2016年12月22日
「真田丸」
非常に珍しくも,大河ドラマを見ていた年であった。見るようになったきっかけは,丸島和洋先生のtweetである。この歴史考証に関するコメントとセットで見れるなら,確かに面白かろうと思って見始めた。
私は三谷幸喜のそれなりのファンである。過去の映画は大体全部見ている(最新作の『ギャラクシー街道』だけ見ていないが,あまりの酷評っぷりに見る勇気がない)。『笑の大学』か『ラヂオの時間』あたりは人生で一番笑った映画ランキングベスト5に入れている。にもかかわらず今回ちょっと敬遠していたのは,『ギャラクシー街道』は無関係で,『清州会議』がぶっちゃけて言うと割りと微妙で,この人にちゃんとした史劇が書けるんだろうかという疑問が先立ったためである。結果から言うとそれは杞憂だったというよりも,三谷幸喜は明らかに『清州会議』の二の舞は避けていた。「真田丸」は時折「コメディ寄りすぎる」という批評を受けていることがあるが,私に言わせるとむしろ,おそらく『清州会議』の反省でコメディに寄ったのではないかと思うし,それは成功していたように思う。多分,あの人にシリアス一辺倒で史劇は書けないのである。しかし,大河ドラマである以上全面的なコメディにはできない。その折衷であの「真田丸」ができたのではないかと思う。
おそらく一番面白かったのは大阪編という人が多いと思われるが,秀吉の出す緩急の激しい空間の雰囲気は,方向性が異なるだけでコメディの作り方に近かったのだろうと思う。天正壬午の乱も面白かったが,あれは単純に天正壬午の乱自体が見慣れぬ事件であり,細かい展開を知らない視聴者が(私を含めて)多く,一応最終的な帰結は知っているはずなのに展開自体に引き込まれたところは大きいと思う。その意味では考証の平山先生の功績かもしれない。一方,最後の大阪の陣編はここまで張ってきた真田丸全体のテーマをすごい勢いで回収していて,最終的にはコメディコメディ言われつつもちゃんと“大河ドラマ”に仕上げたのだなという感慨があった。信繁が幸村と名乗ったところで「ああ,この作品はここで史劇から講談に飛翔するんだ」と,作品の雰囲気も視聴者の認識も上手く切り替わり,地に足の着いた展開から割りと何でもありに切り替わったことで,そのままの勢いで最後まで駆け抜けていった。
そんな中でやはり批判を浴びがちだったのは合戦回で,とにかく迫力がなかった。予算の影響でエキストラの人数が少なかったのもあろうが,それをごまかすカメラワークがあったわけでも脚本の工夫があったわけでもなく。関ヶ原をやらなかったのは信繁か信之かきりが見ていないものはなるべく映さないというより深い理由があったとはいえ(本能寺の変も無ければ大坂城落城も無かった),やらなくて正解だろう。序盤の小規模な小競り合いや個々の殺陣のレベルなら不満は無かった(それでも不満は無かったレベルだが)ことを考えると,要するに三谷幸喜に大規模な合戦は書けないということなのだろう。
「真田丸」の大テーマは敗者たちの物語だそうで,それは極めて巧みに描かれていたと思う。時代に取り残され,大きな流れについていけなかったものたち。それでも,そこには積み重なった無念があるのだ。最終的にその無念の全てを背負った信繁が,真田幸村となって華々しく散り,自らも敗者になって終わる。天正壬午の乱の後半から大阪編の中盤にかけてあからさまな伏線が多く,「源次郎はどんだけ呪いをかけられるんだ……w」と視聴者に茶化されていたが,あれは本当に呪いであったのだ。しかし,彼にとっては呪いではなく,力の源であり,そこに悲壮感はなかった。結局,彼にかけられた呪いは史実通り解放されずに彼を死に追い込んでいったのだが,最後の信繁が非常に満足そうだったのは,背負っていたものが自らの無念ではなく,あくまで他人の無念であったから,自分もまた果たせなかったという無念よりも「やりきった」という晴れがましさの方が強かったからだ。
