2017年08月07日

書評:『文学としてのドラゴンクエスト』さやわか著,コア新書

2巻の作業の完全終了からの『ドラクエ11』発売で,(本業と)ドラクエしかやらない日々を送った結果,ブログの更新を約10日止めてしまった。ぼちぼち再開させようと思うので,とりあえずドラクエの話題から行こう。

『文学としてのドラゴンクエスト』は,堀井雄二の作家性,及びドラクエシリーズに通底する文学性について掘り下げることを試みた本である。また,ドラゴンクエストが「日本では大ヒットするが,海外では大してヒットしていない」という点を指摘し,堀井雄二の作家性は日本人の琴線に特化して触れるものなのではないか,という論点を提示し,サブテーマとして論を進めている。なお,実際にはドラゴンクエストの物語面の制作にはシリーズが新しくなればなるほど膨大な人数がかかわっていくことになるが,本書では堀井雄二に代表させている。現在の11に至るまで総監督は堀井雄二で一貫している点,そして映画であっても語られるのは結局のところ監督の作家性であることを鑑みると,ゲームの場合も総監督者の名前で代表させても問題ないだろうという点がその理由である。合理的な理由なので,問題ないと思う。

結論から言えば,おもしろい点が半分,論の組み立てや結論が強引で疑問点が多いというのが半分という本であると思う。

本題のうち,堀井雄二の作家性の分析については,ドラクエを作る前の堀井雄二の経歴について触れた後(学生時代や漫画家時代,当然『ラブマッチテニス』や『ポートピア殺人事件』にも触れている),「意外にも村上春樹と経歴がよく似ている」として,村上春樹との共通点を見出す方向で論を進めている。これについては私が村上春樹を大して読んでいないというのを差し引いても,単純に堀井雄二と村上春樹の経歴が似ているという点は新鮮な視点だったものの,論自体が強引に感じた。この点は村上春樹とドラクエを両方知っている人,あるいは村上春樹の大ファンだけどドラクエは全くプレイしていない人の意見が気になるところ。一応事実関係だけ本書から抜書きしておくと,
・二人とも兵庫県の育ち。ただし堀井は淡路島,村上は西宮・芦屋・神戸。
・二人とも早稲田大学第一文学部出身,堀井は1972年入学で78年卒業,村上は1968年入学,75年卒業。
・二人とも学生運動には冷笑的な態度を取っており,また学生時代から様々な活動を始めている。ただし,直接の接点はない。
・『ドラクエ1』の発売が1986年,『ノルウェイの森』発売が1987年。

次に堀井が『指輪物語』といった文学作品ではなく,『ウルティマ』と『ウィザードリィ』といった海外RPGに範を取ってドラクエを作り始めたという,古参ファンには知られている話にも触れていた。だからドラクエは地中海や北欧の神話や『指輪物語』から“切断”されている。西洋人からすると確かに違和感はあろう。ベースは西洋のハイファンタジーであるのに,接ぎ木されたものは全く別の文脈から形成された,堀井の頭の中にあるストーリーである。この堀井のストーリーは「超人的な能力を持った勇者を主人公として,『全く違った自分』をプレイヤーに追体験させる」ものである。要するに「なりきり」の文化である。

ここまでは私も賛同するのだが,次の本書の主張は疑問符がつく。「なりきり」の文化は海外のRPGの文脈には無いため,海外では受け入れられていない,海外のRPGは多くは主人公が平凡でプレイヤーの視点の役割しか果たしていない,というのである。そんなに海外に「なりきり」の文化って無いか? RPGに限ればそうなのかもしれないが,残念ながら私に海外のRPGの知識はない。しかし,国内のRPGで比較するだけでも,FFの主人公に比べるとドラクエシリーズの主人公はむしろ至って無色透明な視点に過ぎない。「なりきり」の文化の理屈で言えば,本書の理屈で言えばFFの方が受けないはずだが,FFは普通に海外で受けている。FFシリーズのプレイヤーは主人公視点じゃなくて神の視点だから,という反論はありうるが,他はともかく7・8・10あたりは完全に「なりきり」では。10に至ってはそもそも「これは俺(お前)の物語だ」というフレーズがメインテーマである。

