2017年02月13日

日本の戦国時代に関するifいろいろ

・戦国時代の到来を防ぐにはどうすればよかったのか(歴史的速報@2ch)
戦国時代とは何かと言えば,中央の実力と権威が失墜してしまっていて,法令の効力の届く範囲が極めて縮小しており,地方で土地と軍事力を持った中小勢力が自立し,その上相争っている騒乱状態である。

スレ内で指摘されている通り,応仁の乱勃発時点ではすでに戦国時代に入りかかっているので,応仁の乱だけを原因にはできない。室町幕府が崩壊したのは幕府本体の経済基盤が小さすぎ,有力守護大名同士の闘争を制御するだけの実力を欠いたからという点に起因する。つまるところ室町幕府と守護領国制という構造自体に欠陥があった。当時の人々も気づいてはいたし,義満や義教はなんとかしようとしていた。一番可能性があったのはやはり義満の時代で,彼が明徳の乱・応永の乱等の過程で足利氏の直轄する領国や権益を増やせていれば,展開は大きく変わっていたかもしれない。

そうした将軍の努力にifを見出さないなら,守護領国制が成立する前,せめて南北朝時代あたりから歴史をやり直さないとどうしようもない。いやまあ,建武の新政がどうあっても上手くいったとは思えないし,鎌倉幕府倒幕に別のあり方があったとも思えないので,多分南北朝時代でもダメで,鎌倉幕府が永続した可能性(あるいは後述するような足利朝鎌倉幕府が成立した可能性)を探ったほうがまだしも建設的かも。

スレ内で出ているが,建武の新政が成功したとするとそれは朝廷が直属の常備軍を持ち得たということで,すなわち絶対王政の到来である。これは江戸幕府に近い体制が想定されるが,江戸幕府は典型的な社団国家であるが宗教的権威が分離している点で絶対王政とは少し違う。しかし,天皇自身に権力が集中するなら,純然たる絶対王政と言えるだろう。国土の多くが公領あるいは皇室の荘園となり,武家は御家人であるか否かは問われず禁軍に再編成されて幕府は二度と開かれず,あるいは武家と公家の区別が消滅して「廷臣化」するかもしれない。何かの間違いでそうなったらロマンがありすぎる展開だが,中世・近世の日本史は天皇の権威と武家の実力が分離したことで展開したので,この場合の15世紀以降の日本史が全く予想できない。

根本的な話をすると,やはりスレ内でも指摘がある通り,日本の社会経済が平安末の「王朝国家」になった時点で,その帰結としての戦国時代は既定路線であり,どうあっても一度は“ああ”なる,というのは一理ある。鎌倉幕府・室町幕府という重しがなくなって地方勢力同士の騒乱が拡大したのが南北朝時代だったり戦国時代だったりするが,むしろ両幕府が重きをなせた一時期を除けば日本の中世とはすなわち騒乱状態が平常であった,と言った方が適切な見方なのかもしれない。

ひるがえって戦国時代の到来自体は仕方がないとして,足利氏の存続だけ考えた場合,スレ内で出ている「第二鎌倉幕府」案(あるいは“足利朝”鎌倉幕府案)はかなりおもしろいifで,「政治の東国・経済の西国」という切り分け,東国が武力で西国を押さえつけて商工業の発展による利益だけ吸い取る形での武家政権の存続は,存外上手く行きそう。中国だと明朝がこの形に近く,華北が北方民族防衛を理由に華南を押さえつけて経済的に吸い上げ,王朝を維持した。ただこれは明朝の北京が強烈な求心力を持っていて,集権的な中央政府と,地方の有力者である士大夫層に科挙を通じて王朝に奉仕する志向を持たせたことで自立を妨げる構造が完成していたからこそ実現した形ではある。日本の場合はスレ内>>286-288の言う通り,第二鎌倉幕府にそこまでの求心力はないから,どこかのタイミングでの西国の守護大名の離反・自立は避けられそうにないし,西国大名が自立した時に,第二鎌倉幕府が経済的に立ち行くのか。それでも少なくとも史実の室町幕府よりは実態のある期間が長そうな気はする。

最後に,もう戦国時代の到来も室町幕府の崩壊も仕方がないとして,大内氏か細川氏あたりの有力守護大名による乗っ取りという解決があるかどうか。私は戦国時代初期は全く知らないので,ちょっと何も言えないのだけれど,まあなさそうかなと。大内氏や細川氏が,後の織豊政権クラスの実力に成長しえたかどうか(そのifを想像しうるだけのポテンシャルがあったかどうか),にかかっていると思う。