史実の信繁が実質的に大阪の陣まで何もなしていなかったことを逆手に取って,「まっさらな身体にありったけの先人の無念を溜め込んだ人物」として描き,50回中40回近くを(信繁の行動に限れば)伏線を張ることだけに費やしたのは,非常に大胆かつ史実を活かした展開であった。にもかかわらず秀吉の御伽衆で大名クラスの知行を得ていたという最近発見された史実は,この展開の工夫にとっては大きくプラスに働いた。秀吉に目をかけられていた見込みのある若者を不自然なく描くことができ,結果的に不自然なく桃山時代末期の主要人物と信繁を接触させることができ,彼を敗者の無念を回収する人物に仕立て上げることができた。
信繁自身はむしろ作中では屈指の“時代の流れ”を読めていた人間であったという描写だったのも上手く,信繁の悲劇性に拍車をかけた。実のところ本作で印象深いシーンというと,犬伏の別れで昌幸に切れる信繁というシーンである。あの前半の主役と言ってよかった昌幸はすっかり時代の流れが読めなくなっており,これを諭す信繁。しかし,彼はその昌幸についていき,信之とは別れを告げる事になる。この言動がまさに本作の信繁の,極めて典型的な言動であったのだ。
これに関連する話でもあり,まさにそこが丸島先生のtweetがおもしろかった部分でもあるのだが,本作の裏テーマは「中世から近世へ移行する日本社会」であり,自力救済から法治国家へ,地方分権から中央集権へ,ひいては封建制から社団国家へと移っていく様子がよく描かれていたと思う。表の大テーマと関連することが多かったとはいえ,これをよくぞ描いてくれたと,時代区分警察を自覚する自分の立場からもここに書いておこう。
私は三谷幸喜のそれなりのファンである。過去の映画は大体全部見ている(最新作の『ギャラクシー街道』だけ見ていないが,あまりの酷評っぷりに見る勇気がない)。『笑の大学』か『ラヂオの時間』あたりは人生で一番笑った映画ランキングベスト5に入れている。にもかかわらず今回ちょっと敬遠していたのは,『ギャラクシー街道』は無関係で,『清州会議』がぶっちゃけて言うと割りと微妙で,この人にちゃんとした史劇が書けるんだろうかという疑問が先立ったためである。結果から言うとそれは杞憂だったというよりも,三谷幸喜は明らかに『清州会議』の二の舞は避けていた。「真田丸」は時折「コメディ寄りすぎる」という批評を受けていることがあるが,私に言わせるとむしろ,おそらく『清州会議』の反省でコメディに寄ったのではないかと思うし,それは成功していたように思う。多分,あの人にシリアス一辺倒で史劇は書けないのである。しかし,大河ドラマである以上全面的なコメディにはできない。その折衷であの「真田丸」ができたのではないかと思う。
おそらく一番面白かったのは大阪編という人が多いと思われるが,秀吉の出す緩急の激しい空間の雰囲気は,方向性が異なるだけでコメディの作り方に近かったのだろうと思う。天正壬午の乱も面白かったが,あれは単純に天正壬午の乱自体が見慣れぬ事件であり,細かい展開を知らない視聴者が(私を含めて)多く,一応最終的な帰結は知っているはずなのに展開自体に引き込まれたところは大きいと思う。その意味では考証の平山先生の功績かもしれない。一方,最後の大阪の陣編はここまで張ってきた真田丸全体のテーマをすごい勢いで回収していて,最終的にはコメディコメディ言われつつもちゃんと“大河ドラマ”に仕上げたのだなという感慨があった。信繁が幸村と名乗ったところで「ああ,この作品はここで史劇から講談に飛翔するんだ」と,作品の雰囲気も視聴者の認識も上手く切り替わり,地に足の着いた展開から割りと何でもありに切り替わったことで,そのままの勢いで最後まで駆け抜けていった。
そんな中でやはり批判を浴びがちだったのは合戦回で,とにかく迫力がなかった。予算の影響でエキストラの人数が少なかったのもあろうが,それをごまかすカメラワークがあったわけでも脚本の工夫があったわけでもなく。関ヶ原をやらなかったのは信繁か信之かきりが見ていないものはなるべく映さないというより深い理由があったとはいえ(本能寺の変も無ければ大坂城落城も無かった),やらなくて正解だろう。序盤の小規模な小競り合いや個々の殺陣のレベルなら不満は無かった(それでも不満は無かったレベルだが)ことを考えると,要するに三谷幸喜に大規模な合戦は書けないということなのだろう。