だから,ドラクエが海外で受けないのをストーリー面から考察するのであれば,要点は主人公ではなくストーリーそのものになるのではないかと思う。問題を主人公の性格に矮小化したのは残念である。

物語自体におけるドラクエらしさとは何か。実はこの後の本書が作品ごとに批評しているところで出てくる「不意に現れる暗い文学性」という点が強いのではないかと思う。ドラクエ3で最後に勇者一行がアレフガルドから帰れなくなるのは「セリフを考えるのが面倒だったから」と堀井が語っているが,真相がどうであれ,あれなんかは非常にドラクエらしさ漂うエンディングである。さすがに暗すぎるだろってくらい暗かったのがドラクエ7で,レブレサックなんかはある種の真骨頂だと思う(やり過ぎで嫌いな人も多いエピソードだけど)。この暗い文学性は堀井が学生時代から持っていたもので,彼が当時『ガロ』を愛読していたエピソードを引いているところは,本書の秀逸な点である。(ただしそれが海外で受けない理由なのかどうかは私には判断がつかないので,ここで論じるのは差し控えたい。そもそもドラクエが海外で受けない理由,ストーリー以外にもあるのでは。)

その他,この個別作品批評の部分は前半に比べると面白い指摘が見られる。結局のところ物語性を強くするには,無色透明な主人公は邪魔になる(主人公にも強い個性が必要になる)というジレンマが生じた。しかしドラクエはむしろ主人公の無個性さを強化する方向に動き,5以降10に至るまでどんどん主人公が凡人化していった点。それでも「主人公=プレイヤーによる物語の追体験」という構図を維持するために,戦闘中の主人公以外の行動をAIにしてみたり(4),主人公に人生の一大決断をさせてみたり(5),本当の自分を取り戻させてみたり(6)という工夫がなされていった点などは,なるほど確かに。

最後は9・10のオンライン化への挑戦について触れた後,(本書が発刊した2016年11月当時では未発売の)11でも文学的な意味での「ドラクエらしさ」が維持された作品が出てくるのではないか,と延べている。つまりは,「主人公=プレイヤーというなりきり」という核や,無個性にして主人公=プレイヤーを意識させるための物語上の工夫,ふと見え隠れする暗い文学性といった要素である。さて,その答え合わせは……ということは,私がドラクエ11をクリアしてから,また別に語ろうと思う。





この記事へのコメント
ドラクエが海外でウケない理由って、作品に流れる日本的な世界観が彼らの肌に合わないからではないでしょうか?……。

ドラクエって「和をもって尊しとなす」というような、日本的なユルくて平和で牧歌的な世界観を持っていると思うのです。
悪は徹底的に滅ぼし種族皆殺しにするというような激しさがなく、悪人・悪の魔物でも一度倒し懲らしめて相手が反省したならそれで勘弁してやるというような、ユルくていい加減な場面がドラクエではよく見られます。
特に5以降はモンスターを仲間にできるようになったり、逆に人間が悪の魔物に堕ちて主人公に立ちふさがるという展開も多くなりました。
また4のリメイク版ではラスボスであったデスピサロがお咎めなしのまま主人公一行に仲間入りするという6章が付け加えられました。
これもプレイヤーから批判も多かったですが、ある意味ドラクエらしいユルさいい加減さの極致ともいえます。

このように作中で散見されるユルさ、いい加減さ、といった牧歌的な日本らしさこそが、ドラクエが日本でウケて海外でウケない根本の理由じゃないかという気がします。
Posted by N at 2017年08月09日 01:50
それが海外で受けない理由かどうかの判断はつかないので差し控えますが,ウェットなストーリーが多いのと,どこか牧歌的というのはそうだなと思います。

妙にギャグっぽい技や装備が強かったりするのも,その1つですよね。
7の隠しボスの神様はその極致でしたね。

鳥山明の漫画絵が元というのも,その雰囲気に与える影響が大きいかもしれません。特に敵キャラ。
Posted by DG-Law at 2017年08月10日 22:31