2017年06月28日

伝説(?)の7つの玉手箱

「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」サントリー美術館の玉手箱展に行ってきた。玉手箱とは「玉=宝」の「手箱」であり,手箱とは主に化粧品を収納した中世日本の漆器の小箱のことである。女を化けさせる化粧,しかも化粧は「化生」に通じ,とりわけ髪を扱うものは古来より呪力の源泉であり,日本神話でイザナギが櫛や髪飾りを投げて逃げていること等もその関連である。このことから,化粧道具を封じる玉手箱も呪力が封じられていると考えられてきた。そうすると,浦島太郎が帰り際に与えられたのも,浦島太郎が男性であったにもかかわらず「玉手箱」であり,実際にとんでもない呪いが封印されていたというのも理解しやすいところである。今回の展覧会でも,浦島太郎が持ち帰ったという伝承がある玉手箱の「松梅蒔絵手箱」(重要文化財,枚聞神社所蔵)が展示されていた。ご存じの通り,浦島太郎伝説は日本中にあるが,この玉手箱を信じるなら薩摩が正解ということになる。


さて,有名な茶人が持っていた茶器に箔がついたのと同様,玉手箱でも北条政子が保有していた手箱は後世大いに箔が付いた。そうして生まれたのが北条政子が特に愛用していた手箱が7つあるとする「政子の7つの玉手箱」伝説であるが,往々にしてありがちなことにこの7つは史料によって異同があって確定していない。もっと言えば,そもそも北条政子が7つも手箱を愛用していたかどうか自体が確証のある話ではなく,もっと少ない可能性もあり,いろいろと眉唾な伝承であるが,先の呪力の話といいどうにも中二心をくすぐる話である。

今回の目玉展示の浮線綾螺鈿蒔絵手箱も,「7つ」のうちに挙げられることがある玉手箱の1つである。この玉手箱はサントリー美術館が近年長らく修復作業をしていたもので,今回が久々のお披露目となる。この玉手箱の模様である浮線綾紋は,サントリー美術館の今年のメンバーズクラブ会員証の模様にもなっている(のだが言われて初めて気づいた)。浮線綾紋とは平安貴族が身につけていた衣服などに用いられていたいくつかの有職文様を指し,それ自体が特定の文様を指すわけではない。見ての通り,抽象的な唐草文様である。そして,この浮線綾紋を手箱の文様に用いて螺鈿で表したのが今回の玉手箱ということになる。今回の展覧会は浮線綾螺鈿蒔絵手箱を含めて「7つ」のうちの3点(3点とも国宝)の実物が展示されていた。実物を見てみると,呪いとかそういうのは全く感じなくて,ただの大変螺鈿の綺麗な漆器の箱でしかない。しかし,あえてそういう曰くを込みで見た方が尚更楽しめる展覧会だったと言えるだろうし,各展示のキャプションも気合が入っていて説明がおもしろかった。ただ「美しい」というだけでは帰らせない展覧会は良い展覧会である。

さらに今回の展覧会では,「7つ」の玉手箱の19〜20世紀に作られた模造品も展示されていた。これはこれで大塚国際美術館じみた楽しさがあった。またそれとは別に幕末に製作された普通の漆器が2点展示されていた。これはどういうことかと言えば,この2つの漆器は,「7つ」のうちの1つとされていた「籬菊螺鈿蒔絵手箱」とともに1873年のウィーン万博に出品されていた。うちの国の手工業は昔からすごいし,今でもその伝統が受け継がれているという国威発揚・輸出促進のためである。しかし,展示を終えて復路の1874年3月,それらを輸送した船が伊豆沖で座礁・沈没する。明治政府の必死の捜索の結果,沈没から1年以上経ってからやっと発見された……のがこの2つを含む幕末の作品だけだった。籬菊螺鈿蒔絵手箱は鶴岡八幡宮が所蔵者で,「7つ」伝説に最も近い手箱であったから,痛恨の出来事であった。このエピソードを加味して改めて展示を見ると,この約140年前に引き上げられた2作品と,籬菊螺鈿蒔絵手箱の模造品が並んで展示されていた意味が理解できる。模造品の完成は1999年と意外と新しく,2作品との約140年ぶりの”再会”であるのだ。なお,このエピソードは1年以上海に沈んでいたにもかかわらず破損が少なかったということで,漆器の恐ろしいまでの耐久性アピールになったのが,ケガの功名・不幸中の幸いだったとのことである。実際にその2作品,言われないと「2世紀分の経年劣化かな」としか思われない程度には傷みが少なかった。これらはこれらで,十分に見る価値がある。

ところで,その「籬菊螺鈿蒔絵手箱」,さすがに海の藻屑だろうか。まだ原型をとどめていたら,それはもうさすがに漆器の恐ろしいまでの耐久性の域を超えて,それこそ呪力の域であるような……トレジャーハンターの皆さんはチャレンジしてみてください。