2017年12月15日

『ゴッホ 最期の手紙』(原題:LOVING VINCENT)

公式サイト。「我々は自分たちの絵にしか語らせることはできないのだ」というゴッホの言葉を真に受けて,油彩画62,450枚を使ったアニメーション映画が誕生してしまった。制作者たちの頭はおかしい(褒め言葉)。完全に天国のゴッホからの「俺の言いたかったことはそういうことじゃない」というツッコミ待ちである。しかも,わざわざ実写の映画を先に撮影して,それを事実上の絵コンテとして世界中の画家125名に振り分けて油彩画を描かせたという謎の力の入れよう。私は字幕で見たのだが,結果的に「日本語吹き替えで見ると,元の俳優さんたちの痕跡が映画から完全に消え去る」という謎の面白みが浮上するので,本作は吹き替えで見る価値があるという点は先に言及しておきたい。

さて,衝撃の余りに冒頭で茶化してしまったものの,実際のところ,本作の着想としてゴッホが選ばれたのは,先述の格言以外にも大きな理由があり,それを踏まえると実は突飛な発想というわけではないということが言える。まず,ゴッホがポスト印象派に属する画家であり,大きくうねるようなタッチ(筆触)を特徴としたこと。西洋美術史はルネサンス以降,高い迫真性を持ってある一瞬を切り取ることを目標に発展していった。写真のような精密さを目指すわけだから,当然人為が見えるタッチは残さないように描くことになる。しかし,それは19世紀初頭の新古典主義までにほぼ達成されてしまったから,次の目標探しが始まる。その問いと解の1つが印象派による筆触分割で,あえてタッチを残しつつ異なる色を並べて画面に置くことで,「一瞬を切り取る」のではなく「光や水面が揺らめく数秒の動き」を切り取ることに成功した。モネの《印象・日の出》は印象派の名前を作ったその典型的な作品だが,モネのやりたかったことがよくわかる作品だろう。

ゴッホはそこからもう一歩進んだ。だからこそポスト印象派と呼ばれることになるが,それはタッチをさらに大きくうねらせたことと,補色を上手く用いた点にある。《星月夜》なんかが典型例だが,あまりにも大きくうねっているばかりに,星々や月の光や夜空の空気,そして本来は静止しているはずの糸杉までもが,生命を持って動いているように見える。補色による強烈なインパクトが,これを補強する。目に見えた印象や人間の感情を表現するには,見たままを描くだけではだめで,むしろ架空が入り込まなければならない。ゴッホが見出した架空は,ひとりでに動き出す大きなうねりであった。だからこそ実際に動かしてみる,アニメーションにする価値があるのだ。もっとも,ゴッホの持つ感情は力強すぎて,絵も歪んだ力にあふれていたがために,その奇妙な人生もあいまって,彼は伝説の狂気の画家というポジションを与えられることになってしまう。

補色という点では,もう一点注目すべきポイントがある。本作,主人公がゴッホの死の謎を追うというミステリー型のストーリーで展開するが,主人公の見た風景や,主人公自身はまさにゴッホの画風で描かれる。現実世界であるという範囲の中で最大限に補色が使われ,目が痛いくらい鮮やかである。しかし,主人公がゴッホ縁の登場人物たちに話を聞いて回ると,再現される回想シーンはモノクロ,すなわちゴッホ自身の目線で描かれる情景は全てモノクロで,しかもタッチの消された写実的な画風で表現された。これはとてつもなく怖いことだ。本作の作品世界においては,現実世界はゴッホの絵であるにもかかわらず,その創造主の目に映る世界はそれが否定されているのだから。言うまでもないが,写実的か否かだけで言えば,むしろ回想シーンの方が写実的である。モノクロではあるが,タッチが消されているのだから,写真に近い。しかし,それはゴッホが理想とした“絵”ではない。この対比がゴッホの恵まれない環境,悲憤に満ちたその精神世界を否応なく表現する。そして映画の最後の最後,そこで初めてゴッホ自身がゴッホの画風で描かれ,自画像が再現される。ゴッホの死の真相が明らかになったことで,ゴッホは初めて現実世界に回帰したのである。



というような難しいことを考えなくても,実際のところ本作は西洋美術史のミーハーファンとしてワーキャー騒ぎながら見ることが許される作品で,気を抜いて見ていると,ひょろっとゴッホの名画の場面が出てくるので,全く油断ならない。しょっぱなから《夜のカフェテラス》と《夜のカフェ》をぶっこんでくるし,最後は《種まく人》だし,当然《郵便夫ジョゼフ・ルーラン》も《タンギー爺さん》も《ガシェ医師》もあのポーズしてくれるし,《椅子》があの椅子なら《寝室》もあの寝室,そして《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》まで。何より《悲しむ老人》が来た時の「その発想はなかった」感。