「真田丸」の大テーマは敗者たちの物語だそうで,それは極めて巧みに描かれていたと思う。時代に取り残され,大きな流れについていけなかったものたち。それでも,そこには積み重なった無念があるのだ。最終的にその無念の全てを背負った信繁が,真田幸村となって華々しく散り,自らも敗者になって終わる。天正壬午の乱の後半から大阪編の中盤にかけてあからさまな伏線が多く,「源次郎はどんだけ呪いをかけられるんだ……w」と視聴者に茶化されていたが,あれは本当に呪いであったのだ。しかし,彼にとっては呪いではなく,力の源であり,そこに悲壮感はなかった。結局,彼にかけられた呪いは史実通り解放されずに彼を死に追い込んでいったのだが,最後の信繁が非常に満足そうだったのは,背負っていたものが自らの無念ではなく,あくまで他人の無念であったから,自分もまた果たせなかったという無念よりも「やりきった」という晴れがましさの方が強かったからだ。
史実の信繁が実質的に大阪の陣まで何もなしていなかったことを逆手に取って,「まっさらな身体にありったけの先人の無念を溜め込んだ人物」として描き,50回中40回近くを(信繁の行動に限れば)伏線を張ることだけに費やしたのは,非常に大胆かつ史実を活かした展開であった。にもかかわらず秀吉の御伽衆で大名クラスの知行を得ていたという最近発見された史実は,この展開の工夫にとっては大きくプラスに働いた。秀吉に目をかけられていた見込みのある若者を不自然なく描くことができ,結果的に不自然なく桃山時代末期の主要人物と信繁を接触させることができ,彼を敗者の無念を回収する人物に仕立て上げることができた。
信繁自身はむしろ作中では屈指の“時代の流れ”を読めていた人間であったという描写だったのも上手く,信繁の悲劇性に拍車をかけた。実のところ本作で印象深いシーンというと,犬伏の別れで昌幸に切れる信繁というシーンである。あの前半の主役と言ってよかった昌幸はすっかり時代の流れが読めなくなっており,これを諭す信繁。しかし,彼はその昌幸についていき,信之とは別れを告げる事になる。この言動がまさに本作の信繁の,極めて典型的な言動であったのだ。
これに関連する話でもあり,まさにそこが丸島先生のtweetがおもしろかった部分でもあるのだが,本作の裏テーマは「中世から近世へ移行する日本社会」であり,自力救済から法治国家へ,地方分権から中央集権へ,ひいては封建制から社団国家へと移っていく様子がよく描かれていたと思う。表の大テーマと関連することが多かったとはいえ,これをよくぞ描いてくれたと,時代区分警察を自覚する自分の立場からもここに書いておこう。
Posted by dg_law at 02:12│Comments(2)│
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この記事へのコメント
『ギャラクシー街道』は見ていないのですか。
見なくて良かったですね。私は連れと映画館で見て、あんなゴミ映画のために金払ったことを心底後悔しましたから。
真田丸も私にとっては、江や天地人と同レベルの駄作大河でした。
特に一番面白かったといわれる大阪編が、私にとっては一番退屈だった。
主役の堺雅人自身、インタビューか何かで大阪編を楽しいサラリーマン生活とか評していたそうですが、まさにつまらない事件の連続。屋内や密室での限られたキャラたちによるドタバタコメディ。
まだ史実でも真田が活躍した大阪の陣の方が、合戦があった分退屈はしませんでしたが。
その合戦も関ヶ原スルーはまだしも、真田の晴れ舞台である第一次第二次上田合戦はしょぼい上に尺も少なかったですし、第一次に関しては梅の死に様があまりにも間抜けすぎた。
きり、薫といった女キャラたちも、現代的で喧しくてうざいだけで魅力が無く、コメディ展開で矮小化されたキャラ、秀吉のように死に様も貶められた武将も多い。また合戦シーンが少なく密室での談合シーンが多いせいか、世界観も狭く感じて『大河』とは思えませんでしたね。
