2017年02月18日

妖艶・マスプロ・判子絵

クラナハ《正義の寓意》随分前のことになってしまったが,西美のクラナハ展に行ってきた。クラナハはルネサンス期のドイツで活躍した画家で,一時期は埋没していたが,マスプロに特化した工房で作品の大量生産に成功していたことにより20世紀後半になって知名度が復活した画家である。この特徴が,個性がないというレッテルが貼られて埋没した原因であったが,工業発展による大量生産,とりわけ複製技術が進化した20世紀後半においては注目を浴びやすい特徴であったと言えるだろう。本展覧会でも,この大量生産という点に注目してクラナハを扱った現代アートが展示されていた。今回展示された実物を見ると,確かに同時代のデューラーやティツィアーノ等と比べると明らかに描き込みが少なく,短時間で仕上げているのがわかる。これを工房で大人数の弟子でやれば,もはやマニュファクチュアである。マスメディアが無い(あるいは版画くらいしかない)時代,一品物を大量に流通させるにはこれしかなかった。16世紀前半では革新的な工房経営だったと言えよう。

工房経営者ではなく画家としてのクラナハの特徴は女性がエロティックというのがよく言われるところで,確かに妖しげな雰囲気漂う女性が多い。前述の通り描き込みが少ないのでのっぺりした肌の描写になっていて,かつ比較的貧相で貧乳という体格,そして技術的にはちょっと拙くやや崩れたデッサン,にもかかわらず達観したかのような表情というパターンがクラナハの女性では確立されていて,このミスマッチがかえって妖艶に見えるという仕掛けだろう。こうした萌えパーツの組合せ,パターンの確立は完全に現在の判子絵師の先祖で,あの人とかあの人とかはクラナハを祀っておくとよいかもしれない。逆に言って,Cuvieが『ひとはけの虹』でクラナハを扱おうとして今ひとつ上手くいかなかったのも,まあ納得できるところ。Cuvieも速筆だとは思うが。

この題材と画風の組合せという問題は,当然クラナハ自身にも大きくつきまとっている。たとえばユディトやサロメ,ルクレティアといった題材ではこの画風がすごく映えるのだけれど,聖母マリアの作品や一般人の肖像画では,売りのはずのミスマッチが,おもしろくない単なるミスマッチになってしまっている。デッサンの崩れと重なると「この人はヘタウマが売りだったのかな?」という感想すら誘発しそうである。美術館に展示してあるものはおしなべて上手いという固定観念を破壊してくれるという意味で,一周回って新鮮だったかもしれない。

また,大体において女性が全裸であり,全裸にアクセサリーだけとか,全裸でなぜか剣は持ってるとかいうパターンも多い。このフェチ度の高さも妖しげなエロスと言われる要因であろう。しかも美術館でクラナハ展という環境だとこれがどうなるかというと,周り一面見渡す限り,全裸にワンアクセントという女性の絵という異様な環境ということになり,ふと我に返ると,以後違和感しかなくなる。いろいろと“魔力”の高い展覧会であった。

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この記事へのコメント
芸術には全く明るくないのですが、貧相な体格は中世ヨーロッパの高貴な女性は胸が小さいという価値観によるものなのでしょうか?
Posted by みかか at 2017年02月19日 04:38
どうなんでしょうね。私もわかりません。
ただまあ発注者はほとんど男性と考えられること,別に同時代全体としてそういう傾向があるわけではないことを考えるに,さして影響はない気がします。
中世ではなくて近世に入った時期ですしね。
より単純に,やはり視覚的効果として,クラナハの意向で貧乳に描いていたのではなかろうかと。
Posted by DG-Law at 2017年02月19日 09:07