2016年10月11日
『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』入不二基義著,ちくま新書
本書は大学入試に使われた哲学の現代文を使って,哲学的な考察を行うというコンセプトの本である。そこには様々な「誤読」が介在する。すなわち,出題者自身が本文を読解できておらず,したがって全く頓珍漢な設問になっているもの(第1章)。出題自体は適切であったが,内容が高度すぎて予備校の解答速報や参考書でさえ適切な読みができていないもの(第2章)。本書の筆者である入不二氏自身がある種の誤読をしてしまい,文章の意味を今ひとつとれなかったもの(第3章)。そして本文自体に矛盾を抱えており,結果的に複数の読みが成立しうるもの(第4章)。この4章で構成されており,「入試の現代文には様々な誤読が介在されてしまう余地がある」からこその『哲学の誤読』という書名になっている。
私が本書を読もうと思った理由はほとんどの読者にはお察しの通り,本書のコンセプトの一部がまんま拙著の現代文版であり,事実,受験現代文をメッタ斬りにした解説であった。拙著と目的・方向性が完全に合致しているのは第1章だけで,これは私の分類でいうところの「悪問」ということになろう。起きている誤読の悲惨さとしてはやはりこの第1章が極まっていて,出題者が誤読して作題した時の“転倒”の大変さは,社会科の比ではないのかもしれないと思った。なにせ入不二氏が「私の答案は,きっと0点だろう」とまで書いている。第2章は私の分類で言うところの「難問」ではあるが,そこは現代文である。社会科と異なり「受験範囲」というものが存在していないため,これだけ超越的難易度であっても「範囲外」にはならないせいか,入不二氏はその鋭い舌鋒を誤った解説をしている予備校や参考書だけに向けている。しかし,私の目線から言えばこれを受験生に解答させるほうが無理筋であろうと思う。
第3章は誤読しているのが著者本人なだけあって問題自体は成立しているものの,引用元が早稲田大の現代文であり,本格的な論述問題を含んでいないことから,入不二氏は「本文が極めて興味深い考察を展開してくれているのに対して,設問のほうはそれに釣り合っていないと思われる。」とあり,これはこれで辛辣なコメントである。その意味で第4章はここまでの3つとやや毛色が異なり,本文の筆者自身がある種の誤解に基いて執筆したため,文章に複数の読みが成立しうる。しかし,奇跡的に設問は複数の読みが生じる部分を避けているので,出題ミスには当たっていないという事態が起きている。しかも設問自体は良問という,これはこれでおもしろい転倒であろう。作題者が意図して避けたのか,本当に奇跡が起きたのかは不明であるが。
全体として批判は実にまっとうで読み応えがあり,おもしろい。本書は名著である。出版が2007年であるので取り上げられている入試問題も2007年が最新というのが玉に瑕で,是非とも2016年版を読みたいところだ。
なお,本書の著者の入不二氏は,駿台の講師をしていたことがあり(追記:氏の担当は英語らしい),そこから大学教員に転職した人物であるから,受験的な現代文にも,大学教授の立場にも,もちろん哲学自体にも十分に知悉しており,どこかに偏った立場からの解説にはなっていないのが本書の美点である。この点,拙著はやはり受験生と予備校の立場から書いた雰囲気が強いなと思わせられた。また,本書で扱われている哲学は主に時間論と実在論であるが,これは著者の専門分野がその辺りだからである。なので,欲を言えば,別の分野の哲学だとか,美学・芸術学,文学あたりの文章も扱ってほしかったとは思うが,これは本当に過剰な要求であるだろう。
以下は余談として。本書で取り上げられた入試問題は,第1章のとんでもない悪問が北大,第2章の「超難問」が東大,第3章のつまらないながらも成立した問題が早稲田大,第4章の良問が名古屋大である。そう,世界史の悪問・難問ラインナップからは考えられない“転倒”がここでも起きている。やはり注目したいのは東大で,補足と私の思い出話も兼ねて少々語らせて欲しい。厳密に言えば,ここで取り上げられているのは東大の第4問,文系だけが解く大問で,昔から現在まで「超難問が多い」とされている部分である。私が受験生だった時にも過去問を解いて「こんなの絶対解けない」と早々に諦めた部分であり,本試験でも適当に字数は埋めたものの,開示点数を見るにおそらくほとんど0点だったのではないかと思う。
