2017年06月05日

フランス・ロマン主義の異才

シャセリオー《アレクシ・ド・トクヴィルの肖像画》西美のシャセリオー展に行ってきた。いかにも西美が企画展をやりそうな画家のチョイスである。テオドール・シャセリオーは美術の流れが新古典主義からロマン主義に移り変わる時期に活躍した画家であり,一般的には後ろを取ってロマン主義に分類することが多い。最初はアングルに師事し,早熟の天才として早くからサロンに出品・入選していた。事実,今回の展覧会では16歳の自画像が出品されていたが,恐ろしく上手い。アングルからすれば,このまままっすぐ成長すれば新古典主義は安泰であると思っていたところだろう。

しかし,ドラクロワをはじめとする画家・詩人のロマン主義者たちと交流するうちに,シャセリオーは師の嫌っていたロマン主義に流れていった。結果的にアングルとは決別しているが,ドラクロワのような妨害は受けなかったようで,シャセリオーは基本的に当時の画家の王道を歩み続けることになる。師と決別したとはいえ,シャセリオーの画風はそこまでロマン主義に偏っておらず,上手いこと新古典主義とロマン主義を折衷しているように見えるのもその理由かもしれない。題材も歴史画や肖像画が多く,その点では既存の価値観を全く毀損していなかったから,アングルの意識を抜きに考えても,当時の美術界からすれば異端視する理由はなかったというところだろう。ただし,シャセリオーは当時のサロンの基準は新古典主義に寄りすぎていると考えていたようで,何度もサロンの審査基準の不当さを訴えて変更を陳情している(自分は入選しているにもかかわらず)。一方で,シャセリオーのが歴史画や肖像画以外で描いたテーマは確かに目新しく,いかにもロマン主義と言える。『オセロ』の連作を作ってみたり(ドラクロワは『ハムレット』の連作がある),アルジェリアに行ってオリエンタリスムにかぶれたあたりはいかにもドラクロワのフォロワー。

彼は死ぬまでずっと売れっ子であったが,残念ながら37歳,1856年に夭折してしまった。明らかに過労死であり,ラファエロや狩野永徳の系譜である。シャセリオーは生前あのアレクシ・ド・トクヴィルと深い親交があり,今回の展覧会ではシャセリオーによるトクヴィルの肖像画(今回の顔図)の他に,シャセリオーの死を知って悲しみに暮れるトクヴィルがシャセリオーの兄に送った手紙が展示されていた。意外なところにつながりがあるもので,今回の展覧会で最も驚いた事実である。死後はほんの短期間忘れられた期間があるようだが,19世紀末にはすでに評価が復活しているし,そもそも直後の画家のピュヴィ・ド・シャヴァンヌやギュスターヴ・モローがもろに影響を受けていて私淑しているのだから,忘れられていた期間があると言っていいかどうか自体が疑問である。特にモローは影響関係は素人目に明らかであり,なるほどフランスにおけるドラクロワのロマン主義と,モローの象徴主義のつなぎ目であるなと。

そういうわけで,個人的にはシャセリオーの評価というと,フランスが生んだ新古典主義からポスト印象主義に至る綺羅星の如き画家たちの一人であり,新古典主義とロマン主義の過渡期の画家,あるいはドラクロワとモローのつなぎ目の画家ということで十分すぎると思う。しかし,西美は今回の展覧会をどうしてもさらなる別角度から切り込みたかったようで,彼がエスパニョーラ島(現ドミニカ共和国)で生まれたことと,アルジェリアに行ってオリエンタリスムにかぶれたことを持って,「エキゾチスムの画家」と位置づけていた。しかし,シャセリオーがエスパニョーラ島にいたのは2歳頃までのことで,アルジェリアの旅行も26歳の頃に2ヶ月ほど滞在しただけのようである。さらに言えば,地理的に離れていて共通点もそう多くないカリブ海とアルジェリアを無理やりくくって「シャセリオーの内面に宿った異国情緒」というのは相当に苦しい。西美さんともあろうものがそれはないよ,と思ったことは正直にここに記しておく。確かに父親が外交官でカリブ海方面に出ずっぱり,母親はクリオーリョ(クレオール)だから特殊な生育環境だったし,そうしたことがロマン主義に向かった要因の一つだっただろうことは否定しないけども。もう一つついていたサブタイトルの「フランス・ロマン主義の異才」はその通りだと思うだけに,惜しい。

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