他にも、三谷信者のステマや他の大河を貶める発言も酷かったですし、もう二度と三谷には大河ドラマに関わってほしくありません。
見なくて良かったですね。私は連れと映画館で見て、あんなゴミ映画のために金払ったことを心底後悔しましたから。
真田丸も私にとっては、江や天地人と同レベルの駄作大河でした。
特に一番面白かったといわれる大阪編が、私にとっては一番退屈だった。
主役の堺雅人自身、インタビューか何かで大阪編を楽しいサラリーマン生活とか評していたそうですが、まさにつまらない事件の連続。屋内や密室での限られたキャラたちによるドタバタコメディ。
まだ史実でも真田が活躍した大阪の陣の方が、合戦があった分退屈はしませんでしたが。
その合戦も関ヶ原スルーはまだしも、真田の晴れ舞台である第一次第二次上田合戦はしょぼい上に尺も少なかったですし、第一次に関しては梅の死に様があまりにも間抜けすぎた。
きり、薫といった女キャラたちも、現代的で喧しくてうざいだけで魅力が無く、コメディ展開で矮小化されたキャラ、秀吉のように死に様も貶められた武将も多い。また合戦シーンが少なく密室での談合シーンが多いせいか、世界観も狭く感じて『大河』とは思えませんでしたね。
他にも、三谷信者のステマや他の大河を貶める発言も酷かったですし、もう二度と三谷には大河ドラマに関わってほしくありません。
Posted by N at 2016年12月23日 00:11
どこに行ってもそんな感じの酷評なので,怖いもの見たさ半分,時間損したくない気持ち半分という感覚になってきました……>ギャラクシー街道
>まさにつまらない事件の連続
権力者のお膝元の宮中劇となると,まああんな感じかなと。むしろ大阪城内という狭い空間だけで日本全国を差配し,秀吉の機嫌次第で物事が大きく動いていく感じは,小県であれこれしていた必死さとのギャップで,あれはあれで奥行きが感じられたように思います。それこそ「中世から近世へ移行する日本社会」ですかね。
>真田の晴れ舞台である第一次第二次上田合戦はしょぼい上に尺も少なかったですし
全体としての真田丸を評価している人でも,これ褒める人はあまりいないでしょうね。
第二次は事実上やってないようなものなので仕方ないかもしれませんが,第一次がしょぼかったのはまずかったですね。梅の死もおっしゃる通りだと思います。あれはもうちょっと何とかならなかったんですかね。
>三谷信者のステマや他の大河を貶める発言も酷かったですし
観測範囲が良かったせいか,この辺私は全然見てないですね。
というよりも,普段大河見ていない人や三谷幸喜の映画も見てない人が観測範囲内にはけっこういたような気がして,むしろそういう人の感想はちょっと気になります。
>まさにつまらない事件の連続
権力者のお膝元の宮中劇となると,まああんな感じかなと。むしろ大阪城内という狭い空間だけで日本全国を差配し,秀吉の機嫌次第で物事が大きく動いていく感じは,小県であれこれしていた必死さとのギャップで,あれはあれで奥行きが感じられたように思います。それこそ「中世から近世へ移行する日本社会」ですかね。
>真田の晴れ舞台である第一次第二次上田合戦はしょぼい上に尺も少なかったですし
全体としての真田丸を評価している人でも,これ褒める人はあまりいないでしょうね。
第二次は事実上やってないようなものなので仕方ないかもしれませんが,第一次がしょぼかったのはまずかったですね。梅の死もおっしゃる通りだと思います。あれはもうちょっと何とかならなかったんですかね。
>三谷信者のステマや他の大河を貶める発言も酷かったですし
観測範囲が良かったせいか,この辺私は全然見てないですね。
というよりも,普段大河見ていない人や三谷幸喜の映画も見てない人が観測範囲内にはけっこういたような気がして,むしろそういう人の感想はちょっと気になります。
Posted by DG-Law at 2016年12月23日 01:09