本書に取り上げられた2002年の第4問も,高校生当時に赤本で解いて「解説読んでも何言っているのかさっぱりわからねぇ!」と言って投げ捨てた問題だったと思うが,それから十数年も経った今になってその『赤本』の偉そうな解説が全く見当違いで間違っていたことが発覚し,湧き上がってきたものは下がる溜飲が半分・十数年越しの怒りが半分で,この複雑な内部の葛藤を一体どう処理すればいいのか,悩んでいる。と同時に,世界史や日本史では東大がきっちりとした良問を出すのは「範囲」を律儀に守っているからなのだなということの再確認にはなった。実は東大は,今回のような文系現代文や理系数学ではしばしば予備校に怒られるような(まさに早稲田大や一橋大の社会科のような)超難問を出す,というのは本書で指摘されるまでもなく有名な話だったりする。にもかかわらず問題化しないのは,現代文や数学には厳密な「範囲」が存在していないからである。なお,東大が公表している受験生のデータを分析するに,にもかかわらず数学は満点を取っている受験生が珍しくないものの,国語は最高点が8割付近(比較的満点を取りやすい古文・漢文が配点の半分を占める“国語”のくくりで,である!)にしかならない年がある,という違いは特筆に値するだろう。その意味で,理系数学はほっといてもよい。でも,東大はいい加減,あの無駄な第4問をやめよう(提案)。
私が本書を読もうと思った理由はほとんどの読者にはお察しの通り,本書のコンセプトの一部がまんま拙著の現代文版であり,事実,受験現代文をメッタ斬りにした解説であった。拙著と目的・方向性が完全に合致しているのは第1章だけで,これは私の分類でいうところの「悪問」ということになろう。起きている誤読の悲惨さとしてはやはりこの第1章が極まっていて,出題者が誤読して作題した時の“転倒”の大変さは,社会科の比ではないのかもしれないと思った。なにせ入不二氏が「私の答案は,きっと0点だろう」とまで書いている。第2章は私の分類で言うところの「難問」ではあるが,そこは現代文である。社会科と異なり「受験範囲」というものが存在していないため,これだけ超越的難易度であっても「範囲外」にはならないせいか,入不二氏はその鋭い舌鋒を誤った解説をしている予備校や参考書だけに向けている。しかし,私の目線から言えばこれを受験生に解答させるほうが無理筋であろうと思う。
第3章は誤読しているのが著者本人なだけあって問題自体は成立しているものの,引用元が早稲田大の現代文であり,本格的な論述問題を含んでいないことから,入不二氏は「本文が極めて興味深い考察を展開してくれているのに対して,設問のほうはそれに釣り合っていないと思われる。」とあり,これはこれで辛辣なコメントである。その意味で第4章はここまでの3つとやや毛色が異なり,本文の筆者自身がある種の誤解に基いて執筆したため,文章に複数の読みが成立しうる。しかし,奇跡的に設問は複数の読みが生じる部分を避けているので,出題ミスには当たっていないという事態が起きている。しかも設問自体は良問という,これはこれでおもしろい転倒であろう。作題者が意図して避けたのか,本当に奇跡が起きたのかは不明であるが。
全体として批判は実にまっとうで読み応えがあり,おもしろい。本書は名著である。出版が2007年であるので取り上げられている入試問題も2007年が最新というのが玉に瑕で,是非とも2016年版を読みたいところだ。
なお,本書の著者の入不二氏は,駿台の講師をしていたことがあり(追記:氏の担当は英語らしい),そこから大学教員に転職した人物であるから,受験的な現代文にも,大学教授の立場にも,もちろん哲学自体にも十分に知悉しており,どこかに偏った立場からの解説にはなっていないのが本書の美点である。この点,拙著はやはり受験生と予備校の立場から書いた雰囲気が強いなと思わせられた。また,本書で扱われている哲学は主に時間論と実在論であるが,これは著者の専門分野がその辺りだからである。なので,欲を言えば,別の分野の哲学だとか,美学・芸術学,文学あたりの文章も扱ってほしかったとは思うが,これは本当に過剰な要求であるだろう。
以下は余談として。本書で取り上げられた入試問題は,第1章のとんでもない悪問が北大,第2章の「超難問」が東大,第3章のつまらないながらも成立した問題が早稲田大,第4章の良問が名古屋大である。そう,世界史の悪問・難問ラインナップからは考えられない“転倒”がここでも起きている。やはり注目したいのは東大で,補足と私の思い出話も兼ねて少々語らせて欲しい。厳密に言えば,ここで取り上げられているのは東大の第4問,文系だけが解く大問で,昔から現在まで「超難問が多い」とされている部分である。私が受験生だった時にも過去問を解いて「こんなの絶対解けない」と早々に諦めた部分であり,本試験でも適当に字数は埋めたものの,開示点数を見るにおそらくほとんど0点だったのではないかと思う。
