゾンビ周りの設定は作中で語られるが,大体以下の通り。

・大航海時代により人間がゾンビ化する疫病が世界中に流行してしまい,人類は割りと存亡の危機。
・イギリスもゾンビ化によりロンドンが壊滅し,生き残った人々は郊外に館(というか要塞)を構えて生活している。
・この世界の淑女の嗜みは戦車道ならぬカンフー。
・この世界のグランドツアーはイタリアではなく,中国または日本へのカンフー修行。(私的にはここで一番爆笑した)
・この世界の教養はフランス語やラテン語ではなく,中国語と日本語。
・ゾンビにかじられると自分もゾンビ化する。
・ゾンビは頭を優先的にかじろうとする習性がある。(人間の脳が好物)
・頭をかじられてゾンビ化すると理性を失うが,その他の部位をかじられてゾンビ化した場合は理性が残る。
(したがって人間に擬態して社会に溶け込むゾンビが出てくる)

一番下に挙げた設定が意外と重要で,「理性を保ったゾンビは,ゾンビとして“貴族”である」「“貴族”ゾンビが統制すれば,ゾンビも秩序を形成できる」「“貴族”ゾンビとなら人類は共存できる」と主張する登場人物が現れ,これが原作の「高慢」要素に混ざる。また,実際に人間に擬態するゾンビが出てきて登場人物たちが互いに疑心暗鬼になり,それが本筋の「偏見」にかかわる。この設定のおかげで上手いこと原作とゾンビが融合できてしまったのではないかと思う。


原作の知識は当然あったほうがよく,今から読むなら光文社古典新訳文庫が読みやすくてよい。が,最悪の場合はWikipediaなりを読んでいけばよいかと思われる。




原作既読者に向けて興味を持たせることを言うと,

・原作の登場人物描写が非常に忠実に再現されていて,ミセス・ベネットとコリンズ牧師のウザさ,ダーシーとリジーの聡明さ,ビングリーのイケメン具合,リディアの俗っぽさ等,ピタリとはまった配役・演技・脚本になっている。
・大きな設定の変更は,ダーシーはゾンビ対策専門の軍属(階級は大佐)になっていることくらい。
・その中で,原作と一番描写の違う登場人物はウィカム。原作のウィカムはこんなにかっこよくなかった。
・本作のロンドンはすでにゾンビによって陥落している。原作ではロンボーン(ロングボーン)とロンドンの行き来があって,それが一つ登場人物たちのすれ違いの要因になっていたと思うが,本作もそれは健在。むしろロンドンがゾンビ化していることで,ビングリー一家がロンドンに帰ったあたりから原作から話がずれていくので注目してほしい。


ところで,ひょっとして自分が最年少だったのではと思うくらい観客の年齢層が高かったのがとても驚いた。まあ原作を読んでないと興味を惹かれないとは思うけど,高年齢層だと今度はゾンビに興味が持てないとは思われ,改めてどこの層を狙った映画なのかよくわからない,とその場で考え込んでしまった。結果的にはどちらかというと『高慢と偏見』のファン層に引っかかったようではあるが。


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