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この記事へのコメント
 私は第二鎌倉幕府案もうまくいかなかったと思いますけどね。
結局は西国を管轄する朝廷が幕府に従順でなおかつしっかりした統治をしてくれて治安も安定してないと、西国は不安定要素のままだったかと。
足利尊氏がなぜ直義らの意見を退けて京に幕府を置いたかといえば、やはり公権力たる朝廷がふがいないために武家の棟梁がこれを支えて西国に睨みをきかせる必要があったからでしょうし。

私は室町幕府と守護領国制というシステムは、当時の社会の実情を鑑みれば、割と時代に沿った現実的な統治だったと思います。
ただこのシステムは将軍個人の資質や器量が優れていて守護大名が礼節を弁えていれば割りと上手く回るのですが、将軍がボンクラかつ優柔不断で(応仁の乱)補佐する守護大名が礼を捨て自儘に振舞うようになった場合(明応の政変)崩壊するので、将軍やこれを補佐する守護大名の個人的な資質に大きく依存するシステム、幕府といえます。
これが室町システムの欠点であり、室町幕府崩壊の原因ともいえるかもしれません。
Posted by N at 2017年02月15日 18:23
上段について。
>結局は西国を管轄する朝廷が幕府に従順でなおかつしっかりした統治をしてくれて治安も安定してないと、西国は不安定要素のままだったかと。
つまりそうなった時に,西国を完全に放置して東国の安泰だけ図れば,史実よりも実態を持って延命できたのかなぁ,という推測ですね。


下段について。
もちろん,時代の流れ上,当時の人たちの知恵で守護領国制が成立したわけですから現実的な制度ではあったと思います。しかし,守護領国制の場合,南北朝の争乱が極まった混乱のまま長引いたという現実から成立したものですから,そのまま室町幕府にスライドした時にどうしても不具合が出てきてしまい,必ずしも現実的な統治とはならなかった,ということではないかなと思っています。
だからこそ,南北朝時代か,それ以前まで遡らないとダメかなというのが,記事の推論のスタートですね。

室町幕府のシステムが将軍個人の資質と有力守護大名の礼節に支えられていたというのはおっしゃる通りで,まさに義満の時代はこれに完璧に合致していたと思います。ただ,システムというものは個人の資質に寄りすぎていてはならず,ある程度のボンクラまでは輩出しても倒れないのが優れたシステムだと思います。この点,やはり江戸幕府や明朝・清朝は優れていた。とすると,室町幕府と守護領国制はシステム自体が欠陥であったとは言えるかなという考えです。無論のことながら,王朝の存続には統治機構だけではなく時代状況の厳しさの違い等が勘案されるべきではありますが。
Posted by DG-Law at 2017年02月16日 07:30
>システムというものは個人の資質に寄りすぎていてはならず,ある程度のボンクラまでは輩出しても倒れないのが優れたシステム
>この点,やはり江戸幕府や明朝・清朝は優れていた

しかし不思議なことに歴史を見てみると、室町幕府というのはいっけん脆弱なように見えて、意外と柔軟かつ強靭な側面も秘めていたようにも思えるのです。

義満、義勝、義政などの幼将軍が将軍職についても、幕閣を形成する守護大名が大量離反することも将軍家の権威・カリスマ性が大きく落ちることもなく。
一方で義稙や義昭などが京都を離れ各国を流浪することになっても、彼らの権威・求心力は落ちることはなくそこに幕臣が参集し亡命先で幕府を営むこともできた上に、諸大名の応援で将軍職に再任されたり京都に凱旋することもできた。
また義昭を京から追放することで室町幕府を滅亡させたと一般的には記される織田信長政権ですが、これも京都に残った幕臣たちを多く配下におさめていた明智光秀の謀叛によって倒されています。
これを室町幕府を支持する勢力の逆襲と捉えると、ここに私は室町幕府・将軍の天皇制にも似た強靭さを感じるのです。
Posted by N at 2017年02月17日 23:12
なるほど。確かにそういうところはあるんですよね。
不思議と生き残ってるし,割りと戦国が深まったような時代になってても,威令が届く範囲があるという。

天皇制にも似ていますし,春秋時代の周王朝も連想しました。
そう考えると,意外と強靭な側面も秘めているというのはおっしゃる通りですね。
Posted by DG-Law at 2017年02月18日 12:49