本書に取り上げられた2002年の第4問も,高校生当時に赤本で解いて「解説読んでも何言っているのかさっぱりわからねぇ!」と言って投げ捨てた問題だったと思うが,それから十数年も経った今になってその『赤本』の偉そうな解説が全く見当違いで間違っていたことが発覚し,湧き上がってきたものは下がる溜飲が半分・十数年越しの怒りが半分で,この複雑な内部の葛藤を一体どう処理すればいいのか,悩んでいる。と同時に,世界史や日本史では東大がきっちりとした良問を出すのは「範囲」を律儀に守っているからなのだなということの再確認にはなった。実は東大は,今回のような文系現代文や理系数学ではしばしば予備校に怒られるような(まさに早稲田大や一橋大の社会科のような)超難問を出す,というのは本書で指摘されるまでもなく有名な話だったりする。にもかかわらず問題化しないのは,現代文や数学には厳密な「範囲」が存在していないからである。なお,東大が公表している受験生のデータを分析するに,にもかかわらず数学は満点を取っている受験生が珍しくないものの,国語は最高点が8割付近(比較的満点を取りやすい古文・漢文が配点の半分を占める“国語”のくくりで,である!)にしかならない年がある,という違いは特筆に値するだろう。その意味で,理系数学はほっといてもよい。でも,東大はいい加減,あの無駄な第4問をやめよう(提案)。
Posted by dg_law at 19:20│Comments(3)│
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この記事へのコメント
入不二氏は駿台では英語科の講師だったように思われますが、現代文も教えてらっしゃったのでしょうか?
現代文がほかの科目と大きく異なるのは、問題文の作者と設問の作者が異なるため、作問者が問題に対して全責任を負えないことですね。そのため受験生が筆者ではなく作問者との対話に終始してしまうことが往々にして起こるのはマズイと思います。特にセンター試験をはじめとする選択式の現代文はそれが顕著です。
教養としての現代文は必要ですが、入試科目としての現代文の在り方を考える必要があると思います。
ちなみに東大の第4問ってそんなに難しいんですね。自分はかつて理系の受験生で(落ちましたが)得点開示を見たら国語が相当に高くてびっくりした記憶があります。採点基準が文理で異なるのかもしれませんが、東大の国語は書けばなんとかなるもんだと思ってました笑
現代文がほかの科目と大きく異なるのは、問題文の作者と設問の作者が異なるため、作問者が問題に対して全責任を負えないことですね。そのため受験生が筆者ではなく作問者との対話に終始してしまうことが往々にして起こるのはマズイと思います。特にセンター試験をはじめとする選択式の現代文はそれが顕著です。
教養としての現代文は必要ですが、入試科目としての現代文の在り方を考える必要があると思います。
ちなみに東大の第4問ってそんなに難しいんですね。自分はかつて理系の受験生で(落ちましたが)得点開示を見たら国語が相当に高くてびっくりした記憶があります。採点基準が文理で異なるのかもしれませんが、東大の国語は書けばなんとかなるもんだと思ってました笑
Posted by 通りすがり at 2016年10月15日 05:24
あれ,そうなんですか。英語だけだったのかもしれませんね。記事中にも追記しておきます。
>そのため受験生が筆者ではなく作問者との対話に終始してしまうことが往々にして起こる
それは本書の第1章でも指摘されていました。
受験の現代文は作問者との対話になっていて,本文の筆者との対話には必ずしもなっていないと。
現代文独特の苦しさがありますね。
>ちなみに東大の第4問ってそんなに難しいんですね。
第1問と比較すると明らかに文章の種類が違います。もちろん第1問のほうが読みやすいです。
文系数学も意外と高得点になることが多く,私自身あの出来でこの点数? と思った覚えがありますから,理系国語も同じなのかもしれません。
>そのため受験生が筆者ではなく作問者との対話に終始してしまうことが往々にして起こる
それは本書の第1章でも指摘されていました。
受験の現代文は作問者との対話になっていて,本文の筆者との対話には必ずしもなっていないと。
現代文独特の苦しさがありますね。
>ちなみに東大の第4問ってそんなに難しいんですね。
第1問と比較すると明らかに文章の種類が違います。もちろん第1問のほうが読みやすいです。
文系数学も意外と高得点になることが多く,私自身あの出来でこの点数? と思った覚えがありますから,理系国語も同じなのかもしれません。
Posted by DG-Law at 2016年10月16日 19:39
もちろん世代的に氏の授業は受けていませんが、Wikipediaの記述や駿台文庫から英語の参考書が販売されていることなどを鑑みるに、英語科の講師であったと思われます。
Posted by 通りすがり at 2016年10月17日 06:06